令嬢は覚悟を決める6
◇ ◇ ◇
ギルバートはソフィアとエルヴィンとクリスティーナの四人で食卓を囲み、自室へと戻った。両親もいる場では、どうしてもソフィアと込み入った話はし辛い。ギルバートは、先程帰宅したときのソフィアの様子が気になっていた。
最近は一時期よりも眠れるようになってきたようで随分と元気になっている。何かあったのだろうか。過保護かもしれないが、心配だった。
食事を終えて移動した執務室で、ギルバートは領政の資料に目を通しながら、側で控えているハンスを窺った。もしソフィアに何かがあったなら、知っているのはハンスかカリーナだろう。
「ハンス。今日、ソフィアに何かあったのか」
その問いかけに、ハンスはふっと苦笑した。その態度から確証を得て、ギルバートは眉間に皺を寄せる。
ギルバートが気を尖らせたことに気付いたらしいハンスが、小さく首を振った。
「奥様に何かがあったというわけではございません。それは、ご安心ください」
「では何が……」
焦って先を促したギルバートに、ハンスは子を窘めるような柔らかい表情を向けた。
そして口にされた言葉は、ギルバートのどの想像とも異なっていた。
「奥様は、お優しい方でございますね」
「ハンス?」
責めるように名前を呼ぶと、ハンスは穏やかな顔のまま話を続ける。
「奥様が思っておられるのは、旦那様のことでございますよ。──この後お話なさるのですから、直接お訪ねくださいませ。私からは……奥様は、お客様方の名簿を覚えようとお勉強されていた、とだけ」
「……そうか」
今となっては利用している膨大な魔力だが、これを疎ましく思ったことは、一度や二度ではない。悩み、落ち込み、閉じ篭もったこともある。魔力で他人を傷付け、自身の心も傷付く。親すら──自身の存在すらも恨んだことが、無いわけではなかった。
そして、幼い頃から関わっている一族だからこそ、事件はいくつもあった。
ハンスがソフィアが名簿を見て勉強していたと知っているということは、ソフィアは名簿を見て、何かをハンスに聞いたのだろう。そしてハンスがそれを教え、ソフィアは、心を痛めたのではないか。
ギルバートは書類を机に投げ出すようにして、両手で顔を覆った。
「ソフィア、今日は何があった?」
二人きりの部屋で、いつも繰り返す問い。
テーブルの上には、安眠効果のあるハーブティーがある。
「今日は、少し庭園を散策しておりました。コスモスがとても綺麗で……王都の真ん中であることを忘れてしまいそうになりました」
ソフィアはいつだって、その日にあった良かったことを真っ先に伝えてくれる。ギルバートがそれに気付いたのはいつだっただろう。知ってしまうとあまりにいじらしく、愛らしい。
ソファの座面の上でそっと重ねただけの手が、穏やかだった。
ギルバートは小さく頷いた。
「そうか。宴の日まで、このまま咲いていてくれるだろう」
「はい、そうですね」
ソフィアが控えめな微笑みを見せる。しかしその笑顔は、どこか曇りがちだ。
出会ったばかりの頃よりもずっと朗らかに笑うようになったからこそ、こういった表情が気になるようになった。それは確かに良いことだが、喜ぶことはできそうにない。
「──元気がないようだが、何かあったのか?」
「あ……」
ギルバートが問いかけると、ソフィアが目を瞠った。
「やはり、あったのか」
「いえ。あの……あったといいますか……」
ギルバートは言い淀むソフィアに距離を詰め、その頬に小さく口付けをした。驚いたらしいソフィアが、ギルバートの目を見る。曇りの無い深緑が眩しかった。
正直なところ、ギルバートが幼い頃から今までの間にあったことで、ソフィアが耳にして心を痛めるかもしれないことは、一つや二つではない。
歳の近い友人がいなかった孤独な幼少期。
魔力が暴走し引き起こされたいくつもの事件。
部屋に引き篭もっての研究の日々。
今いる立場に必要な能力や知識は、ほとんどがそれらの副産物といっても過言ではない。
既にギルバート自身はその多くを割りきっているが、ハンスが言う通り、優しいソフィアはきっとその不条理に心を痛めるのだろう。
ギルバートとて、話さずに済むものならば黙っていたかった。
「気になることがあるのならば、話してほしい。言わねば分からない」
だからこそ、ソフィアが聞いた話が何だったのかを正確に知りたかった。
ギルバートは、ソフィアの手をぎゅっと握った。重ねただけだった肌が強く触れ合う。ソフィアは逃げるように、視線をそっと手に移した。
「今日は、名簿を確認していました。それで、ジェレ子爵夫人についてのお話をお聞きしまして……」
「ああ。……そうか」
ギルバートは小さく息を吐いて頷いた。
今回、ジェレ子爵夫妻がこの侯爵邸に宿泊すると聞いている。夫人となったかつての子爵令嬢──リリアが訪れるのは、あの事件以来初めてのことだ。
「ギルバート様?」
「いや、気にすることはない。もう随分前のことだから。──ハンスから聞いたのか?」
あの事件で見たものを、ギルバートは当時、誰にも話していなかった。
というのも、初めて触れた明確な悪意と罪であったために、幼いギルバートは傷付き、それどころではなかったのだ。
両親は一族に口止めをしたが、その効果は芳しくなく。一族が集まっているときに起きてしまった事件であったため、ギルバートの魔力の強さと危険性がたちまち社交界に広がった。
当時有力貴族の次期当主という立場だったギルバートは、それだけでも多くの者に嫉まれていたらしい。膨大な魔力を自在に扱えるようになるまではと同年代の子供と距離を置くようにされていたことも、それに拍車をかけていた。
あの頃『特別な子供』だったギルバートは、他の誰よりも『特別』を恐れていた。