黒騎士様は拾い上げる2
◇ ◇ ◇
ビアンカはベアトリスに与えられている部屋の中を、落ち着きなく歩き回っていた。
「どうして私……なんなのよ、腹が立つっ!」
苛々と歩き回っても、心が平静を取り戻すことはない。
ビアンカが茶会前のサロンに立ち入ることになったのは偶然だった。ベアトリスが部屋付きの使用人はいらないと言っていたため、一人きりの部屋でベアトリスの帰りを待っていたビアンカは、紅茶を淹れようとして、茶葉が切れていたことに気が付いたのだ。気に入りだからとわざわざ持ってきていて、部屋の茶葉を断っていたのが災いした。
勝手に部屋を出るなと言われていたビアンカだったが、思い立ってしまったら、紅茶が無いことが耐えられなくなった。
そうして誰か侯爵家の使用人に頼もうと思い部屋を出た。しかし間が悪いことに、そのときは丁度当主会議と茶会の時間で、使用人達は邸の奥で忙しく動き回っていた。結果、広い邸を彷徨う内に、サロンの近くまで来てしまったのだ。
まずいと思ったのは、ソフィアの姿を見つけたときだ。少し離れたところからでもビアンカにはそれがソフィアだと分かった。
ソフィアに気付かれる前にと慌てて引き返そうとして、様子がおかしいことに気付いた。あのギルバートの隣で、全てを手に入れて幸せいっぱいなのだろうと嫉妬しつつも羨ましく思っていたソフィアが、一人で廊下に立ち竦んでいる。扉にかけたままの手は、動かない。
何があったのだろうかと近付いて、後悔した。
ソフィアの顔には何の表情も浮かんでおらず、サロンの中からはソフィアのことを蔑める言葉が聞こえてきたのだ。
ざまあみろ──と思ったのは一瞬で、怒りの方が強かった。ソフィアを気に入らない気持ちには共感できるが、昨日見た彼女が尋常ではない努力を重ねているだろうことがビアンカには分かってしまったからだ。
ビアンカが知る限り、レーニシュ男爵家で、ソフィアには充分な教育が与えられていなかった。当然先代男爵夫妻が生きていた頃には家庭教師が付けられていたのだろう。妙に礼儀正しく美しい所作はかつてからあったけれど、やはり使わなければ衰えていく能力だ。現に今、ビアンカが貴族令嬢として振る舞えと言われたら、かつてのようにできるとは思えない。
そんなソフィアだったのに、ベアトリスを出迎えたときの所作は完璧だった。ビアンカが評することすら烏滸がましい程に、侯爵夫人として相応しいものだった。そこには血の滲むような努力があるはずで。こんなところで何も知らない女に馬鹿にされるようなことなど、あってはならないと思った。
「私、馬鹿なのっ!? ソフィアのことなんて、大嫌いなのに──」
感情のままに飛び込んで、追い詰められたのはビアンカの方だった。当然だ。ビアンカは今何の後ろ盾も無く、自身の力も無い。最初から戦えるはずがなかったのだ。馬鹿だと言われれば、その通りだ。それどころか、文句すらろくに言えないまま、ソフィアに助けられてしまった。
認めたくなかったけれど、確かにビアンカを助けたのはソフィアだった。しかし、ソフィアはあんな強さを持っていただろうか。明らかに男爵家より格上の家の娘相手に、言い負かしていた。それだけでなく、何事もなかったかのように振る舞っていた。
あの頃のソフィアは、どんなにビアンカ達がきつくあたっても、いつだって諦めたような顔で俯いていたのに──
「何してるんだい、落ち着かない子だねぇ」
うろうろと歩き回るビアンカに、呆れたような声がかけられた。はっと振り返った先にいた見慣れた顔に、ビアンカは思わず安堵する。
「婆さん!」
「なんだよ。──……何かあったんじゃないだろうね?」
ベアトリスはビアンカの様子に違和感を覚えたようで、じろりと睨むように目を細めた。ビアンカはその迫力に思わず息を呑む。そうして、何もなかったとは今更言えないことに気付いた。
「あー、いや。何でもないわよ」
「そんなわけないだろう。しっかり話してもらうからね」
ベアトリスが魔法を使えば、ビアンカの隠し事を暴くことなど容易い。以前にも何度かやられたことのある騎士団もびっくりの尋問──ビアンカがそう言うとベアトリスは穏便な話し合いだと主張する──を思い出し、ビアンカはすぐに口を割った。
「もう、全部話したわよっ! 隠してることなんてないんだからね」
ビアンカの話を聞いたベアトリスは、面倒臭そうに首を左右に振る。
「話は後だ。──私はちょっと出てくるよ」
ベアトリスはそう言って、すぐに立ち上がってビアンカに背を向けた。どうやら説教はないようだと思ったビアンカはほっと小さく息を吐く。しかしベアトリスは、そんなビアンカの気持ちなどお見通しだとばかりに扉の前で振り返った。
「──……後で、ゆっくり、話をするからね。覚悟して待ってるんだね」
ビアンカは閉まる扉を見つめながら、やはり部屋を出たのは間違いだったのだと、かつての行いを後悔したのだった。