令嬢は覚悟を決める5
番外編2「ひとりぼっちの友達(ギルバートとマティアスの場合)」を未読の方は、そちらを先にお読みください。
「リリア・ジェレ夫人ですか」
ソフィアの質問に、ハンスは迷うように目を泳がせた。ハンスにしては珍しいその態度に、ソフィアは何かあるのかと不安になる。それに気付いたらしいハンスが、首を左右に振った。
「ああ、いえ。別に今、深刻な事情があるわけではないのです。ただ、恐らく彼女は、旦那様を良くは思っていらっしゃらないのだろうと……今回は夫人同伴で連絡が来ていましたので、念のため注意していただきたいと思っておりました」
「何か、あったのですか?」
ソフィアがおずおずと問いかけると、ハンスが頷く。
「そうですね、お話しさせていただきましょう。もう十年以上も昔のことです」
それからハンスが語ったのは、ギルバートがまだ子供の頃に起こった事件だった。
幼いリリアに触れられ、魔力を暴走させたギルバートが、庭の四阿を破壊した。リリアはギルバートが突き飛ばしていたお陰で擦り傷だけで済んだが、事件を怪しんだエルヴィンによってジェレ子爵家には調査が入ることになる。
そこで判明したのは、先代子爵夫妻の横領と収賄、それに伴う不正会計だった。結果、子爵家に与えられていた領地は本家であるフォルスター侯爵家に返還する手続きが行われることになる。そして子爵家当主夫妻はその立場を追われ、辺境の地へと送られた。まだ幼かったリリアは爵位のみを継ぎ、代わりに侯爵家から優秀な家令を一人当主邸に住まわせ、建て直しが命じられた。
やがてリリアが成人するのを待って、そのときの家令の息子と結婚。今は元々子爵領であった土地の管理を任されながら暮らしているらしい。
「あのとき、ギルバート様が何を見たのか、大旦那様方も詳しくお聞きになりはしませんでした。それまで活発だったギルバート様が邸に……いえ、むしろご自身の部屋に引き篭もりがちになってしまわれまして、とても聞けるような状況ではなかったのです」
「そんな……」
ソフィアは両手で口元を押さえた。
ギルバートがいつもソフィアに触れるのは、それが心地良いからだと、聞いたことがある。触れると魔力で心を読んでしまうと聞いたとき、それは大変なことだろうと思った。傷付いたこともあるのだろうと、同情した。
幼いギルバートは、安全な領域に引き篭もってしまうほどの傷を、きっとそのとき負ったのだ。それはソフィアの想像でしかなかったギルバートの苦労を、まざまざと見せつけられたようだった。
「奥様がそのような顔をなさらないでください。今、ギルバート様──いいえ、旦那様はお幸せそうですから、辛いことも含めて、無駄なものは何もなかったのです。ただ、ジェレ夫人にとっては、この家は気に入らないものの一つでしょう」
ハンスが苦笑する。ソフィアは、今自分がどんな顔をしているのか分からず、探るように右手で頬に触れた。それから固まってしまった表情を解きほぐすように、ゆっくりと輪郭をなぞっていく。
まだ幼いリリアに、物事の道理がどの程度理解できていたかは分からない。しかしハンスが言う通り、フォルスター侯爵を両親の敵だと思っていたとしても、何も不思議ではない。
「ジェレ子爵家はタウンハウスを持たないので、どうしてもこの邸に宿泊することになります。これまでの会合には家令が、結婚をした後は子爵が出席をしていました。夫人は事件以来ここには来ておりませんでしたので、どういう風の吹き回しか……ああいえ、普通に考えたら、旦那様の披露宴があるからに違いないのですが」
ハンスはそこまで話してから、気遣うような目をソフィアに向けた。
「気をつけておくに越したことはありません。……奥様は特に、分かりやすい旦那様の弱点になりえますので」
ソフィアの心臓がどきりと跳ねた。それを誤魔化すように、あえてゆっくりと呼吸するよう意識を向ける。これは厳しい言葉のようであって、実際はハンスの優しさだ。そうでなければ、ソフィアにこの話をする必要すらないのだから。
ソフィアはしっかりと頷いた。
「はい。お話ししてくださって、ありがとうございます」
それを見たハンスは、空気を変えようとするように、上着の内ポケットから懐中時計を取り出した。時間を確認して、眉を下げる。
「心配をしたところで、何も起こらない可能性の方が高いですけどね。……ああ、そろそろ旦那様がお帰りになるでしょう。奥様もお支度をなさったほうがよろしいですよ」
確認するようにとソフィアにも見せられた時計からは、いつもの通りならば、あと半刻ほどでギルバートが帰宅することが分かる。そろそろカリーナに化粧と服を直してもらわなければいけないだろう。ギルバートのことは、きちんとした姿で出迎えたい。
ソフィアはお礼を言って自室へと戻った。
カリーナは時間がないと慌てていたが、どうにかギルバートの帰宅までには支度を終え、サルーンに移動することができた。
「ただいま、ソフィア」
騎士服のマントと荷物をハンスに預けながら、ギルバートが言う。言葉と共に甘やかすように広げられた腕に、ソフィアはゆっくりと身体を預けた。
黒い騎士服の銀の飾り紐が頬に触れて、その冷たさから外の寒さを知る。
「──おかえりなさいませ、ギルバート様」
ソフィアはうまく笑えている自信がないままに、微笑みを浮かべた。