令嬢は黒騎士様に拾われる4
掠れた声で名乗ったソフィアに返事をしたのは、ギルバートではなくもう一人の男だった。
「──レーニシュと言うと、レーニシュ男爵家の縁者かな?」
ソフィアはギルバートから殿下と呼ばれていたその男の身分に思い至り、息を飲んだ。金色の髪に涼しげな空色の瞳の王族といえば、王太子であるマティアス殿下しかいない。ソフィアは狼狽え瞳を揺らすが、ギルバートは興味無さげにソフィアを一瞥し、冷たい瞳で鼻を鳴らした。
「さっさと答えろ」
ソフィアは肩を震わせて口を開いた。声が震えてしまうのが情けなかった。
「私は……先代男爵の娘でございます」
ソフィアは深く頭を下げた。早くこの場を去らなければと思うのに、怖くて顔を上げることができない。
「ほう、そうか。──それで、何故男爵家の令嬢が、こんなところで寝ているのかな?」
ソフィアはぎゅっと目を閉じた。あまりに惨めな理由を、マティアスにもギルバートにも、知られたくはなかった。
「申し訳、ございません……。すぐに出て行きますので、ご容赦くださいませ」
ソフィアは脱いだまま近くに置いていた靴に手を伸ばす。少しでも早く逃げ出したかった。しかし伸ばした腕はギルバートに掴まれ、靴に届かない。腕を伸ばしたことで、昨夜できたいくつもの切り傷が露わになった。ソフィアは顔を上げ、非難の気持ちを込めてギルバートの瞳をまっすぐに見上げる。
「──お前……」
ギルバートは少し屈んだ姿勢でソフィアの腕を掴んだまま、目を見開いていた。ギルバートの右手首で、細い白金の腕輪が揺れる。何にそんなに驚いているのか分からず、ソフィアは毒気を抜かれて首を傾げた。
「あの……騎士様?」
控えめに様子を窺うソフィアの声に、ギルバートははっと手を離した。ソフィアは気まずさと恐怖感から、掴まれた手首にもう一方の手を添えて身動ぎする。ギルバートは地面に座ったままのソフィアを、頭の先から足の先まで観察するようにまじまじと見ていた。
「──ギルバート、何か見えたのか?」
ソフィアの代わりにギルバートに問い掛けたのはマティアスだった。ギルバートは首を振り、マティアスに向き直る。
「いいえ、逆でございます。──何も見えませんでした」
「……何も?」
訳の分からずにいるソフィアに、マティアスの興味深い目が向けられた。ソフィアは畏れ多く、足で地面を押してじりじりと後ろに下がる。動いたことで見えた足の傷に、ギルバートが目を細めた。
「──とはいえ、ソフィア嬢は暗殺者でも罪人でもなさそうだね。家出でもしてきたのかな? 早く帰った方が良いよ」
マティアスの言葉に、ソフィアはびくりと肩を震わせた。家出ではなく、帰る場所などどこにもない。
「そう……ですね。ご親切にありがとうございます。──では、失礼させて頂きます」
ソフィアは今度こそ靴を手に取り、まだ靴擦れが癒えないままの足に履いた。立ち上がり、トランクの重さに耐えるように両手で持つ。一歩踏み出せば、嫌でも身体中が痛んだ。それでも気取られないように奥歯を噛み締め、数歩足を動かしたソフィアの背後から、声が追いかけてくる。
「ソフィア嬢──帰る場所なんて、本当にあるのかな?」
マティアスの声だ。ソフィアはその核心をついた言葉に、思わず足を止めた。振り返ることなどできる筈がない。
「その様子じゃ、ただの家出って訳でもないだろう?」
ソフィアはトランクを地面に落とした。どさりと音がして、トランクが倒れたのが分かる。マティアスは喉の奥でくつくつと笑った。
「何があったかはギルバートにも分からないようだが──そんなに気になるのなら、私が命令しようか」
「殿下、何を──」
振り返ることのできずにいるソフィアだが、マティアスが心底楽しそうな様子は分かった。ギルバートの声は、困惑と焦りを含んでいる。ソフィアは両手をぎゅっと握り締めた。
「王太子マティアス・ライヒシュタインの名において、ギルバート・フォルスター侯爵に命ずる。ソフィア嬢を侯爵家で保護し、万一にも、行き倒れやスラムの住人になどなることのないよう──面倒を見てやりなさい」
ソフィアは目を見開いた。マティアスは事情も分からないままに、ソフィアを助けようと言っているのだ。まして、マティアスの言葉によれば、ギルバートは侯爵だ。慌てて振り返ったソフィアは、咄嗟に口を開いた。
「お待ちください、殿下──私は、侯爵様のお荷物にしかなりませんっ! そのような……そのようなお戯れは──っ」
ソフィアは急に大きな声を出したせいで小さく咳き込んだ。喉を手で押さえて俯き、足元を視界に収めると、そこにあったのはところどころが裂けたワンピースの生地だ。中の白いペチコートが覗いているせいで、より表面の鉤裂きが目立っている。
「──何なら正式に書面にでもしようか、ギルバート?」
「……必要ありません」
ギルバートは下を向いたままのソフィアの元に近付くと、足元に転がっていたトランクを持った。顔を上げると、眉間に深く皺を寄せたギルバートが、ソフィアを睨むように見据えている。
「来い。……早くしろ」
温度のない声でギルバートはソフィアに言った。ソフィアはトランクを奪われている以上、大人しく付いていくしかない。マティアスはギルバートとソフィアの様子を一瞥すると、にっと口の端を上げた。