令嬢は黒騎士様に近付きたい3
「──ギルバート様、お待たせ致しました」
階段を下りながら、ソフィアはギルバートに声をかけた。歩き易いように低めのヒールの靴が、かつんかつんとゆっくりとしたリズムで響く。先に支度を終えたギルバートは、サルーンでハンスと話をしていた。
夜会服姿は騎士服のときよりも艶めいて見える。マティアスの護衛を務めることの多いギルバートは、仕事以外で夜会に出席することはあまりない。その姿の隣に立つのだと思うと、近付いていく距離に鼓動が高鳴った。
「待っていない。女性は準備に時間が──」
ギルバートがハンスとの会話を止め、ソフィアへと顔を向ける。言いかけていた言葉が止められたことに、ソフィアは首を傾げた。ついに階段を下りきり、ギルバートの前へと歩み寄る。
「素敵なドレスをありがとうございます。似合っていますでしょうか……?」
綺麗なドレスと宝石。それに似合うだけの自分でいるか不安だった。正面から見上げると、藍色の瞳が揺れつつもソフィアに向けられた。
「ああ、良く似合っている。……綺麗だ」
ギルバートの耳が僅かに朱に染まったのを見て、ハンスが喉の奥で笑う。ソフィアは呟くように言われた褒め言葉が嬉しくて、頬が緩んだ。同時に身体に血が通ったような安心感に包まれる。
「ありがとう……ございます」
ふわりと自然に微笑みが浮かぶ。ギルバートの隣に並ぶことができるだけの自分に、少しはなれただろうか。
「ソフィアさん、とてもお綺麗ですよ。想像以上です。今日は頑張って、楽しんできてくださいね」
「はいっ」
ハンスの後押しがソフィアに勇気をくれた。認めてもらえる嬉しさに、心はまた少し強くなる。
「──行こうか、ソフィア」
ギルバートが左手をソフィアに差し出した。いつもよりもやや格式ばった姿勢で、目線がソフィアと同じくらいの高さになる。正面から見つめられて、心臓が一度大きく跳ねた。
「はい。今日はよろしくお願いします」
夜会にいる大勢の貴族の中で、ソフィアにはギルバートの手が頼りだ。レースの手袋に包まれた右手を、差し出された手にそっと重ねる。慣れた温度が気分を落ち着かせてくれた。
王城の入口手前で二人は馬車から降りた。着飾った貴族達が、次々と照らされた白亜の王城へと吸い込まれていく。その光景に、ソフィアは思わず手に力を入れた。
「大丈夫か?」
声をかけられ、はっと隣を見る。ギルバートが気遣わしげにソフィアに目を向けていた。
「……大丈夫です」
もう一度王城を見る。初めて入るそれは、これまでに見たどんな建物より美しく大きかった。
夜会が行われる大広間は一階にあって、開始を前に既に多くの人が集まっていた。中央では大きなシャンデリアが輝き、壁際には魔道具の明かりが付けられている。磨き抜かれた床がそれを反射し、室内をより明るく感じさせた。ソフィアは一歩入って、その光景に圧倒された。
「──すごいですね」
華やかに着飾った貴族達と、光と音の波。反射的に恐怖を感じたソフィアは、意識して深く呼吸をした。飲まれてはいけない。ギルバートの隣という場所に見合った行動をしなければと、自らに言い聞かせる。
「今日は新年最初の夜会だ。参加者も多い。逸れないように」
ソフィアは、ギルバートの左腕に控えめに手を掛けた。握っては皺になってしまうだろうと思うと、指先が緊張して固くなる。薄く笑ったギルバートが、そのままソフィアをエスコートして大広間の奥へと歩を進めた。
かつんかつんと音が鳴る。先程まで騒めいていた夜会会場で、靴音がはっきりと聞こえる違和感にソフィアは首を傾げた。ギルバートが眉間に皺を寄せる。
「すまない。──どうやら、余程私達に興味があるようだ」
その言葉に周囲の様子を窺い、ソフィアははっきりと後悔した。好奇の目を向ける者や、唖然とした表情で固まる者。近くにいる者同士でひそひそと話している者。これまでに向けられたことのない種類の注目に、足元がふらつく。慣れない靴の踵が揺れた。
「きゃ……っ」
周囲には分からない程度で僅かにバランスを崩したソフィアを、ギルバートが手を伸ばして支えた。引き寄せられて近付いた距離に、頬が染まるのが分かる。顔を上げると、ギルバートは眉を下げてソフィアを見ていた。
「珍しいだけだろうが──辛いか?」
「いえ。驚いただけ、です」
今のソフィアには、ギルバートしか見えていなかった。気付いて支えてくれた優しさが嬉しい。ギルバートが胸元から銀時計を取り出し、時刻を確認して口を開いた。
「そうか。そろそろ王族が入場する。そうすれば、あまり気にならなくなるはずだ」
その言葉通り、それからすぐに国王と王妃が入場してきた。王太子であるマティアスが、妃のエミーリアと共にそれに続く。
やがて国王の短い演説で、あちらこちらでグラスが交わされる。新年を祝う夜会が始まった。
通常の夜会と異なり、社交界デビューが行われる夜会は、最初にデビュタントが王族に挨拶をすることから始まる。名前の書いたカードをコールマンに渡し、読み上げられた順に国王と王妃と言葉を交わすのだ。そこで男は国王から白い花を受け取り、それをブートニエールとして襟に飾る。女は王妃から髪飾りに追加で花を一輪挿してもらう。それがその日デビューした者の証になるのだ。
ソフィアもまたカードをコールマンに渡し、列に加わった。今日の夜会でデビューする若者は、ソフィアを含めて三十人程度のようだ。挨拶の手前までは一人だけ同行できることになっており、他のデビュタント達は皆、父親か母親らしき人と共に並んでいる。
「──ギルバート様、申し訳ございません」
そのような場で、ギルバートにエスコートされているソフィアは間違いなく浮いていた。横にいるギルバートも居心地が悪いだろうかと思い、視線を落とす。
「いや、私は気にならない。お前はもっと自信を持って良い。──特に今日は、本当に美しいから」
ソフィアはこんな状況でも、ギルバートのその言葉で前を向くことができた。
ソフィアは気付いていなかったが、事実、ソフィアは大広間に入ったときから多くの人の注目を集めていた。それはギルバートの隣に居ても見劣りのしない、清楚で儚げな雰囲気の美しい令嬢としてである。今日がデビューのソフィアを知る者はこの会場には未だおらず、フォルスター侯爵であり黒騎士とも呼ばれるギルバートが、愛しむようにエスコートしていることも注目を集めた理由の一つであった。
レーニシュ男爵家の者も、ソフィアがここにいるなど思いもしない。彼らがそれに気付くのは、カードを読み上げるコールマンの声が朗々と響き渡ったときだった。