子猫と新しい魔法(スフィとギルバートの場合)
「捨てられ男爵令嬢は黒騎士様のお気に入り」書籍1巻&コミックス1巻、重版御礼。
スフィのお話です。
「スフィ、スフィー?」
フォルスター侯爵邸の廊下を、ソフィアはきょろきょろと足下を見ながら歩き回っていた。子猫のスフィが、昼食後からしばらく見当たらないのだ。
ギルバートが任務先から拾ってきたスフィはすっかり邸に慣れ、あれからひと月が経った今では、この場所こそが我が家だというように自由に振る舞っている。お気に入りの場所はあるようだが、いつもそこにいるというわけでもないようだった。
入られて困る部屋は扉を閉めているが、それでも何かの拍子に入ってしまうことはある。先日はランドリールームで畳む前の乾いた洗濯物の中に埋もれて昼寝をしていたらしい。
ソフィアが歩いていると、向かい側から昼の休憩を終えたらしいカリーナがやってきた。何かあったのかというように、首を傾げている。
「どうしたの、ソフィア」
「スフィがいないの。カリーナ、どこかで見なかった?」
もしかして地下に行っているのかもしれない。カリーナが昼食を済ませてきたのなら、地下の使用人食堂だろう。そう思って聞いてみたが、カリーナは首を横に振った。
「見ていないわね。何かあるの?」
「今日はこの後お客様がいらっしゃるから、スフィがお邪魔しないようにと思って」
今日は、ギルバートに来客の予定があると聞いている。領地の特産品である葡萄酒の委託の件だそうで、商人が何人か来るらしいのだ。もう一時間もすれば約束の時間になってしまうので、その前にスフィをソフィアの私室に連れて行ってしまいたかった。
「ああ、旦那様と話があるっていう。それは、部屋にいてもらわないと困るわね」
カリーナはそう言うと、すぐに身を翻した。方向からして、庭園の方を探すつもりだろう。急ぎ足で先に行こうとしたカリーナは、次の瞬間、はっとソフィアを振り返った。
「ソフィアは──」
「家の中だし、一人で平気よ。見つけたら教えてね」
ソフィアが言うと、カリーナは少し迷ってから頷き、今度こそ庭園へと向かっていった。
カリーナはソフィアの側をあまり離れたがらない。それは侯爵夫人を一人にしないようにという職務への忠義よりも、大切な友人に万一のことがあったら嫌だと思う気持ちが強いのだと、ソフィアは知っていた。
ソフィアと離れているときに戦い方を学んでいることも、ハンスから聞いている。無理をしていないか心配だったが、本人に聞いてみると、今ではできるようになるのが楽しいと軽く笑っていた。
心配されることは嫌ではない。それでもソフィアもまた大切な友人として、カリーナ自身の幸せを願わずにはいられないのだ。
ソフィアは、邸の中をぐるりと回って、厨房へとやってきた。厨房では料理長が夕食の仕込みを始めたところのようで、作業台の上にはまだ捌かれていない魚が置かれている。
「あれ、奥様。どうしたんです?」
料理長は、ソフィアの姿を見つけて手を止めた。ソフィアは作業を止めさせてしまったことに申し訳なさを感じながら、問いかける。
「料理長、スフィを見ませんでしたか?」
「厨房には入れないようにしてもらってますから、ここにはいないですよ」
スフィが厨房の中に入って暴れたのは、邸に来て二週間後のことだった。
その日の昼食に使われるはずだった小魚を食べ、見習いの料理人と追いかけっこを繰り広げたと聞いている。それ以来、ギルバートが魔石を媒介として、厨房内に人間以外の生きた生物が勝手に入らないよう、結界を張ったらしい。
どうやったのか聞いてみたところ、原理自体は魔道具と同じらしい。ギルバートの説明は興味深かったが、ソフィアにはその詳しい内容まではよく分からなかった。
ソフィアがそのときのことを思い出していると、料理長はぽんと手を叩いた。
「ああ、そうだ。旦那様のところはもう行ってみました?」
「ギルバート様のところですか?」
今の時間、ギルバートは執務室にいる。首を傾げたソフィアに、料理長は悪戯な笑みを浮かべた。
「ええ。旦那様はたまに執務室にスフィちゃんを入れてるみたいですから」
