令嬢は黒騎士様のことが知りたい8
「ギルバート様、何があったのですか」
ギルバートの私室に着くなり、ハンスは騎士服の上着を脱いでいる途中のギルバートを問いただした。先程の様子は明らかにおかしかった。まるで、ソフィアを少しでも外に出したくないとでも思っているような行動だ。
話しながらも椅子の背に置かれている上着を手に取り、丁寧にハンガーに掛け直す。
「エラトスに私の噂が伝わった」
詳細を語らないのはギルバートの癖だ。幼い頃から変わらないそれに、ハンスは何度苦労させられただろう。
「それは……ソフィア嬢の存在が、という意味でしょうか?」
「いや、猫を──だ」
珍しくはっきりと言わず視線を逸らしたギルバートに、ハンスは小さく嘆息する。噂が大きくなったことに対しての罪悪感はあるようだ。自分がどれだけ注目され、恐れられながらも人を惹きつける存在であるか、自覚していない彼らしい失策である。そして、ハンスはギルバートがどれだけソフィアを気にかけているかを知っていた。執事頭として働いていれば、自ずと見えてくることもある。
「左様でしたか」
猫としか伝わっていないのならあまり大きな問題ではないとハンスは思った。それどころか、その正体が年頃の令嬢であると知られても構わない。これまで相手がいなかったことの方がおかしいのだ。ハンスはギルバートがそうは思っていないことを知っていて、その言葉を飲み込んだ。ギルバートはちらりとハンスに目を向け、首元の釦を外していく。着崩した騎士服姿は独特の色気があり、どんな姿でも整って見える主人の姿を羨ましく思った。
「──何かあったか」
ギルバートからの問いに、ハンスは頷いた。持ってきていた二つの手紙を取り出す。今日のギルバートにとっては、更に悩ましいものだろう。
「大旦那様と大奥様からのお手紙と、マティアス殿下からの夜会の招待状です」
あまり表情が変わらないと言われるギルバートだが、見慣れているハンスには分かる。今は間違いなく、不機嫌なときのそれだろう。
「殿下から、夜会の招待だと?」
「お聞きになっていませんでしたか」
「ああ。しかしこちらに届けるとは──」
ギルバートは当然のようにマティアスからの招待状を先に開封する。中から取り出したカードと添えられたメモ書きに目を通すと、分かり易く眉根を寄せた。
ハンスはそこに書かれた内容を知っている。もう来月に迫っている新年を祝う夜会で、ソフィアを社交界デビューさせてはどうか、という内容である。知っているのは侯爵家宛の手紙が別にあったからだ。侯爵家宛の手紙は、領地にいる先代侯爵夫妻からハンスが開封して良いと許可を得ていた。そちらは開封後に領地へと送り直している。
「如何なさいますか」
その問いにギルバートは返事をしなかった。つい先程まさにソフィアを邸内に引き込んだ姿を見ているため、ハンスにも指摘するのは躊躇われる。
ギルバートはソファーに座り、もう一つの手紙を開封した。先代侯爵夫妻──領地にいるギルバートの両親からの手紙だ。
「──ハンス、何を言った?」
「何を、と仰いますと?」
流石にこちらの中身は把握していないハンスは、首を傾げるしかない。ギルバートは額に手を当てて深い溜息を吐くと、背凭れに寄り掛かった。手紙が放るようにテーブルに置かれる。分かり易く狼狽した姿を見せるのは珍しい。一体何が書いてあったのだろうか。
「中を見てみろ」
許しを得て手紙を手に取る。息子相手に書いたにしては硬い文章のそれは、時候の挨拶から始まり、領地の近況に触れ──後半はギルバートの結婚を急かす内容でびっしりと埋められていた。ご丁寧にも、気に入った娘がいるのなら身分は問わないとまで書かれている。
「これは……」
ハンスは思わず頭を抱えそうになった。ギルバートはもう二十五歳だ。侯爵家当主を名乗っていることを考えると、婚約者すらいないのは確かに異例のことである。しかし周囲からその特異な能力で恐れられており、更にギルバート自身が特定の異性に執着を見せなかったため、両親もこれまで急かすことはなかった。諦めていたと言っても良い。先代侯爵には弟がおり、今は子爵を名乗っている。ギルバートに相手が見つからなければ、将来はそちらの息子に継いでもらえば良いとさえ思われていた。
「確かにソフィアのことは報告していたが。──何故こうなる?」
おそらくギルバートが女の名前を挙げたことがなかったからだろう。ハンスの元にも一度手紙が届いたため、正直にありのままを書いて返事をしている。
しかし、侯爵家の人間の総意として、ソフィアにこのままギルバートの側にいてほしいと思っていることは事実だ。いつからか感情を見せなくなり、更に言葉数も少なくなった、かつては可愛らしかった少年。不器用ながらも人間らしさを取り戻していく様を見ているのは、使用人として嬉しいことだった。
「問題がおありですか?」
「無いはずがないだろう」
ギルバートの表情は見えない。ハンスはしばらく無言のまま悩んだ。ギルバートがソフィアを大切に守りたいと思っていることは知っている。そして、自身の側に置けば不幸にしてしまうだろうと、未来を望まないようにしていることも察していた。しかしそれはギルバートにとって良いことなのだろうかと疑問だった。厳しそうに見えて、実は誰より優しい主人だ。何もかもを諦めてほしくない。ハンスは覚悟を決めて、何度も躊躇った言葉を口にする。
「お言葉ですが、ギルバート様。──では、ソフィア嬢をどうなさるおつもりでしょう」
「……彼女には、穏やかな幸せが似合う」
ギルバートは深い溜息と共にその言葉を吐き出した。おそらくマティアスにも同じようなことを聞かれたのだろうとハンスは予想した。そうでなければあんな手紙は届かなかったはずだ。平静な振りをして、できるだけ核心を突くように言葉を選ぶ。
「ですが、守るために侯爵邸から出さずにいては、新たな出会いもございません。ずっと閉じ込めておくおつもりですか?」
「それは──」
ギルバートは背凭れから身体を起こした。何かを探るように揺れる瞳が、ハンスの方を向く。こんな表情を見るのはいつ以来だろうか。ギルバートをこんなに頑なに変えてしまったものの中には、ずっと側にいたハンス自身も含まれている。
「隠しておくだけが守る方法ではございませんよ。特にあの子のことは──大切に思っていらっしゃるのでしょう?」
今ギルバートを人間らしくしているのはソフィアだと、ハンスは確信していた。過去の後悔を取り戻したいと思う気持ちが、どうしても関係のない少女に期待を寄せてしまう。
それにソフィアがギルバートに好意を抱いていることなど、フォルスター侯爵家で働く者なら誰もが知っている。高望みをしないままに、必死で前を向いてギルバートの側にいようと努力する姿には好感が持てた。本当はあの少女が感じているような障壁などない。壁を作っているのは、彼等自身だ。
「……すまない。少し考えさせてくれ」
目線を落としたギルバートが、呟くように言った。
「申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」
頭を下げて謝罪の言葉を口にするも、ハンスは主人の幸せを願わずにはいられない。下を向いている顔は、とてもギルバートに見せられたものではないだろう。歳をとって、涙脆くなっただろうか。
「いや──ありがとう、ハンス。食事をしてくる」
顔を上げずにいるハンスの側をギルバートが通り過ぎていく。その気配に、いつまでも子供だと思っていた、しかし主人として尊敬していたギルバートの、確かな成長を感じた。扉の閉まる音がして、ハンスはようやく姿勢を戻す。少しでも幸福な未来が訪れるようにと、一人溜息を漏らした。