令嬢は黒騎士様に近付きたい1
翌日、昼休憩の終わりにソフィアはハンスから執務室へと呼び出された。間違いなく夜会についての話だろうと、何を言われても良い心算をして扉を叩くと、予想外に上機嫌なハンスがソフィアを待っていた。
「ソフィアさん、お疲れさまです」
「お疲れさまです、ハンスさん」
ハンスは執務室の来客にも使うソファーをソフィアに勧めた。少し悩むも、ハンスが向かい側に座ったのを見て腰を下ろす。
「夜会に出席すると聞きました。準備は私共にお任せ頂きますね」
当然のように和かに言うハンスに、ソフィアは首を傾げた。おずおずと昨夜ギルバートに言ったことと同じことを口にする。
「──あの。お金、私のお給料から引いてくださいますよね……?」
フォルスター侯爵邸で生活するには充分なだけ貰っている。まして保護され暮らしているソフィアは、これ以上何かをしてもらう訳にいかないと感じていた。正面からじっと見つめるが、ハンスは呆れたと言わんばかりに深く嘆息した。
「ギルバート様からもその話はお聞きしていますが──よろしいですか、ソフィアさん」
「は、はいっ」
ハンスは姿勢を正してソフィアを見た。長く執事頭を務めてきただけあって、貫禄がある。ソフィアも自然と背筋が伸びる。
「ギルバート様のエスコートで社交界デビューをするのに、安物のドレスで出席させられる訳がないでしょう! ただでさえソフィアさんは王太子殿下とも面識があるのです。──今期のデビュタントの中で最も輝くくらいでないと、私共は納得できません」
私共、とは侯爵家の人達を指すのだろうか。あまりに大きな話に、ソフィアは目を見張った。正直なところ、それほどまでは考えていなかったのだ。しかし言われてみれば、ソフィア自身もギルバートを素敵だと思っている。そして夜会では、隣に並ぶことになるのだった。
「あの。私……そんなに美人じゃないですし、礼儀作法だって」
十二歳までは家庭教師から学んでいたが、両親を亡くしてからは叔父母によって家庭教師も外されている。五年間もの間、ソフィアは本以外の知識に触れていない。
「大丈夫です。ソフィアさんの作法は、基本がしっかりしています。家庭教師もこちらで用意する手筈になっていますよ」
「そんな、そこまでして頂く訳には参りません……っ」
思わず口が開き、慌てて右手で口元を押さえて隠す。ハンスのあまりに親切すぎる話に、ソフィアは目を白黒させた。何か裏があるのではないかと疑ってしまいそうになる。
「──ソフィアさん。これはギルバート様のためでもあるのです」
ハンスは急に深刻な口調になった。まだ動揺しながらも、ソフィアは気持ちを落ち着けようとハンスの話に耳を傾けた。
「ギルバート様のため、ですか?」
「はい。ギルバート様は、侯爵家の権力やその魔力を利用することを目論んだ縁談を望んでおりません。まして特殊な能力を持っていらっしゃるのです。そんな理由で嫁いできた女性との結婚生活など、上手くいくはずがないでしょう」
「そんなっ、ギルバート様はお優しいですし……どんな方だって、側にいればきっと──」
それが当然であるように言われ、咄嗟に反論してしまう。言ってから後悔して、言葉を切った。
ハンスはソフィアにとって上司だ。それにこれでは、ギルバートを好きだと言っているようなものである。
「も、申し訳ございません……っ」
慌てて頭を下げた。しかしハンスはソフィアの予想に反し嬉しそうに微笑んで、言い聞かせるようにゆっくりと話を続ける。
「──頭を上げてください、ソフィアさん。そうですね……私達はそう思っていても、世間はそうは見ていないという意味です」
ソフィアは悔しくて唇を噛んだ。ハンスの話が事実なのだろうと思うと、胸が痛い。
「なので、ソフィアさん。ギルバート様とお似合いだと、夜会に参加する貴族の方々に見せつけてきてください」
「お、お似……っ?」
ハンスの言葉は、ソフィアの予想の範囲を大きく超えていた。頼まれたとんでもない内容に、かっと顔が熱くなる。恥ずかしさが先に立ったが、次にやってくるのは不安である。あのギルバートと似合いだと認めさせるなんて、今のソフィアにできるはずもない。ただ参加して少しでも外の世界を知ろうと思っていた夜会のハードルが、どんどん上がっていくような気がした。
「──そうです。これもギルバート様のため。私から、仕事の一環として依頼しましょう。夜会の準備や勉強の時間も、労働時間として数えます。残り二週間と少しですが、立派な淑女として夜会に出席できるように頑張りましょうね」
「は、はい……」
ソフィアはあまりに好条件すぎると思いながらも、ハンスの勢いに押されて頷くことしかできなかった。しかしギルバートのために何かできるのだと言われてしまえば、ソフィアに拒むことなどできるはずがない。こんなにも感謝し、こんなにも深く想った人は、初めてなのだから。覚悟を決めるように、ぐっと両手を膝の上で握った。
「あの、ありがとうございます。私、頑張るので……よろしくお願いしますっ」
深く頭を下げる。ソフィアらしくもない、大きすぎる役割に目眩がしそうだった。それでも逃げ出したいとは思わない。昨日ギルバートに話したことは全て本当の気持ちだった。怖くて仕方がなかったけれど、少しでも同じものを見たい。ソフィアの中の何かが、もう戻ることはできないと警鐘を鳴らしていた。