令嬢は黒騎士様のことが知りたい10
夜食はとても美味しかった。ギルバートの食事にあったスープをアレンジしたものだが、スパイスが効いていて、冬でも身体が温まる味だった。
そして今ソフィアは、一度自室で着替えを終え、ギルバートの私室へと向かい、浴室を借り──目の前の扉を開けるのに躊躇している。ギルバートのことが心配だったが、話が何なのかを聞くのは怖かった。
「──だけど、逃げる訳にもいかないもの……」
正面から話がしたいと言われている。逃げ場がないことは分かっていた。ましてここは、ギルバートの部屋だ。ソフィアは思い切って扉を開け、寝室へと足を踏み出した。おそらくギルバートは、隣の部屋にいるだろう。勢いのままにその先の扉を開けると、いつも通り部屋着姿のギルバートがソファーに座っていた。ゆっくりと視線が向けられる。
「ソフィア」
誘うようなその声に、逆らうことなどできるはずがない。ソフィアは素直にギルバートの隣に腰掛けた。ギルバートの左手が髪に触れる。濡れていた髪が乾き、ふわりと落ちた。いつものことだが、その仕草と擽ったさにとくんと胸が鳴る。
「ギルバート様、お待たせ致しました」
ソフィアは覚悟を決めてギルバートを見る。座面に置いた右手の上に、ギルバートの左手が重なった。やっと触れた体温が心地良い。少しして、やや言い辛そうにギルバートが口を開いた。
「──私とお前宛に招待状が届いた。王城の、年始の夜会だ」
予想外の話に目を見張った。そもそもソフィアは、社交界デビューすらしていない。ましてギルバートと共に出席するなど、望んでいいことだとは思えなかった。
「そんな、私なんかが……」
素直に口にすれば、寂しさよりも先に心の痛みがソフィアを襲う。今のままでは釣り合うはずがないのだ。それに人が多い場所は、やっぱり怖い。
「そんな言い方をするな」
ギルバートはしかし冷静に言葉を返した。ソフィアは視線を彷徨わせ、重なっている手に向ける。ギルバートの大きな手が、ソフィアのそれを覆っていた。守られている自分に自信がなくて、どうしても言い訳を重ねてしまう。
「ですが、私は社交界デビューもしておりません」
「この夜会でデビューさせてはどうかとの誘いだ」
マティアスからだろうかと思った。この国で社交界デビューに合った夜会は、年に二回ある。王城で行われる、シーズンの始まりの秋の夜会と、新年の訪れを祝う夜会だ。そこで国王と王妃に挨拶し、白い花を髪に挿してもらうことで、一人前と認められたことになる。
「用意もできませんし……」
夜会に着ていけるようなドレスはなく、礼儀作法やダンスにも自信はない。それに、アルベルトやビアンカ、レーニシュ男爵夫妻もいるだろう。そんな場に出ていくことで、何か良いことがあるとは思えなかった。思わず俯いたソフィアを、ギルバートの真摯な声が揺さぶる。
「──ソフィア、聞いてくれ。私はこのままお前がこの家の中にいても良いと思っている。ここにいる限りは安全だ。……だがそれは、お前の世界を狭めることになるだろう。外にいても、側にいれば私が必ず守る。事情は一度忘れて、どうしたいかを聞かせてくれ」
顔を上げると、ギルバートの藍色の瞳も揺れていた。ソフィアはそれをじっと見つめ返して──目を伏せた。今の自分に、即答できるだけのものは何もない。
「ギルバート様、あの……」
どう答えていいか分からず、言葉は中途半端に途切れる。ギルバートの小さな溜息が、耳に残った。
「会いたくない人もいるだろう。──年始の夜会だ。少し考えて決めていい」
ソフィアを甘やかすようなその言葉は、ギルバートには珍しくどこか自信無さげな声だった。僅かに首を傾げたが、軽く頭を撫でて誤魔化されてしまう。
「ありがとう……ございます」
お礼を言うと、ギルバートはソフィアの手を離した。右手が行き場を失ったようで、少し寂しい。
「──今日はもう遅い。寝た方が良い」
背中を軽く押され、ソフィアはギルバートと共に立ち上がる。続き部屋の扉を抜けて、廊下に繋がる扉に手を掛けた。しかし今日のことが気にかかり、手を離して振り返る。目の前にいるギルバートはいつもと変わらない表情にも見えるが──やはり少し顔色が悪いようだ。
ソフィアは心配から、手を伸ばしてギルバートの頬に触れた。予想より冷たい皮膚が、熱を持ったままの右手の指先に触れる。
「ギルバート様、やっぱり今日はお疲れのようです。何かございましたか?」
上目遣いで窺うようにギルバートの瞳を覗き込む。ギルバートは目を見開き、右足を引いてソフィアから距離を取った。何かを躊躇うように視線が逸らされる。ソフィアの手が、ギルバートから離れて落ちた。
「──すまない」
低く響く声が鼓膜を揺らし、ソフィアを現実に引き戻した。自らがした大胆過ぎる行動に驚いて、かっと頬が熱くなる。戸惑っているであろうギルバートを見るのが怖い。慌てて俯き、顔を隠した。
「わ、私……ごめんなさいっ!」
謝って済む問題だろうか。しかしギルバートが心配で、少しでも理解したいと思ったのは本当だ。まさか自分からギルバートの頬に触れるなど──そんなことをする日が来るなんて、思ってもいなかった。恥ずかしくておかしくなってしまいそうだ。
黙ったままで俯いていると、ソフィアの頭が少し雑な手付きで撫でられた。髪をぐしゃぐしゃとかき回されているようで、擽ったい。
「──大丈夫だ。心配してくれてありがとう」
暖かい声にはっと顔を上げると、ギルバートは柔らかな表情で、目尻を下げて微笑んでいた。その表情に安心する。分かり易く早くなっていく鼓動が煩い。
「おやすみなさいませ……っ」
慌てて一礼し、ソフィアはギルバートの部屋を飛び出した。今日のことがぐるぐると頭の中を回っている。最後の微笑みが頭の中から消えてくれない。跳ねる心臓を抑えようとしながらも、ギルバートの問いへの返事はまだ決められないままだった。