令嬢は黒騎士様のことが知りたい11
それから数日間、ソフィアはギルバートからの提案について考えていた。ずっとこのフォルスター侯爵邸の中で、外と関わらずに生活していく──それは実はソフィアにとって、とても甘やかで欲望に忠実な選択だった。外へ出れば理不尽に傷付けられることもある。犯罪や戦争もある。そんな現実を、ギルバートと関わることで知ってしまった。
ソフィアは手元のランプを丁寧に磨きながら、そのガラスに映る歪んだ自身の姿を見つめる。侯爵家では旧道具と呼ばれている、アンティーク調度だ。
「……一人で紅茶も淹れられないメイドなんて」
誰もいないギルバートの執務室で、ソフィアは一人溜息を吐いた。最初の夜以来、ギルバートはソフィアが何も言わずとも、食事が終わりに差し掛かるとポットの湯を沸かしてくれている。何もできず閉じ篭っているという意味では、レーニシュ男爵邸にいた頃と何も変わっていないのではないか。場所がフォルスター侯爵家に変わっただけだ。
ぐるぐると回る思考は、また夜会についてのことに戻ってくる。新年を祝う夜会は、この国において最も盛大な夜会の一つだ。貴族達が華やかな夜会服に身を包み、ダンスに興じ恋に落ちる──絵本の中ではそう描かれていた夜会というものは、大人向けの小説の中では腹の探り合いや駆け引きの場として使われていた。おそらくそれは、どちらも事実なのだろう。絵本の世界への憧れはあるが、そこで一人の大人として立ち回る自身の姿をイメージすることはできない。レーニシュ男爵家の人達と会うであろうことも含めて、ギルバートの迷惑になりはしないだろうかと不安だった。
「──ソフィア、お昼行くわよー!」
ランプを執務机に戻して家具を磨いていると、扉からカリーナが顔を出した。考え事に夢中で、昼の鐘を聞き逃していたらしい。ソフィアは頷いて雑巾を持ち、執務室を出た。
もうすっかり冬になってしまった裏庭を使う者は誰もいない。ソフィアとカリーナも例に倣って、使用人ホールのテーブルに昼食を広げた。
「カリーナ、呼びに来てくれてありがとう」
眉を下げて言うと、カリーナは少し心配そうにソフィアを見た。
「別に良いけど──最近ソフィア、ぼーっとしてるから心配よ。何かあったの?」
「あったと言えば、あったんだけど……」
友人の指摘は的確だ。しかし今の悩みをそのまま口にするのは躊躇われた。魔力がないことは勿論のこと、夜会の招待のことも含めて、昼食の話題としては重過ぎる。今のままカリーナの優しさに甘えて、相談して頼ることが正しいとは思えなかった。
「なによ、言えない感じ? 別に無理にとは言わないけど、大丈夫なの?」
少し拗ねたような口調でカリーナは言う。ギルバートもカリーナも、こんなにもソフィアを気にしてくれるのかと嬉しく、同時に申し訳なくも思う。
「──あのね、私、何もできてないなって思ってたの」
曖昧な言葉で誤魔化しつつ、手元のサンドウィッチを口に含んで咀嚼する。香ばしいベーコンと卵の味が広がって、少し元気をもらえた気がした。スープはコンソメがベースになっていて煮込んだ豆が入っている。日によって味が違うのは、料理人達が交代で作っているかららしい。彼らは向上心を持って仕事に取り組んでいる。
「え。ソフィアの仕事はいつも丁寧だから見習いなさいって、私こないだメイド長に叱られたわよ」
「……カリーナ、何したの?」
おそるおそる聞くと、カリーナはもう過ぎたことだとからっと笑った。
「それがね、使用人会議に出す紅茶を間違えちゃって──」
執事頭やメイド長、料理長などの侯爵家使用人の役職者会議で、茶葉を間違えて煮出し、とても渋い紅茶を出してしまったそうだ。
「それは」
ソフィアは言い淀んだ。カリーナは来客対応をするパーラーメイドが主な仕事だ。家人が少なく来客も少ないフォルスター侯爵家なので、他の雑務もこなしているだけに過ぎない。その仕事内容からして確かに叱られるだろうと、思わず視線を下げる。
「ま、その後お湯で割って出し直したけど」
「えっ! ──それ、もっと怒られない?」
「それが、結構気付かれないものよ。その時は失敗して落ち込んだけど、誰も気付かないからなんだか可笑しくって」
明るく笑うカリーナは、もう間違えないから大丈夫だと言ってサンドウィッチをぱくぱくと食べている。ソフィアの悩みとは関係のない話だったが、その態度が面白くて笑い声を漏らした。
「ふふ、そうね」
「だから、ソフィアも何したか知らないけど元気出して! 昨日より成長すればそれで良いのよ、……多分」
少し自信なさげな表情になるのが愛らしい。ソフィアはカリーナが励ましてくれたのだと気付いた。いつも優しいカリーナに甘えてばかりだと、ぐっと気を引き締める。
「──ありがとう、カリーナ。私、もっとちゃんと考えてみる。これからのことも」
目の前のことに必死で、ギルバートの側にいたくて、強くなりたいとばかり願って、何をすれば良いのかを考えていなかった。分からなかったと言ってもいい。世間知らずで何も知らないままで、守られていることで得られるものは何だろう。ソフィアはスープを飲んで小さく嘆息した。
「私にできることがあれば言ってね。できることなら力になるわ」
カリーナは握った手で自身の胸元を叩いた。ソフィアはそれに頷き、軽くなった心とひらけた視界でもう一度考えてみようと決心する。
「うん。……いつも頼りにしてごめんね」
「ううん、良いのよ。ソフィアが笑ってる顔、私結構好きだもの」
食べ終えた食事を籠に纏めて、準備室から厨房に返す。手を振るカリーナと別れて、ソフィアは執務室で仕事の続きに戻った。