令嬢は黒騎士様に拾われる2
「ソフィア、貴女とアルベルト様の婚約は、たった今破棄されたわ」
遠慮なくソフィアの部屋に入ってきたのは、レーニシュ男爵と夫人、そしてビアンカだった。
「──ええ、存じております」
ソフィアは憔悴した顔で俯く。演技などしなくとも、ソフィアは落ち込んでいた。また涙が出てしまいそうで、必死で堪える。
「ふん、なら話が早いな。──さっさと出て行け、この役立たずが!」
レーニシュ男爵はソフィアの肩を強く押した。細いソフィアの身体は、いとも簡単に床に叩きつけられる。床についた手が痛みでじんと熱を持った。
「やぁだ、お父様。役立たずだなんて。お荷物の間違いでしょう?」
ビアンカがその美しい顔を歪めて笑う。男爵夫人もビアンカの言葉に笑い声を上げた。
「本当だわ、貴方。こんな子の為にこれまで男爵家のお金を使ってきたなんて……本当、馬鹿なことをしたものよ。──この家の物は、一切の持ち出しを禁じます。その身一つで、何処へでも行っておしまいなさい」
ソフィアは唇を噛んだ。こうなるだろうことは分かっていたが、それでも死んだ両親との思い出が残るこの男爵邸を離れるのは辛い。今より優しくて、綺麗に手入れが行き届いていて、領民とも仲の良かった──ソフィアの愛したレーニシュ男爵家。叔父が当主となってから、その財産が食い潰されていることを、ソフィアは知っていた。だからこそ伯爵家嫡男のアルベルトと婚約しているソフィアを追い出すことはないだろうと、高を括っていたのだ。役立たずで、お荷物な──何もできないソフィアでも、捨てられることはないだろうと。
「──さあ、今すぐ出て行くんだ。無駄に怪我をしたくなければな」
レーニシュ男爵は冷たく見下ろし言い放った。ソフィアはその言葉に肩を震わせると、のろのろと重い身体を起こす。
「ご迷惑を……お掛けしました」
絞り出すように呟いたソフィアに、三人は満足げな表情だ。ビアンカの艶やかな金髪がソフィアの視界で揺れる。ソフィアは自身の手入れなどできていない薄茶色の髪が悲しかった。ソフィアから見ても、ビアンカは両親とアルベルトに愛され、美しく輝いている。ソフィアが男でも、ビアンカを選ぶだろう。
開かれたままの扉から重い足取りで廊下へ出ようとするソフィアの腕を、不意にビアンカが掴んだ。
「待ちなさい。貴女、ポケットに何を入れているの」
ソフィアは加減することなく掴まれた腕に、痛みで顔を歪める。
「──何を入れているのと言っているのよ。出しなさい!」
何故分かったのだろうか。ソフィアは逡巡し、ポケットに手を入れて小さな魔石を取り出して見せた。ビアンカはソフィアの震える掌の上に乗せられたそれを見ると、鼻を鳴らして笑う。
「なんだ、貴女の大好きな屑石じゃない。──貴女、それが無いと生きていけないものねぇ」
ビアンカは興味を失ったように手を離す。掴まれた腕が赤くなっていた。ソフィアは深く頭を下げると、魔石をポケットに押し込んだ。逃げるように廊下を走り、玄関から外へ出る。ソフィアは窓から誰も見ていないことを確認すると、庭の草叢からトランクを引っ張り出した。服や髪に付いた葉を払うこともせずに正門を駆け出たソフィアは、左右を見渡し、目に入った細道に身を隠した。
夏が終われば、議会が始まり貴族達が領地から王都に集まってくる。華やかな社交シーズンの幕開けだ。商売をする者や、買い物を楽しむ者、家族で出掛ける者──王都は人で溢れていた。ソフィアは、今いる場所が領地のマナーハウスでなく、タウンハウスであったことに失望を隠せない。領地であれば、幼い頃に遊んでもらった知り合いもいたはずだ。しかし王都では、知り合いなどいる筈もない。
何度も道に迷いながらもどうにか貴族街から抜け出したソフィアは、商業地区の端の小道でトランクを置き腰掛けた。ワンピースと合わせた靴は歩くのに適しておらず、踵は擦れて血が滲んでいた。
「──これからどうしましょう」
ソフィアの所持金は幼い頃両親に貰ったもので、切り詰めても食事三回分程にしかならない。着替えも最低限しか持ち出していない。売ったところで、すぐに行き倒れてしまうだろう。ソフィアは夕焼けに染まっていく街をじっと見ていた。少しずつ暗くなるに連れて、ランプが灯されていく。使われているのは、魔力がある人間なら誰もが使える安価な魔道具だ。
「仕事……探さなきゃ。でも、私にできる仕事って──」
ソフィアはポケットの中で小さな魔石を握り締めた。
この世界では、ランプもオーブンも洗濯機も、様々な道具が魔力の循環を動力としていた。魔道具に埋め込まれた魔力の回路が、人間の持つ魔力に反応して起動するのだ。スイッチに触れれば、子供でも簡単に扱える。人によって生まれ持つ魔力量は異なるが、誰もが多少なりと魔力を持っているこの世界では、皆が扱える便利な道具だ。しかしソフィアはそれらを扱うことができなかった。生まれつき体内の魔力が一切ない──ソフィアは特異な体質だった。
両親が生きていた頃は、レーニシュ男爵邸内の様々な道具が魔道具ではなかった。ソフィアが暮らしやすいように気を遣い、魔道具が発明される以前の家具で揃えられていたのだ。しかし叔父母が当主となってからは、便利な魔道具をどんどん購入し、アンティークで高く売れる家具は全て現金に変えられた。
ソフィアが唯一魔道具を使う方法が、この小さな魔石だった。使用回数は限られており、使い過ぎると割れてしまうが、魔力のない人間でも魔道具を使うことができる。魔石は、大きな物は魔道具の核となり、小さな物は貴族の子供が勉強で使うことが多い。元々の使い道とは異なるが、家を追い出されたソフィアにとっては、この小さな魔石が命綱だった。