令嬢は黒騎士様に拾われる1
「端的に申し上げます。私はビアンカ嬢を愛しています。だから、ソフィア嬢との婚約を破棄させて貰いたい。──なに、男爵にとっても、悪い話ではないでしょう」
見目麗しい男──先程までソフィアの婚約者であったフランツ伯爵家嫡男アルベルトが、何一つ悪びれた様子のない爽やかな笑顔で言った。向かいに座っている恰幅の良い男と細面の女──レーニシュ男爵と男爵夫人は、とても嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。
「私共の娘がアルベルト様のお気に召されたのでしたら、大変光栄なことでございますわ。ねえ、貴方」
「ああ。大変有り難いお話でございます。是非ともお受けしましょう。いやぁ、親として、とても嬉しいことですよ」
「では以前の婚約の誓約書を破棄させてください。両親も賛成してるので、心配は要りませんよ。新しい誓約書に署名もお願いします」
ええ、ええ、すぐに、と、席を立ち上がった男爵は、使用人にアルベルトとソフィアの婚約誓約書を取りに向かわせた。別の使用人にはビアンカを呼びに行かせる。男爵夫人はにこにこと愛想良く、アルベルトに自慢の娘であるビアンカについて語っていた。アルベルトはビアンカの話に興味深く聞き入り、たまに相槌を打っている。
使用人が部屋から出ようとする気配を感じ、ソフィアは扉に押し当てていた耳を離して、慌ててその場から離れた。震える足を叱咤し、ソフィアは自室──男爵邸の二階の中でも一番小さな部屋へと駆け込む。扉を閉めた瞬間、足の力が抜けてその場に座り込んだ。手も足も震えているのが分かる。足元ががらがらと崩れていく音が聞こえるようだ。
ソフィアが不遇な扱いを受けてもこの家を追い出されることがなかったのは、『フランツ伯爵家嫡男の婚約者』という立場があったからだ。それが無くなってしまえばどうなるかは、ソフィア自身が一番分かっていることだった。
ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえる。美しいと評判のソフィアの従姉妹、ビアンカだろう。降って湧いた幸福な婚約話に浮き足立っているようだ。
ソフィアの頬を涙が一筋流れた。
「お父様、お母様。アルベルト様がいらっしゃったって本当?」
ばたんと大きな音と共に、ビアンカの声が聞こえてくる。
「ああ、可愛いビアンカ。約束通り、君に求婚しにきたよ!」
「嬉しいわ、アルベルト様。これで、ずっと一緒にいられるのね!」
扉を開けたままにしているのか、あまり大きくないレーニシュ男爵邸に二人の幸せそうな声が響き渡った。二人はどこで出会ったのだろう。考えるまでもなく、出会える場所などいくらでもあるだろう。少しでもこの家から出ないようにと暮らしてきたソフィアとは違うのだ。
ソフィアがアルベルトと婚約したのは、十歳のときだった。まだソフィアの両親が生きていた頃、当時のフランツ伯爵家当主であったアルベルトの祖父を助けた礼として、家格違いの婚約が決められたのだ。ソフィアの両親は馬車の事故で崖から落ち、アルベルトの祖父は老衰で、それぞれ死んでしまった。アルベルトに好きな人ができて、しかもそれがレーニシュ男爵家のソフィアと同い年の娘のビアンカであれば、対外的にも何の問題もない。最初からビアンカと婚約していたことにすれば良いのだ。まして、ソフィアはビアンカと違い、社交界デビューすらしていないのだから。
どれくらいそうしていただろう。廊下から聞こえるがやがやと賑やかな声に、ソフィアははっと意識を取り戻した。アルベルトが帰る音だ。
「──駄目よ。しっかりしなさい、ソフィア」
ソフィアは、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
ソフィアには時間が無かった。大急ぎで簡素な寝台の下に潜り込み、そこに入れた木製の小箱を取り出し、裾の広がったスカートのポケットに雑に突っ込む。クローゼットから小振りのトランクを取り出し広げ、シンプルな着替えを何着か押し込んだ。お金はほとんどないが、トランクに一緒に入れる。少し悩んで、読むと元気になれるお気に入りの本も一冊だけ入れた。ソフィアはぎゅうぎゅうとトランクの口を押し込むようにして閉めると、ベルトをしっかりと留めた。
ソフィアはそのトランクを、部屋の窓を大きく開け、手入れの行き届いていない庭の草叢目掛けて投げる。がさりと音がして、トランクは草に埋もれて見えなくなった。
馬の走る蹄の音が聞こえ、ソフィアは慌てて窓を閉める。少しでも痕跡を消そうと、クローゼットを閉じた。マッチを擦って机の上のランプを灯す。引き出しの奥の小さな魔石をポケットに入れるのと、部屋の扉が開かれるのはほぼ同時だった。