ハンスはスフィがギルバートの執務室に入ることをあまり良く思っていない。理由は単純で、執務室の書類に悪戯をされたり、ギルバートの服に毛が付いたりするのが嫌だからだ。
しかし同時にハンスが自分の執務室にはスフィを入れていることを、ソフィアは知っていた。
「ありがとう、探してみます」
ソフィアは丁度厨房にやってきた侍女にカリーナへの言付けを頼んで、来た道を引き返した。
ソフィアは扉を軽く叩き、返事を待ってギルバートの執務室に入った。
ギルバートは机にいくつかの書類を並べ、見比べていたようだ。ソフィアがやってきたことで手を止めている。
来客がある時間までもうすぐだ。確認をしていたのならば、邪魔をしてしまったかもしれない。申し訳ない気持ちで歩み寄ったソフィアは、ギルバートの腿の上に、ふわふわの薄茶色の毛を見つけた。
「──本当に、ここにいたんですね」
既に応接用の服に着替えているらしいギルバートの黒いスラックスの上で、スフィが眠っている。大きくて安定しているからか、ソフィアの足の上に座るときよりも伸び伸びとした姿勢だ。
ソフィアは思わず小さな溜息と共にくすりと笑った。
「ソフィア。どうした?」
ギルバートが首を傾げる。
「いえ。ギルバート様に来客の予定がおありだと思って、スフィを探していたのですけど……」
ギルバートが寝ているスフィを見下ろした。寝顔を確認したギルバートの目が、すうっと柔らかく細められる。どうやらソフィアが遠慮している間に、スフィはすっかりギルバートとの時間を満喫していたらしい。
「それはすまなかった。ここにいるから、連れていくか?」
ソフィアはちらりとスフィに目をやって、首を振った。
「ギルバート様がお部屋を出るときにします。無理に起こしては可哀想なので」
「そうか」
ソフィアはそのまま部屋を出ていく気にもなれず、近くのソファに腰を下ろした。ギルバートは時計を確認して、書類に視線を戻す。なんとなくその顔を盗み見ていると、ギルバートの口角が少しだけ上がった気がした。
それから少しして、ギルバートが書類を机の端に寄せた。身体が大きく動いたことで、スフィも目が覚めたのか、ぴょんと床に降り立ち気持ち良さそうに全身で伸びをする。
「そろそろ支度をするから、スフィを頼む」
「はい。私の部屋に連れて行っちゃいますね」
きょろきょろと周囲を見渡すスフィに小さく笑ってソフィアは頷く。しかし、立ち上がったことで露になったギルバートのスラックスを見てどきりとした。黒い生地には、誤魔化しようもなく細く短い毛が付いている。
よりによって今は秋。猫にとっては換毛期だ。
「ギルバート様、スフィの毛が……」
思わずソフィアが立ち上がると、それを待っていたというようにスフィがソファに飛び乗った。
ギルバートはソフィアの視線を追って自身のスラックスを見ると、ああ、と小さく頷いた。
「大丈夫だ」
言葉と共に、右手を軽く掲げる。瞬間黒い布の上にくっついていた毛がひとりでに動き出し、ギルバートの右手へと宙を舞って集まっていった。宙に浮く球体になったそれは、次の瞬間小さな炎と共に消えてしまう。
ソフィアはその光景に目を瞠った。
「……以前仰っていた魔法、完成されたのですか?」
「これならば問題ないだろう」
真面目な顔で言うギルバートに、ソフィアは小さく吹き出して笑ってしまった。
本来であれば物騒な力となってしまうことの多いそれを、またギルバートは優しく可愛らしい理由のために使っている。魔法を開発するというのはとても大変なことなのだ。
その大変なことをギルバートは、スフィを自由に愛でるためだけに実行したのだ。
「ふふ、そうですね」
ソフィアはスフィを抱いて、支度を終えたギルバートと共に執務室を出た。ギルバートはソフィアに軽く口付けをして、応接室へと向かっていく。
自室に戻ってカリーナにその話をしたソフィアは、『どうにかしてその魔法を魔道具にして貰ってくれ』と詰め寄られることになる。
要望を受けたギルバートがその話を王城の魔道具塔の所長であるガスケ男爵に相談し、愛猫家である男爵が研究に没頭。数週間後には製品化してしまうのだが──それはまた、別の話。