令嬢は黒騎士様のことが知りたい7
その日ソフィアはメイドの制服のまま、ギルバートの帰宅を待っていた。今日から一週間、ギルバートの帰宅の当番になったのだ。当番はギルバートを出迎え、食事の配膳をするのが仕事だ。夜食が出ると聞いていて、それが少し楽しみだった。そして何より、帰宅して最初にギルバートの顔を見られるという楽しみもある。
ハンスと共にサルーンで待機していると、馬の足音が聞こえてきた。きっとギルバートだろうと、早まる鼓動を抑えて玄関の扉を開ける。ギルバートは珍しく馬車ではなく、騎馬で玄関前に乗り付けた。初めて出会ったときに乗っていた黒毛の馬だ。ハンスは溜息を吐いてギルバートの元へと駆け寄った。
「──ギルバート様、馬車はどうされました?」
既に馬から降りたギルバートから、ハンスがあまり多くない荷物を受け取る。外は暗く、ソフィアの位置から二人の表情は見えない。声だけが扉の前にいるソフィアの元まで届いた。
「後から来るように伝えている」
なんとなくいつもより硬く低い声に、ソフィアは耳を澄ませた。
「左様ですか。お疲れ様でございました」
「……なんだ、珍しいな?」
話しながら近付いてくる二人に、ソフィアは扉を開いたままで押さえる。玄関の明かりが、ギルバートの銀の髪を暖かい色に照らした。それまでよく見えなかった表情も見えてくる。眉間に刻まれた皺と引き結ばれた唇に、ソフィアの心がざわめいた。
「珍しいのはギルバート様です。お忙しかったのですか? お顔色があまりよろしくありません」
「いや……ソフィアはどうしている?」
ハンスがその問いに片眉を上げた。気付いていなかったのかと言わんばかりに、ソフィアに視線を向けてくる。どきりと鳴った胸を抑え、ソフィアは頭を下げた。
「──お帰りなさいませ、ギルバート様」
慣れない挨拶が少し恥ずかしい。顔を上げると、ギルバートは目を見張ってソフィアを凝視していた。ハンスの言う通り、確かに顔色はあまり良くないようだ。疲れているのか、何かがあったのか、分からなくて不安になる。
「あ、ああ……ただいま」
返された言葉の柔らかさに安堵する。僅かに微笑んで返すと、眉間の皺が消えないままのギルバートに手首を掴まれた。驚きに目を見開くが、ギルバートは構わずぐいと腕を引く。突然の行動に足を縺させながらも、ソフィアは邸内に引き込まれた。ハンスが閉まる直前の扉の隙間から、慌てて駆け込んでくる。
「ギルバート様、何事ですか!」
主人とはいえ幼い頃から見てきたギルバートに対して、ハンスも幾らか気安いのは知っていた。しかしはっきりと不満を伝えるのは珍しい。ギルバートも自覚していたのか、ソフィアの手首を掴んだ右手を見下ろし小さく嘆息した。
「すまない。──ハンス、後で話がある」
硬い声のままのギルバートに、ハンスは表情を険しくして頷いた。ギルバートの右手が、いつもより冷たいことが気になった。白金の腕輪が無機質にサルーンの明かりを反射している。いつも手を繋ぐときは左手だった。右利きのギルバートが右手でソフィアを掴むのは珍しい。踏み込めないでいるソフィアは、どうして良いか分からずに俯いた。
「ソフィア、待っていてくれてありがとう」
ギルバートの右手が手首から離れた。その手がすぐにソフィアの頭に触れる。目を上げると、ギルバートはどこか悲しげな顔をしていた。
「ギルバート様……?」
不安から上げた声を遮るように、ギルバートはソフィアの頭を撫でた。まるで壊れ物を扱うような手つきに、それどころではない何かがあったのだろうと思っても、頬が熱を持っていく。ソフィアは手のひらで制服のスカートに触れた。
「食事の支度を頼む。ハンスと話してすぐに行く」
その言葉でソフィアはここがサルーンで、ハンスもいることを思い出した。今はまだ仕事中だ。自らの失態に気付き慌てて姿勢を正す。三人の他に誰もいないことが、唯一の救いだった。
「──は、はいっ」
慌てて返事をすると、ギルバートは僅かに口元を緩めた。すぐに踵を返して階段を上がっていき、ハンスがその後を追う。ソフィアは一人、その背中を見送った。先程の表情が気がかりだったが、後で話ができると思い直して食堂へと向かう。昼間のうちにカリーナとメイド長から教わった通りに準備室でカトラリーを選び、料理に合わせて並べていった。
ギルバート一人の食事は、料理を全て最初に出してしまうらしい。確かに話す相手もいなければ、ゆっくり食べる利点はないように思う。まだ慣れないソフィアにとってはありがたかったが、広い侯爵邸の食堂に一組だけ置かれたカトラリーが少し寂しく感じた。
「これで、良し……っと」
準備ができてしまえば、ギルバートが来るまでソフィアにすることはない。一人きりで食堂の端に控え、直すまでもない制服を整える。
ギルバートがやってきたのは、それから三十分程の時間が過ぎた頃だった。