カリーナの憂鬱(カリーナとケヴィンの場合)
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カリーナとケヴィンのお話です。
カリーナは侯爵邸の裏庭で、溜息を吐いた。
ソフィアが拐われたあの戦争も終わり、フォルスター侯爵家には平穏な暮らしが戻ってきていた。ギルバートもソフィアも以前同様に仲睦まじく、使用人達も皆それを見てはほっと胸を撫で下ろしている。
「だけど、私がもっとしっかりしていたら……」
カリーナはここ数日隠し持っている小振りのナイフに、服の上から触れた。あの日、ソフィアと共に倒れてしまったことを、カリーナは気にしていた。ギルバートもソフィアも、厳しいハンスでさえも、カリーナを責めることはなかった。それは仕方がないことだと思ったからであり、同時に、期待されていないことの裏返しでもある。
先日までただのメイドで、最近侍女になったばかり、それも戦闘訓練なんて受けたことがないカリーナが、暴漢や薬物に勝てるはずがない。当然のことだったが、今のカリーナは素直に受け入れることができなかった。以来ハンスに頼んで、暗器による護身のための戦闘を教えてもらっている。
侍女になってから、自身のランチはソフィアの予定に合わせてずらしている。今日この時間、裏庭にはカリーナしかおらず、初夏の少し強い日差しから隠れる特等席である大きな木の下を独り占めしていた。
「──カリーナ、こんなとこにいたんだ」
突然の声に、カリーナははっと顔を上げた。背中に太陽の光を受けて、その整った顔は少し陰になって見える。
「ケヴィン!? あんた、どうして」
「いや、副隊長のとこに用事があって寄ったんだけど、僕、今日午前で終わりだから。ソフィア嬢──あ、違った。フォルスター夫人に、カリーナは休憩中だって聞いたんだ」
「そ、そうだったの」
いつの間にか呼び捨てにされるようになった名前がくすぐったい。いつもと変わらない態度にどうして良いか分からず、カリーナは誤魔化すようにバスケットの中のホットサンドにかぶりついた。
会いたかった。会いたくなかった。相反する感情が渦巻いて、混乱する。
「うん。最近、僕も出張してたから会ってなかったからさ。カリーナ、いつもの店にも来ないし。──心配した」
出張とは、エラトスとの戦争のことだろう。ソフィアから事の顛末は聞いている。カリーナが閉じ込められたのはほんの些細なことで、ソフィアはもっと危険な目に遭っていた。そしてそれを助けに行ったギルバートも──ケヴィンも活躍したと聞いている。
「し、心配させたなら悪かったわ。ごめんなさい。別に何でもないの」
「そっか、何でもないなら良いけどさ。そろそろまたご飯行こうよ」
カリーナの隣に、ケヴィンが雑に腰を下ろした。ケヴィンがいる右側が熱を持つ。友達とは違う、特別な感情がカリーナの張り詰めていた心を少し緩ませた。
「そうね……って、それだけ言いにきたの?」
「うん」
「暇なの!?」
カリーナは咄嗟に声を上げていた。ケヴィンもカリーナを憎からず思ってくれているだろうが、それがカリーナのものと同じかどうかとなると、分からない。
「酷くない!? 僕、これでも副隊長の部下だよ。それなりに仕事はあるんだからね」
ケヴィンは頬を小さく膨らませている。実年齢よりずっと若く見えるその顔が、表情のせいでまるでカリーナよりも歳下のようだった。
「だったらどうして──」
「カリーナのことが心配だったんだよ。夫人と一緒に眠り薬を飲まされて、閉じ込められてたって聞いたから!」
ケヴィンが勢いよく言って、そのまま深く嘆息した。
「心配だったけど、任務中だったし、まずはソフィア嬢を取り返すのがカリーナのためだと思って……その。帰ってきてからも、カリーナが一番辛いだろうときに側にいなかったって思ったら、今度は顔が出し辛くなったというか」
話しながら、ケヴィンはどんどん下を向いていった。カリーナは目を見張った。ランチは終えたが、美味しかったはずのホットサンドの味を全く覚えていない。
