令嬢は黒騎士様と街に行く3
いつものように浴室を借り、ギルバートに髪を乾かしてもらう。ソフィアの髪を乾かすためだけに魔法を使うのは贅沢だと思うが、ギルバートは気にも留めていないようだった。
「──あの、ありがとうございます」
気持ちを自覚してから、話すだけでも恥ずかしく俯きがちになってしまうソフィアだったが、必死に顔を上げた。ギルバートの僅かな表情の変化を見逃さないように、少しでも見ていられるように。そして、今より少しでも前を向けるように。
「──今日は何があった?」
どこか温かくそれでいて無機質な声が、ソフィアの心を解きほぐしていく。ギルバートに手を引かれ、ソファーに並んで腰掛けた。握り返す勇気はまだソフィアにはない。
「今日はお休みでしたので、カリーナと一緒に過ごしてました」
「そうか」
いつも通りに相槌を打つギルバートに安心する。だが、今日はこれからがソフィアにとっては頑張りどころだった。カリーナに背を押されてしまったからには、行きたい場所を伝えなければならない。
「それで、あの──」
おずおずと切り出せば、ギルバートは興味深げに見てくる。なけなしの勇気を振り絞って、ソフィアはギルバートの藍色の瞳を見つめ返した。カリーナの声が脳裏をよぎる。
「行きたい場所、考えてきたんですけど……っ」
ギルバートは驚いたように目を見張った。ソフィアは自らの頬が熱くなっていくのを感じる。自分の意思を口に出すのはやはり苦手だと思い、またも俯きそうになるのを堪える。
「──何処だ?」
瞬間、ギルバートが甘く微笑んだ。ソフィアはその表情から目を離せない。取り繕うこともできない芽生えたばかりの気持ちなど、すぐに伝わってしまいそうだ。喉の奥が引き攣ったように、声が震えてしまうのが分かった。
「あ……はい。ええと──」
ソフィアは、持ってきていたメモを取り出し、教えてもらった名前を口にしていく。ギルバートは知っている場所だったのか、数度頷いた。
「──分かった。来週で良いか?」
「え……っ?」
思っていたよりもすぐに返ってきた返答にソフィアは驚いた。ギルバートはいつの間にか微笑みを消しており、いつもの無表情に戻ってしまっている。
「次の休みは六日後だろう。私もその日は休んで問題ない」
「ありがとうございます……!」
ハンスから聞いて知っていたのだろう、ギルバートは当然のようにソフィアの休日を把握している。ソフィアは思わず瞳を輝かせ、ギルバートを見上げた。気にしていてくれたことを嬉しく思う。買い物に出掛けることが、また少し楽しみになった。
「──良かった。お前が喜んでいて」
ギルバートがぽつりと呟いた。小さな声だったため聞き間違いかと思い、ソフィアは首を傾げる。
「ギルバート様?」
ギルバートの視線が逸らされた。暫し逡巡するように間をあけた後、迷いを振り切るように重ねられた手が握られる。ソフィアは小さく肩を震わせた。
「あまり街に行くことはなかっただろう。不安があるかと思っていた」
「それは……」
確かに不安だった。人が多い場所は慣れないし、侯爵邸の外へ出るのもまだ怖い。思わず俯くと、ギルバートの大きな手が見えた。ソフィアの手を包み込むように、優しく重ねられている。
「カリーナが色々と教えてくれましたし……それに。──ギルバート様と一緒ですから、大丈夫だと思います」
勇気を出して顔を上げ、ギルバートの顔を正面から見る。ギルバートは目を僅かに見開いたが、すぐに柔らかい表情に戻った。繋いでいない方の手で、ギルバートがソフィアの頭を優しく撫でた。
「ソフィア、私はお前に感謝している」
穏やかな声は、ソフィアを甘やかすように二人きりの部屋に響く。
「お前は私が触れることを許してくれる。あまり得意ではないだろうに、一生懸命に話をしてくれる」
ギルバートの藍色の瞳が優しく細められた。ソフィアはその動きを追いかけるのに必死で、目を離せずにいる。
「──ありがとう」
瞬間、ソフィアの瞳から涙が一筋流れた。心の中の大きな穴が、暖かいもので満たされていくようだった。多幸感がソフィアの表情を柔らかくしていく。ふわりと口角を上げれば、これまでで一番自然な笑顔ができた。ギルバートがまっすぐにソフィアを見ている。その口角が、嬉しそうに上がった。
「ギルバート様、あの──」
「お前は笑っている方が良い」
くしゃくしゃと撫でられ、ソフィアは言葉を切って首を竦めた。上目遣いにギルバートの表情を窺えば、変わらず優しい微笑みを浮かべている。
「──ありがとうございます」
ソフィアは頬が赤くなっていくのを感じながら、どうにかそれだけ口にした。