黒騎士様は未来を掴み取る7
◇ ◇ ◇
ビアンカはとても居心地が悪かった。
温室の花はとても綺麗に手入れされ、華やかな薔薇が目を楽しませてくれる。茶会の支度は急いでされたはずなのに、そうとは思わせないほどに美しくしっかりと整えられていた。
ティーカップは繊細な絵付けがされた陶磁器で、薄く繊細な意匠から、きっと名のある工房の作なのだろうと分かる。
そして目の前にいるのは、それらを当然のように用意させながら、どこかビアンカに遠慮したように微笑むソフィアだ。
こんなことになるのならば、余計なことはしなければよかった。
ビアンカは何を話していいか分からず、目の前で湯気を立てている紅茶を飲むことにした。まだ熱いだろうと気を付けながらそっとカップを傾け、一口飲んだ瞬間、つい頬が緩んだ。
そのまま添えられていた砂糖菓子を口に運ぶ。ふわりと広がったのは、薔薇の香りだ。摘んだばかりのような芳香が、紅茶の香りと混ざり合う。
「──……美味しい」
香り高く、砂糖を入れていなくてもどこか甘さがある紅茶だった。きっと、砂糖菓子はその紅茶にあわせて作られたものなのだろう。有名店のものに違いない。
「ありがとう。このお菓子、料理長が作ってくれたのだけれど、見た目も可愛らしいわよね」
ソフィアが、安心したようにほっと肩の力を抜いてそう言った。
その態度にビアンカは驚いた。
「……店で買ってきたものじゃないの?」
「ええ」
ソフィアがこんなに自然に微笑むところを、ビアンカは初めて見たのだ。
ソフィアが紅茶を飲む所作は、指先までとても自然で、それでいて優美だった。少し伏せた目も、儚げで柔らかに見える。それは、レーニシュ男爵令嬢であった頃のビアンカのものと比べるまでもない。
どうして自分ではいけないのかと、いつも思っていた。そうして思ったものを、何でもビアンカはソフィアから奪っていた。
それでも、こうして今のソフィアを見て思う。
倒れたのは嘘だったらしいが、私室の机の様子は、作られたものではないはずだ。リリアにきつくあたられても女主人として毅然とした態度を崩さなかったのも、ソフィア自身だった。一流の礼儀作法を身につけ、自然に見せているのも、あの頃には考えられないことだ。
ソフィアが努力して手に入れたものを、ビアンカは何一つ奪うことはできない。
「──……遠回しな世間話は良いわ。私とお茶なんて、よくする気になったわね。私、あんたのこと苛めてたのよ」
「そうね」
ビアンカはティーカップをソーサーに置いた。うっかりでも小さな音すらも鳴らさないように、細心の注意をはらった。
ソフィアはそんなビアンカには気付かなかったようで、困ったように微笑む。
「ビアンカとの最後の会話、ずっと後悔していたの」
ビアンカは首を傾げた。ソフィアとビアンカが直接話をしたのは、随分前だ。年始の夜会で、ソフィアが社交界デビューをしていたときだった。あのときビアンカは、ソフィアにワイングラスを投げつけ、ギルバートに阻止されたのだ。アルベルトは親に連れ帰られ、ビアンカは自棄になって家まで一人で歩いて帰った。
思い出すと恥ずかしくなる記憶だった。
「こういえば良かったの。──私、ずっとビアンカのこと、怖かったけど……それ以上に、羨ましかった。……両親がいて、魔力があって、綺麗で。だから、従姉妹らしく、もっと仲良くしたかったの」
ソフィアは懇願するような目で、そう言った。
ビアンカは驚きに目を瞠る。今のソフィアは、誰が見てもビアンカにはつり合わない。なにせビアンカには羨ましいと言われるほどのものは無く、王都を追放されたような立場だ。それでも、ソフィアには、まだそう見えているのか。
