令嬢は黒騎士様の役に立ちたい10
その日ソフィアがいつもより遅く部屋に戻ったのには理由があった。ソフィアが物の相場を知らないことを知ったカリーナが、丁寧にそれについて教えてくれたからだ。仕事用のメモが数ページ埋まってしまうほど続けられた話は、使用人ホールの様子を見に出てきたメイド長に止められるまで続いた。
それからソフィアは一度部屋へ戻り、着替えを持ってギルバートの部屋へと向かった。入浴を終えてタオルで髪を拭う。最近はいつもギルバートに魔法で乾かしてもらっていたため忘れていたが、唯一令嬢らしく伸ばしている長い髪は、乾くのに時間がかかった。諦めて濡れ髪のまま自室へ戻ろうと浴室を出る。いつもはかけられる声がないことが、少し寂しかった。ここで暮らし始めてからギルバートに会わない夜はなかったのだと気付いたが、今日はいないことも分かっている。
だから寝室の扉が開けられたとき、ソフィアは驚きと共に期待を込めて顔を向けた。そこにいたのは、まさに今ソフィアが顔を見たいと思っていた人物だった。
「──わ……っ、おかえりなさいませ、ギルバート様。遅くに申し訳ございません」
ソフィアは驚いて、髪を拭う手を止めた。ギルバートは見慣れない騎士の盛装姿だ。普段よりも華やかで、銀の髪が映えて美しい。その凛々しさに思わずソフィアが見惚れていると、藍色の瞳が揺らめいた。
「ソフィア──」
名を呼ばれて返事をしようとした瞬間、ソフィアはギルバートに抱き締められていた。強い力に押し潰され、口からは意図せず吐息が漏れる。自分とは異なる身体の硬さと力強さに、身体中の血液が沸騰してしまったかのように体温が上がっていくのが分かった。上半身を屈めたギルバートの顔がソフィアの濡れ髪に寄せられる。唇が、微かに首筋に触れた。
「──きゃ……っ」
思わず小さな悲鳴を上げると、ギルバートはソフィアの両肩を掴んで勢いよく引き剥がした。正面から見つめられて、頬が紅潮していく。ギルバートは何かに驚いているように、ソフィアから目を逸らさない。
「ギルバート様……?」
「──すまなかった」
ソフィアの肩を掴んでいた手が、髪を梳かすようにして離された。同時に乾いた髪がさらりと肩と背中に落ちる。何かを言おうとしているのか、ギルバートの口が動いた。先を促すように僅かに首を傾げるが、ギルバートは目を逸らして小さく嘆息しただけだった。
「今日は何があった?」
いつも通りの言葉が、恥ずかしさから逃げ出したかったソフィアの両足をその場に踏み止まらせる。平常心を言い聞かせながら、おずおずと口を開いた。
「ええと……今日はお給料日でした。カリーナから物の値段について教えてもらっていたら、遅くなってしまって──」
あまり表情の動かないギルバートが、今は羨ましかった。ソフィアはこんなにも必死に気持ちを隠しているというのに。
「そうか。──何か欲しいものでもあるのか?」
その質問に返事を躊躇する。欲しいものがあるという訳ではないが、できればギルバートとカリーナに何かを贈りたいと思っていたのだ。
カリーナも一緒に買い物に行こうかと誘ってくれたが、共に出掛けて迷惑を掛けたくないからとソフィアは断った。カリーナには、魔力が無いことをまだ伝えられていない。フォルスター侯爵邸での生活は不自由なく、仕事でも魔道具を使わないため、話す機会がなかったのだ。
「いえ、あの。お買い物は行かないです」
「何故だ?」
端的に聞き返され、言葉に詰まる。だがギルバートが笑うことはないだろうと思い直し、ソフィアは素直に答えた。
「──お恥ずかしい話ですが。私、買い物にも、一人で街にも……行ったことがなくて」
俯くとついさっき抱き締められた腕が視界に入り、思わず目を瞑る。頬が熱い。
「今度の休みに行くか」
聞き間違いかと思うほど突然の申し出に、ソフィアは目を開けて顔を上げた。
「ですが……」
忙しいのではないか、と顔に書いてあったのか、ギルバートが苦笑する。ソフィアはそのどこか甘さの混ざる表情に、両手でワンピースの裾をぐっと握り締めた。
「そのくらいの時間は調整する。──行きたいところを考えておけ」
言うだけ言って、ギルバートはソフィアの横を通り過ぎていく。浴室の扉を開ける音が、やけに大きく聞こえた。
「──おやすみ」
ギルバートが振り返ることなく言う。挨拶を返すより先に、その扉は閉まっていた。ソフィアは誰もいない空間に向かって、小さく呟いた。
「おやすみ……なさいませ、ギルバート様」
いつもは歩いて戻る廊下も、今日ばかりは駆け足になる。それは紅潮した頬を隠すように、高鳴る鼓動を誤魔化すように。誰ともすれ違わなかったことに感謝し、ソフィアは自室に入り内鍵を閉めた。瞬間、それまで頑張っていた両足から力が抜け、ぺたりと床に座り込む。動きを止めても収まらない熱の理由は、誰よりも自分が一番分かっていた。
「──っ……」
ギルバートの唇の触れた首に触れる。少し冷えた指先の温度が、唇のそれと重なった。視界が揺らぐ。瞳が潤むのを堪える余裕もないほど、ソフィアの心の中はギルバートへの想いでいっぱいに占められていた。