令嬢は黒騎士様の役に立ちたい6
「──ギルバート、聞いているか?」
場所は王城の王太子執務室だ。例によってマティアスの護衛として勤務していたギルバートは、繰り返し名を呼ぶ声で思考の渦の中から現実に引き戻された。
「はい。何でしょうか、殿下」
そもそも会話中に他のことを考えたのは、マティアスが振ってきた会話の内容のせいだった。ギルバートは表情に出さないよう気を付けつつ相槌を打つが、きっと意味がないことも分かっていた。
「フランツ伯爵家の嫡男が、婚約者であるレーニシュ男爵家の令嬢を連れて、今度の夜会に来るらしい、と言ったんだ」
マティアスは口の端を上げ、ゆっくりとした口調でギルバートに言った。レーニシュ男爵家と言えば、ソフィアの生家である。
「そうでしたか。殿下が伯爵家の嫡男などを気になさるとは、珍しいですね」
「それはもちろん、ソフィア嬢の家のことだからね。ギルバートも気になるだろう。──面白い話を聞いたんだが、興味はあるか?」
その言葉は問い掛けの体をしていながら、ギルバートに断ることを許さない。複雑な内心のまま頷けば、マティアスは笑みを深めた。
「フランツ伯爵家の嫡男はアルベルト殿というのだが、婚約をしたのは今から七年程前らしい。婚約相手は、レーニシュ男爵令嬢。……これはどういうことかな?」
ギルバートは思わず眉間に皺を寄せた。マティアスもそれまでの笑みが嘘のように、真剣な表情をしている。
「先代男爵夫妻が亡くなったのは、五年前です」
「──ああ、そうだったな。だとしたらアルベルト殿の婚約者とは、誰のことだろうね」
ギルバートは最早不機嫌を隠すつもりはなかった。マティアスの表情はソフィアを気遣っているようにも、理不尽に怒っているようにも見える。食えない男だと思われることの多いマティアスだが、その実は他人を思い遣る優しい人間だということはあまり知られていない。
七年前にレーニシュ男爵令嬢と呼ばれていたのは、当時十歳のソフィアだろう。しかしソフィアは今、フォルスター侯爵家でギルバートの保護下にある。ギルバートは意識してゆっくりと呼吸し、口を開いた。
「ソフィアは今、フォルスター邸で働きながら少しずつ前を向こうとしています。あえて関わらせるつもりはありません」
慣れない仕事をしながらも新たな環境で前を向こうと頑張っているソフィアを、ギルバートはこれ以上苦しませたくなかった。素直に口に出せば、マティアスも頷く。
「そうだな。……しかし気にかかる。ギルバート、協力してくれるな?」
ギルバートは僅かの間逡巡して頷いた。どちらにせよマティアスが興味を抱いた時点で、拒否権などないに等しい。ましてソフィアに関わることならば、ギルバートは断るつもりはなかった。
「はい。──当日は私を護衛としてお連れください」
「よろしく頼むよ。それにしても……女性というのは、思いもよらない情報を持ってくるね」
マティアスは肩の力を抜いて苦笑した。
「妃殿下ですか」
ギルバートはその苦笑の心当たりを口にする。マティアスにこんな表情をさせるのは、ただ一人だけだろう。
「──茶会で聞いたそうだ。なんでも、そのアルベルト殿が令嬢達に人気らしくてね。これまで夜会に同伴したことのなかった噂の婚約者を見られると、沸き立っているそうだよ」
「そうでしたか」
アルベルトは当日誰を連れて夜会に出席するのだろうとギルバートは思う。今の男爵令嬢だと考えるのが自然だが、違和感が拭えない。少なくともソフィアが家に居られなくなるだけの何かがレーニシュ男爵家であったことは明白だ。しかし伯爵家との縁を結んでいるということから、家人皆が困窮しているという訳でも無さそうだった。
眉間に皺が寄っているのが分かる。不敬と言われても仕方ない表情を許されていることに、ギルバートは内心で感謝した。
「その様子では、ソフィア嬢からは何も聞いていないんだね」
またも揶揄う口調になったマティアスに反論しようとしたギルバートは、執務室の扉が叩かれる音により口を閉ざした。来客のようだ。マティアスはそれまでの表情を消し、王太子然とした顔で入室の許可を出した。
「ソフィア、今日は何があった?」
何もなかったかと聞いていた言葉は、何があったかを聞くものに変わった。小さな自身の変化を心地良く感じるのは、ソフィアがいるからだろうか。入浴を終えたソフィアと会話をするのがギルバートの最近の日課になっている。髪を魔法で乾かすときに見せる、ソフィアの子供のような表情が好きだと思った。
「今日は……非番の料理人さんが、使用人のおやつにとクッキーをくださいました。それがとても美味しくて」
いつものように話していたソフィアが、ワンピースのポケットから小さな包みを取り出し、ギルバートに渡した。
「──これは?」
「焼菓子です。今日頂いた分で、ギルバート様にも、と思いまして……」
話しながらも少しずつ俯いていく姿が頼り無げに見える。ギルバートは包みを開け、その場で焼菓子を口に運んだ。さくさくと軽い口当たりで香ばしいそれは、ソフィアが残しておいてくれたものだ。
「ありがとう」
「あ、あの、ごめんなさい。ギルバート様にとっては食べ慣れたものでしたかも……」
ギルバートには、何故ソフィアが謝るのか分からなかった。言葉が足りない、表情が無いとはよく言われるが、それで不安にさせたのだろうか。
「いや、美味いと思う。だが──気に入ったのならお前が食べて良い」
「……はい」
ソフィアは、最近ギルバートに見せるようになった控えめな笑顔らしきものを浮かべた。笑顔と言い切るにはどこか負の感情を内包した不恰好な表情だ。ギルバートは、今日マティアスから聞いた話を反芻する。ソフィアに直接聞いてみようかと思い、口を開きかけ──止めた。表情が陰るのを見たくなかった。今日は良いことがあったらしい。このまま幸せなことを考えて眠ってほしいと思った。ギルバートは繋いでいた手を離し、出会った頃より少し艶のある、それでも夜会等で見る令嬢達よりもくすんだソフィアの髪をくしゃりと撫でた。
「──おやすみ、ソフィア。冷える前に戻って寝るといい」
頬を染める姿は可愛らしいと思うのに、その表情からは愁いの色が消えない。ソフィアはギルバートの手に、擽ったそうに首を竦めた。
「ありがとうございます、ギルバート様。……おやすみなさいませ」
帰りは少し早足で部屋を出るソフィアを見送り、ギルバートは扉を閉める。一人きりの部屋では、溜息を吐いても誰に聞かれることもなかった。