今のビアンカは、葡萄園と、婆さんと、出入りの業者と──それから認めたくはないが、アルベルトで構成されている。それは穏やかで、豊かで、王都では感じたことがなかった種類の喜びが詰まった日々だ。太陽の光に、恵みの雨に、一番近くで触れる日々。感情のままに振る舞うことが当然の日々。
ソフィアと張り合っていたあの頃のビアンカでは、手に入れることができなかっただろうものたち。
日に焼け、手の平が硬くなっても、その代わりに手に入れられた幸福。
ビアンカは今のソフィアを見て、自分がとても恵まれているのだと感じた。もし今のソフィアと立場を入れ替えてやると誰かに言われても、ビアンカは拒否するだろう。
他人のものを欲しがっていたあの頃の自分が、酷く滑稽に思える。
「今になって、どれだけ馬鹿だったか分かったわ。私の父も、母も、みーんな。大馬鹿だったのよ」
「ビアンカ……」
カップに添えていた手が小さく震える。これから自分が何を言おうとしているのか確認すると、震えが大きくなるような気がして、ビアンカは手を膝の上に移動した。こんな自分を、ソフィアに気付かれたくはなかった。
「今、私は幸せなの。……ソフィアが代わってって言っても、絶対嫌って言えるくらい」
ビアンカは、虚勢だと分かっていながらも、ソフィアが美しいと思っていたであろう表情で笑って見せた。
「だから、まあ、これからは仲良くしてあげなくも……ない、わ」
「ビアンカ……っ!」
ソフィアが頬を赤く染めて、ビアンカを見ている。嬉しそうな表情は、どうにも庇護欲をかき立てるようで。この従姉はこんなにも可愛らしい人だったのかと、どうしようもなく動揺した。
「そ、そんなに喜ぶようなことでもないじゃない」
「喜ぶようなことなの……っ。私、もう、家族がいなくなってしまったと思っていたから……」
ソフィアの瞳に、ぶわりと涙が浮かんだ。
ビアンカはらしくないと思いながらも、どうにか泣きやませたいと思った。そういえば、近くにソフィア付きの侍女がいたはずだと思い、周囲を見渡す。目が合うと、その侍女は一瞬眉間に皺を寄せたものの、すぐにソフィアにハンカチを渡した。
「──ごめんなさい、急に泣いてしまって……」
控えめに涙を拭いながら、ソフィアが言う。
ビアンカはいてもたってもいられず、つい、口を開いた。
「そんなことはどうでも良いわ。それより……あんた、本当にこのままあの黒騎士の妻でいて良いの? あの男、かなり性格悪いわよ」
「え?」
そもそも、ソフィアに独りきりだと思わせたのは、あのギルバートだ。それに、葡萄園ならば、そんなことを思う暇がない。アルベルトは邪魔だが、婆さんなら人手が増えるのは歓迎するはずだ。
ビアンカにとって、婆さんは家族だった。口は悪いが、遠慮なくぶつかっても問題の無い、唯一の人。だからこそ、信頼があった。
「あ、そうよ。なんなら一緒に葡萄園で──」
「その勧誘は、遠慮して貰えるとありがたい」
「ひいっ」
思い付きのままにまくし立てていた言葉は、今一番現れて欲しくなかった人物の言葉によって中断された。思わず上げた情けない悲鳴に、ソフィアがついついといったように笑い声を上げる。
「──ふふ、ギルバート様、あまり驚かさないでくださいませ」
「今まで黙っていたんだ。ソフィアがいなくなってしまったら、私が困る」
「ありがとうございます」
ギルバートが眉を下げ、ソフィアの背中から愛おしくて堪らないというようにそっと腕を回す。ソフィアが、自然にその腕に頬ずりした。
ビアンカは、幸せそうな二人につい嘆息する。
「──……いるじゃない、家族」
ぽつりと溢した言葉はビアンカ側に移動していた侍女の耳にだけ届いたらしい。背後からぷっと吹き出すような小さい声が聞こえ、ビアンカは自分が感じた不条理が間違いではなかったと確信したのだった。