令嬢と黒騎士様は家に帰る4
それから一週間が過ぎた頃、ギルバートの休日にソフィアは執務室に呼び出された。
ギルバートは普段は騎士団の仕事であまり家とのことにまで手が回らないため、休日には侯爵としての執務をしていることが多かった。ソフィアはそんな日は邪魔をしないように邸内で過ごしている。
執務室に呼ばれるのは、珍しいことだった。
「ギルバート様、何かありましたか?」
ソフィアがギルバートに問いかけると、ギルバートは真面目な顔で頷いた。
「ソフィアが先日、護身術を習得しようかと言っていただろう」
「あ、あの……」
カリーナと話していて、ふと思い立って言ったことだった。ギルバートにあまり良い返事をされないまま、やはり貴族女性としては可笑しな提案だったかと後になって思っていた。
「忘れてくださいっ! 皆はあまり学ぶことでもないんですよね……?」
俯くと、ギルバートが椅子を立つかたんという音がした。絨毯の上、足音はしないが近付いてきていることは分かる。目の前に立ち止まった気配を感じて、ソフィアは顔を上げた。
「いや、お前の不安も尤もなことだと思う。私が仕事のときは、側にいられないのだから。だから……すまないが、これを常に持っていて欲しい」
何かを握った手を伸ばされ、ソフィアは咄嗟に両手を広げて皿にした。
ぽとりと落とされたのは、丸い銀の玉とそれが入る大きさの飾りボタンの台座だ。二つあり、長袖の服ならばカフスボタンとしても使えるだろう。銀の玉にはアスターの花の彫刻が施され、小さなダイヤモンドがあしらわれている。しかし台座に入っていないのは何故なのか。
「これは……?」
掌の上で転がしながらまじまじと見ていると、ギルバートが笑った。
「この玉は、強い衝撃を受けると周囲を凍らせることができる」
「──え?」
ソフィアはころころと転がしていた玉の動きを、慌てて握り込んで押さえた。うっかり落としたら大変なことになってしまいそうだ。顔が青くなる。この可愛らしい飾り玉が、そんな力がある魔道具だとは。
「護身術を覚えても、ソフィアより強い者相手では太刀打ちできない。ならば、これで敵の動きを止めて逃げるのが最も安全だ」
「それは……っ。──そうですね」
ギルバートの言葉は正しい。ソフィアは素直に頷いて、おそるおそる手を開いた。やはり何度見ても可愛いらしいデザインだ。
「装飾品として使って、いざというときは台座から外して相手に投げつけると良い。勿論、服に合わないときはポケットに入れておいても構わない。──うっかり絨毯の上に落としたくらいでは発動しないから、怖がることはない。魔道具が発動すると身につけている指輪も起動するから、同時に私にお前の居場所も伝わる。勿論使わないに越したことはないが……念のために持っておけ」
「ありがとう、ございます」
ソフィアが礼を言うと、ギルバートは安心したように頷いて執務机の椅子に戻った。
手の中の魔道具はキラキラと輝いている。彫られたアスターの花は、ソフィアが社交界デビューの時に王妃に貰った花だ。それで、この魔道具がソフィアの為に作られたものであると分かる。
「──どうした?」
「いえ、アスターの花が……懐かしくて」
その日、ソフィアは王城の四阿でギルバートからプロポーズをされたのだ。結婚してから今日まで色々なことがあったが、あの日のことは忘れられない。もう離さないと言われたときの満ち足りた気持ちと、強くなろうという決意。アスターの花はあの日、確かにソフィアの背中を押してくれた。
「そうだな、あの日のソフィアは本当に美しかった。勿論、今もだが」
ギルバートが顔を上げてソフィアに言う。ソフィアは熱くなる頬を軽く手で押さえた。
「もう……そんなこと仰られたら、私、お部屋に戻りたくなくなります」
「ここにいるか?」
ギルバートが近くにある一人掛けのソファを手で示した。ギルバートが休む場所だろう。まさか執務中にも側にずっといたいなどという子供のような我儘を言うわけにはいかない。
「い、いえ。結構です……っ!」
「冗談だ」
慌てて首を振ると、ギルバートが喉の奥をくつくつと鳴らして笑った。
「もう、ギルバート様は意地悪です! でも……後で一緒にお茶をする時間くらいはくださいね。あの、待ってますから」
「ああ、分かった」
ソフィアは笑って手の中の魔道具を握り締め、勢いよく執務室を出た。カリーナと一緒に茶菓子を選んで待つのも良いだろう。貰った魔道具の使い方と扱いも、カリーナと共有しておかねばならない。この時間はソフィアの部屋にいるはずだ。ソフィアは今日の楽しみな時間を胸に、自室に向かった。
一方、執務室に残されたギルバートは頭を抱えた。
ソフィアと結婚してから数ヶ月が経つ。離れていた時間もあるが、それでもソフィアと過ごす時間は以前より多くなった。
「──可愛すぎだろう、私の嫁は」
ギルバートは低い声で呟く。困惑した顔や恥ずかしげな表情、控えめで愛らしい笑顔も、全てがギルバートの心を捕らえて離さない。
これまで第二小隊の既婚隊員や知人の貴族から妻子の惚気話を聞かされたことはあったが、他人に何を個人的なことを話しているのかと内心では呆れていた。
今なら分かる。彼らはきっと今の自分と同じ感情だったのだ。
しかしギルバート自身が、彼らと同じ行動をすることはないだろう。
「ソフィアが待っている。……早く終わらせてしまおう」
ギルバートは気を取り直し置いていたペンを手に取り、机上の書類の確認を再開した。