令嬢は黒騎士様のことが知りたい12
二人きりで過ごすギルバートの私室は、いつだって穏やかな時間が流れている。ときめく胸が鼓動を早めることこそあれ、ソフィアはその時間を大切に思っていた。しかし少し前のギルバートからの提案以来、どこか気まずい雰囲気である。
「──ギルバート様」
ソフィアは覚悟を決めて口を開いた。カリーナと話をしてから、更に数日が経っている。自分でこれからのことを決めるのは怖くて、これまでよりずっと色々なことを考えた。それでも最後に心に残った大切なことは、一つだけだ。
「何だ?」
軽く返事をしたギルバートは、しかしソフィアの表情を見て口を引き結んだ。きっと、答えを決めたことに気付いたのだろう。ソフィアの覚悟を後押しするように、重ねていた手が握られる。
「私……行きたいです、夜会」
その答えにギルバートは一度目を伏せ、まっすぐにソフィアの目を見る。その藍色の瞳にもまた、強い意思が宿っていた。
「分かった」
「ありがとうございます。あの……ドレスとか買いに行かないとなんですけど──」
一緒に行ってくださいますか、と続けようとした言葉は、ギルバートによって阻まれた。人差し指を立てた右手が、ソフィアの唇に一瞬触れる。その感触に頬を染めた。
「私と夜会に行くんだろう」
「あ、あの……っ」
「なら、今回は私に任せてくれ」
表情が変わらないままのギルバートに小さな不安が湧き上がる。まさか贈ってくれようとしているのではないか。そんなことはさせられないと、ソフィアは慌てて口を開いた。
「あのっ、お給料から引いてください!」
ドレスのような高価なものを贈られる関係ではないはずだ。ギルバートは僅かに目を見開いて、すぐに表情を緩めた。
「──ソフィアの給料なら把握している。私がエスコートするのだから気にしなくていい」
それは安いドレスで隣に立たれても困るという意味だろうか。確かにあまりお金はないが、それでも安価なドレスなら買えるだろうと思って決めたのに。ソフィアは困惑して視線を彷徨わせた。
「あの、そこまでして頂く訳には」
「構わない。──私の稼いだ金を何に使おうが私の勝手だ」
ギルバートの理屈はやや横暴ではあるが、ある意味では正しい。
「ですが……」
それでも珍しくソフィアは食い下がった。以前貰ったワンピースだって、ソフィアには買えないものだったはずだ。カリーナに教わって物の値段を知ったソフィアにとって、ドレスは未知の領域だった。まして貴族が夜会で着るようなドレスとなると、安物でも使用人の一月分の給料でやっと買えるくらいらしい。
「──ハンスに話しておく」
ギルバートは溜息混じりに言った。分かってくれたのだろうか。ソフィアはその言葉にほっとして息を吐く。
「よろしくお願いします」
「だが、何故行こうと思ったんだ。私から話したことだが、まだ怖いだろう?」
ギルバートの率直な問いに、ソフィアは一度緩めた気持ちの糸を張り直した。聞かれるかもしれないと思っていたが、実際に面と向かって答えるのには勇気がいる。
「あの……」
ソフィアは自由な左手をぎゅっと握った。俯いてしまいそうになるのを堪え、顔を上げる。
「──私、ギルバート様のこと……もっと知りたいんです」
藍色の瞳が驚いたように見開かれた。一度話し始めてしまえば、堰を切ったように想いが溢れてくる。胸の中に押し込めていたのは、隠していたはずの願望だ。
「ギルバート様の見ている世界に、近付きたいんです。守られてばかりじゃ駄目なんです。私が──私がギルバート様のお側にいるには、もっと頑張らないと……駄目、なんです……っ」
いつの間にか視界がぼやけていた。ギルバートの姿も滲んで、今どんな表情をしているのか分からない。迷惑かもしれない気持ちを曝け出していることに気付いていながら、ソフィアは言葉を止められなかった。
「だから……っ。だから怯えてちゃ駄目で、強くなりたくて──だけど、ギルバート様はお優しい、から」
ぽろぽろと涙が零れる。辛いのではない。ただ心の中がいっぱいで、言葉にしていない想いが涙になって次々と溢れていくようだった。ギルバートが好きだ。守られているだけだと気付いていて、いつかは離れる日が来るかもしれなくても、恋心を捨てることはできなかった。
「だから私……っ」
少しでも貴方のことが知りたい。そう続けようとしたソフィアは、強く腕を引かれて言葉を飲み込んだ。引き寄せられ、ギルバートの腕の中に抱きとめられる。繋いでいた手よりも熱い体温が、密着した身体を通して直接伝わってきた。ソフィアの涙が、ギルバートの服に落ちて染みになる。
「ギ、ギルバート様……」
名前を呼んで僅かに身動ぎをするが、ソフィアを抱き締める腕の力は弱まるどころか増していく。ギルバートの背に腕を回すことは躊躇われた。次第に頬は熱くなり、涙は止まっていく。
「──ありがとう、ソフィア。お前が私に親しもうとしてくれることが、私は嬉しい」
ギルバートがソフィアの耳元で囁いた。低く艶のある声が鼓膜を揺らす。どこか甘さを含んだそれは、ソフィアの心に直に響いた。ゆっくりと身体の力が抜けていく。
「無理はしなくて良い。守ると誓った。……私も、お前が大切だ」
言葉と共に額に柔らかな感触が触れた。それがギルバートの唇だと理解したときには、既に離れた後だった。風邪でもひいたかのように身体が火照っていく。落ち着こうと意識して深く呼吸をすると、ギルバートが使っている石鹸の香りがした。
「──あ……っ」
反射的に漏れた声に、それまで抱き締められていた腕の力が弱まった。ゆっくりと離れるにつれ、互いの身体の間に空気が流れ込んでくる。その温度の差に、上がった体温を否が応にも理解させられた。ソフィアはギルバートの手によって、支えるように立ち上がらされる。
「今日はもう戻れ。夜会の件はハンスに伝えておく」
「──ありがとうございます」
ソフィアはあまりの恥ずかしさに、顔を上げることができなかった。平静な声に戻っているギルバートを羨ましく思いながらも、就寝の挨拶をして部屋を出る。
「穏やかな幸せが似合うと言ったのは、私じゃないか──」
ソフィアが去った後の部屋で、ギルバートは一人頭を抱えた。それは確かにソフィアの幸せを思い、決めたことだったはずだ。自身の行動の矛盾に気付きながらも、止められなかった衝動。それが恋故のものだと、正面から事実を突き付けられたようだった。