これからの未来を、二人で1
◇ ◇ ◇
ようやく二人きりになり、ソフィアはほっと息を吐いた。座るソファのすぐ隣に、ギルバートがいる。大きな左手がソフィアの手に触れている。
いつも通りの状況に、やっとギルバートが帰ってきてくれたのだと実感した。
そっと目を閉じて久しぶりの感覚に酔いしれようとしたソフィアを、ギルバートが止めた。藍色の瞳が、真摯にソフィアに向けられる。
「──ハンスから、留守中のことを聞いた。ソフィア、無理をさせたようですまなかった」
ギルバートがそう言って頭を下げた。
ソフィアは慌てて首を振る。ソフィアは必死だっただけだ。
ソフィアが何もせずにいても、ギルバートが帰ってきたらどうにかしてもらえるだろうことは分かっていた。もしかしたらそこまで待たなくても、ハンスが対応してくれたかもしれない。
だが、ギルバートが帰ってきたときに、このフォルスター侯爵邸の中に不穏の種が残ったままにしたくなかった。笑顔でおかえりなさいと心置きなく言うために、ギルバートが安心して、ただいまと言ってくれるように。
「謝らないでください。あの……私が、皆さんにお願いしたんです。いけなかったですか?」
「いや、そんなことはない。よくやってくれていた」
ギルバートの言葉に、ソフィアは肩の力を抜いた。
「……良かったです。間違っていたらどうしようって、不安でしたから」
認められた嬉しさがふつふつとこみ上げてくる。同時に、自らの行動が、選択が間違っていなかったのだと、どうしようもなく安心した。
力のある立場で何かを選択するということに伴う責任を、ソフィアは改めて実感したのだ。
「ソフィア……」
ソフィアの右手を包むようにギルバートの左手がぎゅっと握られる。ソフィアの手よりも少し高い温度が、肌を通して伝わってくる。
「あの、ハンスさん達には秘密にしていてください。色々考えてくださって、感謝しているので……でも、本当は」
それが、心の中で絡まって分からなくなっていた本当の気持ちを解き明かしていく。
強くならなければいけない、前を向かなければいけない、いつまでも悪夢なんかに落ち込んでいられない。向けられた悪意には、傷付いていないふりをして。寂しい気持ちは、蓋をして見ないふりをして。
零れそうになった涙は、ぐっと堪えた。
「──……怖かった、です。それでも、私はギルバート様の、妻だから……!」
本当はずっと怖かった。
それでも、皆に認められる『ギルバートの妻』でありたかった。
「ソフィア、ありがとう。……ありがとう。お前が考えてしたことに、間違いなどあるものか」
手を引いて導かれた腕の中は、暖かかった。
何度だって抱き締められる度に、ここはソフィアの居場所なのだと思わされる。
「それでも間違えたと思ったときは、私と共に悩んでくれ。一人で背負わないでくれ。私は、ソフィアの家族だ」
ギルバートの声は僅かに震えていたが、どうしようもなく甘かった。
はっと顔を上げた先にあったのは、ソフィアを気遣いながらも、逃がさないという強い意思を湛えた瞳だ。そこに宿った熱は、言葉以上に強くソフィアの心を揺さぶった。
「家族……」
それは、ソフィアがずっと望んでいたものだ。
無条件に許される居場所が欲しかった。魔力が無くても、何もできなくても、ここにいて良いよと受け入れてくれるような場所が、欲しかった。いつしかそれは場所ではなく人だと気付いて、戻せない時間に絶望した。
失ってしまってから、もう二度と手に入らないと思っていたそれを、ギルバートは当然のように口にする。
額に落ちた唇は、ソフィアの心に火を灯した。
「ああ。それに、もう一人……いや、一匹、増えるが良いか?」
「え? それってどういう──」
ギルバートがソフィアを離して立ち上がり、奥の部屋の扉を開けた。それから、少し待つようにと声をかけ、姿を消す。戻ってきた腕の中には、もこもことした小さな薄茶色の毛玉が抱えられていた。
それが何かソフィアが理解するのより早く、毛玉はギルバートの腕からぴょんと勢い良く飛び出した。
「みゃー!」
「あ、ちょっと待て……!」
その毛玉──子猫は、ギルバートの腕からするりと逃げ出し、部屋を勢い良く駆け抜けた。テーブルに飛び乗り、飛び降り、部屋を数回横断したあげく、ソフィアが座っていたソファに着地する。
「え……きゃっ」
そして、当然と言った顔で、ソフィアの膝に顔を擦り付けた。
ソフィアは、その柔らかそうな毛にそっと触れた。まだ幼いようで、ふわふわとした手触りだ。風呂に入れられたのか、連れ帰ったという割に爽やかな香りがする。
深緑色の丸い目を細め、もっととねだるようにと喉を鳴らす。なんて人懐こい猫だろう。
「任務先で保護した。ソフィアさえよければ、この家で面倒を見たい」
ソフィアがギルバートに視線を移すと、ギルバートは穏やかな表情でソフィアと猫を見ていた。これも『家族』なのだと思うと幸せで、ソフィアは胸を満たす柔らかな感情のままにふわりと笑った。
「勿論です……っ」
「そうか。良かった」
ギルバートがソファに戻ってきて、猫を両手で抱えて自身の膝の上に乗せた。それまで猫を見ていたソフィアには、当然ギルバートの両手も視界に入る。
その右手にひびが割れるように走っている無数の瘡蓋に、ソフィアは動きを止めた。