「ケヴィン。ちょっと、何を言ってるのよ。私なんて──」
「私なんてって言われても、僕は君が心配だったんだって。怖い思い、したんでしょ?」
伺うような目がカリーナの心に刺さった。ソフィアのことが心配で、必死だった。同じようなことにならないように警戒して、少しでも早く強くなりたくて、寝不足でも自主練を繰り返した。怖いと思ってしまった自分自身が恥ずかしくて、守るべき存在であるソフィアのことばかり考えようとした。
「なんで……どうしてあんたが、そういうこと言うのよぉ……」
ソフィアが帰ってきた日から他人に涙を見せていなかったのに、今、目頭が熱い。情けない顔を見られたくなくて、カリーナは涙を隠して俯いた。隣にいるケヴィンが、聞いたことがないような柔らかい声で言う。
「ねえ、カリーナ。もし……もしも、だけどさ。僕と結婚してって言ったら、どうする?」
カリーナは涙も忘れて顔を上げた。ケヴィンはまっすぐにこちらを見ていて、正面から目が合う。そこに浮かぶ真剣な色に怖気付いたことを隠すように、カリーナはへらりと笑った。
「何、ふざけてるの?」
「まあ聞いてよ。僕と結婚したら、もうあんな怖い思いをすることはないよ。──これでも、貴族の三男なんだ。仕事の稼ぎも悪くないし、贅沢……この家と比べられると困るけど、君を安心させるくらいの贅沢はさせてあげられる」
「──ケヴィン、待って」
「ただ、社交界にも出てもらうことになるし、今みたいに侍女の仕事にかかりきりってのはできないと思う。ソフィア嬢の側にずっといるってことはできない。勿論、その分安全だよ。君のための護衛だって、つけてあげる」
ケヴィンとの距離は、いつもこんなに近かっただろうか。いつもの距離が思い出せない。追い詰められたような気持ちでいるカリーナに、ケヴィンは追い討ちをかけた。
「ねえ、どうする?」
頭が真っ白になる。顔が熱くて、でもその言葉は甘くも残酷で、淡い恋心をぎゅっと握り締められたようだ。カリーナは荒くなる息を隠す余裕もなく声を上げた。
「そんな……そんなの、駄目よ。だって私、ソフィアの側にいたいもの。いつまでかは分からないけど、今は駄目。まだ侯爵夫人に慣れてないソフィアを、一人にはできないわ。怖いこともあるけど、大丈夫。だって、私は強いもの」
言い切ったときには、すっきりしていた。そう、カリーナは弱くない。守られているだけのお嬢様ではないし、甘えてばかりのどこかの坊ちゃんとも違うのだ。
「だよね。──あー、良かった。ほら、不安に思うことなんてないでしょ。カリーナは強いよ」
ケヴィンはそう言って、大きな木の幹に寄り掛かった。両手を上げて身体を伸ばして、それまでとは一転してリラックスした様子だ。
「どういう──」
「それだけ強ければ、すぐに戦い方も覚えるよ。心配することないって。怪我する方が、駄目だって。その手、普通に侍女の手じゃないし、そんなに分かりやすいと逆に警戒されるよ」
ケヴィンはいつもの笑顔で、カリーナの頭を軽く小突いてくる。掌にまめがいくつもできていることに、いつの間に気付かれたのだろう。カリーナはかっと赤くなった顔のまま、ケヴィンの腕を掴んだ。
「揶揄ってー!!」
「良いじゃん、元気になったでしょ。今夜は飲みに行こうよ。夫人の許可はもらっといたからさ」
言うとケヴィンは立ち上がって、カリーナに背を向けた。励ましてくれたのだろうが、どこまで本気だったのか。分からないカリーナはその後ろ姿に、聞こえないくらい小さい声で、馬鹿、と呟く。
「なにー?」
「何でもないわ。じゃあ、後でいつもの店でね」
カリーナは広げていたランチセットを片付けて立ち上がった。戻ったら、お節介なソフィアにひとこと言ってやろう。それで、そのあと心配をかけたことを謝って、お礼も言わなくては。
軽くなった気持ちのままの軽い足取りで、ケヴィンの背中を追って、カリーナは邸へと足を踏み出した。