黒騎士様は未来を掴み取る6
「──旦那様、おかえりなさいませ。そろそろ離れていただきませんと。お客様が驚いていらっしゃいますよ」
ソフィアは少し離れたところからかけられた言葉に、はたと現状を思い出した。ギルバートの誤解を解かなければと慌てていたために、すっかり忘れていた。慌てて身体を離すと、ギルバートは名残惜しそうに抱き締める腕を解いた。
赤くなった頬を冷まそうと両の手の平で押さえるソフィアを横目に、ギルバートが口を開く。
「ハンスか。今帰った」
ハンスがギルバートの姿を確認して笑顔を見せる。
「ご無事で何よりでございます。お出迎えが遅れ申し訳ございません」
「いや、構わない」
ギルバートが、ハンスと会話を始めた。ソフィアはふとビアンカに向き直って、口を開く。
「──心配、かけていたのね」
ビアンカは彷徨わせていた視線をソフィアに固定して、情けない顔で笑う。
ソフィアは、これまでに見たことがないビアンカの表情に思わず息を呑んだ。レーニシュ男爵家で過ごした日々が、ふっとソフィアの脳裏を過る。ビアンカはいつだって自信に溢れた顔で、艶やかに笑っていた。
こんな表情をするようになったのか。それとも、ソフィアにはずっと隠していたのだろうか。
「べっ、別に、心配なんてしていないわよ! ただ、あの男は、あんたを一人にして、何してんのかと思って……」
「ギルバート様は、任務で王都を離れていたの」
「た……倒れるほど思い詰めていたんじゃ」
「あれは、演技だったのよ。少し事情があって……」
そう言うと、ビアンカはふいとそっぽを向いた。
「紛らわしいことしないでよ」
「ごめんなさい」
ビアンカに、事件の詳細を伝えることはできない。侯爵家の身内の起こしたことだ。何も知らないのならば、知らないままにしておかなければならない。
ソフィアはビアンカの様子に首を傾げた。王都を離れた際、ビアンカはソフィアを恨んでいた筈だ。それなのに、この態度はどういうことだろう。まるで──まるで、普通の従姉妹同士のようだ。
ソフィアは、ビアンカともう少し話してみたいと思った。
「──折角だから、少しお茶でもしましょう。そうね……まだ早い時間だから、温室が良いと思うわ。カリーナ、お願いできる?」
「かしこまりました」
ソフィアを追いかけてきていたカリーナがサルーンの端に控えているのを見つけて、支度を頼む。ギルバートはこのままハンスと仕事の話があるだろう。それが終わるまで、ソフィアに予定はなかった。
今ならば、ビアンカとでも会話ができるかもしれない。ソフィアは緊張に汗ばむ手の平を、気付かれないようにそっと背中に隠した。
「──ギルバート様、後ほどお呼びください」
声をかけると、ギルバートがソフィアを見た。探るような瞳が向けられているのが分かる。
「……部屋には、カリーナを付けるように」
「はい。ありがとうございます」
何かがあったときのために、ということだろう。ソフィアも二人きりで向き合うことはまだ怖かったので、ギルバートの言葉に素直に頷く。
心配されることにはまだ慣れないが、想われているのだという事実に心が暖かくなる。
「ビアンカ、行きましょうか」
「あっ、ちょっと。私、まだ行くって言ってない──」
サルーンを後にしたソフィアに文句を言いながらも、ビアンカは素直についてくる。本当に、何がこんなにもビアンカを変えたのか。
ソフィアはどきどきと高鳴る胸を押さえて、温室へと向かった。
◇ ◇ ◇
「よろしかったのですか?」
ソフィアの後ろ姿に目を向けたギルバートに、ハンスが言う。ギルバートは眉間に皺を寄せて頷いた。
「ビアンカ嬢に害意がないことは確認済だ。彼女は……この邸でソフィアを見て、同情しているようだった」
「それは──」
ハンスが困ったように眉を下げる。
ギルバートは小さく嘆息して、ここ最近のソフィアを思い出す。任務に行く前の状況でさえ、かなり無理をさせていたつもりだった。それでも頑張りたいと言ったソフィアを、ギルバートは尊重しようと決め、一番近くで見守っていた。
それが、まさか来客があるときに邸で一人にしてしまうなど、予想外だった。エルヴィンとクリスティーナはいるが、二人も何かと忙しく、邸にずっといるわけではない。むしろ留守にしていることの方が多いのだ。
一人で、どんなに不安だっただろう。
ギルバートの脳裏には、ビアンカの記憶の中の倒れたソフィアの姿がこびりついている。忘れることはできそうになかった。
「……ハンス、続きは執務室で聞く」
「かしこまりました」
「みゃーん」
ギルバートが踵を返して階段を上ろうとしたとき、椅子に置いたままにしていた籠から、愛らしい鳴き声が聞こえた。
帰宅してすぐの騒ぎですっかり置いたままにしていた籠を、ギルバートは慌てて取りに戻る。静かにしていたから、その存在が頭から抜け落ちていたらしい。
籠の中身を察したハンスが、小さく嘆息した。
「……この方のお話を伺うほうが、先ですからね」
「分かった」
ギルバートは頷いて、今度こそ執務室へと歩き出した。