令嬢は黒騎士様と街に行く4
休日を申請するのは簡単だ。騎士団第二小隊の執務室で、様々な申請書類の入っている引出しから休日申請書を取り、必要事項を書いて隊長のアーベルに渡せば良い。日程によっては同僚間での調整が必要だったが、五日後のギルバートには代役が必要な仕事はない。
ソフィアと外出についての話をした翌日、ギルバートは仕事を終えた後の執務室で休日申請をしようとしていた。貴族の場合は特に外せない用事がある者が多く、ギルバートもこれまでに何度も申請を出している。だから日報と一緒に申請書を渡したとき、執務室の空気が揺れたのは完全に予想外だった。
「──何ですか」
ギルバートを興味深げに見ている者ばかりでなく、近くの席で耳打ちをしている者もいる。特におかしなところがあるつもりはないギルバートは、小さく嘆息した。
「隊長、日報です。併せて休日申請をお願いします」
同僚達に話すつもりがないのなら、探るつもりはない。気を取り直してアーベルに向き直ると、アーベルは呆れた顔でギルバートを見ていた。
「……なあ、ギルバート。俺は逆にこいつらが可哀想になるぞ」
「何のことでしょうか」
「──……女か?」
アーベルの口から出た言葉に、ギルバートは目を見張った。ざわっと執務室が賑やかになる。普段は雑談をしない者までもが、身体を乗り出すようにしてこちらの様子を窺っていた。
「副隊長、彼女できたんですか!?」
「最近隊舎に泊まらないですし!」
「なんか雰囲気柔らかくなってますし!」
口々に言われ、ギルバートは閉口した。自分自身では何も変わったつもりはないが、そんな風に見えていたのかと驚く。そして先程の休日申請で執務室の空気が揺れた理由にも思い至った。
「いえ……」
咄嗟に出た否定の言葉は、あまり効果がないようだ。しかし、確かにソフィアが家に来てからというもの、王城の隊舎に泊まり込むことはなくなった。前は遅くなると帰るのが面倒で、よく利用していたのだが。
「それで、どんな子だ?」
アーベルはにっと口角を上げた。もはやアーベルを含めた皆には、ギルバートの変化の理由が彼女ができたためであると確定されているらしい。女かと言われればその通りだが、本当のことを答えたところで納得しないだろうし、あるがままを話すつもりもない。暫し思考を巡らし、口を開いた。
「──猫を拾いまして」
張り詰めていた執務室の雰囲気が緩んだのを感じ、ギルバートは内心でほくそ笑んだ。アーベルだけが胡乱な表情でこちらを見ている。
「……猫? お前がか?」
「はい。家で待っておりますので」
男ばかりの近衛騎士団で、ソフィアが女であると言ってしまうと面倒なことになる。咄嗟に絞り出した策だが、これを貫いてしまおうとギルバートは決め込んだ。
「お前がそれほど惚れ込むとは、どんな猫なんだ?」
どんな、と言われると深く考えたことはなかった。元々ギルバートは言葉が足りない、下手だと言われることが多い。上官であるアーベルの質問に真摯に答えようと、少しでも丁寧にと心掛けながら言葉を選ぶ。
「──深緑色の瞳が印象的で」
「……お、おう?」
ソフィアを思い出し、ギルバートは口を開いた。
「柔らかい毛を撫でていると心地良くて、臆病なのに親しもうと近付いてくるところが……可愛らしく思えて」
昨日の夜見せてくれた笑顔はとても可愛かった。もっと笑わせてやりたいが、どうしたら良いだろうか。辛いことなど全て取り除いて、幸福で優しい世界で守ってやれたらどれだけ良いだろう。少しずつ前を向いていく姿を見るのも、最近の楽しみの一つだ。
「閉じ込めて私の元から逃げないようにしてしまいたいような、他の者とも仲良くしている姿を見るのが嬉しいような──」
「──お前、それ猫の話だよな?」
アーベルが珍しく間の抜けた顔でこちらを見ている。他の隊員達も、ぽかんとした表情をしていた。
「はい、猫ですが」
言い切ってしまえば何も言われないだろうと思い、ギルバートはあえてばっさりと答える。すると、アーベルが立ち上がってギルバートの肩に手を乗せた。
「お前……そんなに猫に入れ込んでたら、本当に結婚できなくなるぞ。ただでさえ浮いた話がないと思ってたが、猫相手にそんな顔しやがって」
ギルバートは今自分がどんな表情をしているのか分からず、徐に右手を頬に当てた。それを見ていた同僚が何人か溜息を吐く。
「──副隊長っ! 目の毒なんで、お願いですから色気抑えてください!」
焦ったように言う後輩に目を向けると、彼は両手で顔を覆っていた。色気とは何のことだろうかと不思議に思うも、揶揄われていることだけは分かる。ギルバートが不機嫌を隠さず眉間に皺を寄せると、途端に場の空気が凍った。それを解すようにアーベルがひらひらと手を振り、ギルバートに笑いかける。
「分かった分かった。申請は通すから安心しろ。愛しの猫ちゃんによろしくな」
「──ありがとうございます」
ギルバートは一礼して執務室から出た。これまでは仕事だけが楽しみだったが、最近は帰宅した後にも一つ楽しみがある。そう思えば仕事にも自然と以前より力が入った。実際、残業を減らしていても仕事量は減っておらず、むしろ増やしている程だ。
以降、騎士団では第二小隊を中心に、ギルバートが飼い猫を溺愛しているとの噂が広まった。そしてそれまで話したこともない他の隊の者達から、それぞれの飼い猫自慢を聞かされることになるのだが──この時のギルバートには知る由もなかった。