令嬢は黒騎士様の宝物3
「──そうか、コンラートは覚悟を決めたか」
アイオリアの王城の王太子執務室で、マティアスはギルバートからの報告を受けて呟いた。
「では、ギルバートは説得に成功したのですね」
護衛に付いているアーベルが、マティアスの呟きに相槌を打った。マティアスはそれに頷き、通信用の魔道具を机の上に放ってにっと口角を上げた。
「全く、勝手に後継争いに巻き込んで、人質まで取ってくれて……私達も舐められたものだね。これだけされて講和程度で許すはずもあるまい」
マティアスは怒っていた。それは燃えるような怒りではないけれど、静かにずっと心の中に燻り続けているような怒りだ。後継争いに自国を巻き込まれたところまではまだ良かった。他国ならまだしも、エラトスならばやりかねないだろうと思っていた。ヘルムートは現王同様に野心ばかり強い人物だ。第二王子の立場では満足しないだろうことも分かる。攻めてこられても、所詮衰退している王国の部隊程度、アイオリアの訓練された兵士達にとっては大した問題ではない。マティアスの怒りはそんなことではない。
数少ない友人であり信頼する部下であるギルバートが愛した、ただ一人の妻を拐ったこと。ソフィアという関係のない一般人を巻き込んだこと。そして、これまでソフィアを自身の事情に巻き込まないようにとらしくもなく必死で配慮していたギルバートに、きっと最も恐怖していた出来事を味わわせてしまったこと。一国の王太子として以前に一人の人間としての怒りが強い。ギルバートが望めば、王族への信頼が壊れかけた王国など、どうとでもしてやろうとまで考えていた。
「殿下」
アーベルが嗜めるように低い声を出した。それが面白くて、マティアスも少し肩の力を抜く。
「いや、講和はするよ。何よりギルバートとコンラートが話して決めたことだからね。──だが、少し裏から手を回すくらいなら良いだろう?」
「私は、何も聞いておりません」
アーベルは知らぬふりで目を逸らした。マティアスは手元にいくつかの資料を引き寄せ、ペンを手に取った。資料は講和の際に使う書状の草稿だ。以前から準備していたそれを書き直していく。明日の会議で提案する予定のものだ。予定よりも早くそれを使う時が来たことを内心で喜びながら、マティアスはペンを走らせた。
ソフィアを救い出した翌日も、ギルバートはエラトスの王城でジルとして郵便を運んでいた。心配が一つ解消されたことで、今日は完璧な仮面を被ることができている。
「カミルさん、お疲れ様です」
ギルバートは害の無さそうな笑みを浮かべ、廊下で見かけた背中に声をかけた。呼び止められたカミルは、足を止めて振り返る。その両手には、これ以上どう積めば良いか分からないくらいの書類が抱えられていた。
「ああ、ジルか。お疲れ」
「……カミルさん!? それ、一人じゃ無理です! 外務の部屋までですよね、俺、手伝いますよ」
ギルバートは手に持っていた次に運ぶ予定の手紙を肩掛け鞄に戻し、カミルが持っていた書類の上半分をがさりと手に取った。
「何ですかこの書類の山……」
「いや。今、外務は大騒ぎでさ。上司も先輩も手が離せないんだと。頼まれたは良いけど困ってたんだ、助かったよ」
ははっと軽く笑っているが、その表情にはらしくなく生気がない。ギルバートは周囲を見て誰もいないことを確認してから、カミルに近付き声を落とした。
「また『殿下』絡みですか」
「──ここだけにしてくれよ。今度は気に入りの女が逃げ出したらしい。そんなこと俺は知ったこっちゃないけど、その子は良くやったと思うよ。ただ、お陰で機嫌が悪くて悪くて……自室に引き篭ってるんだってよ。こっちは大迷惑だ」
カミルが不機嫌そうに顔を顰める。ギルバートは眉を下げ、同情している表情で言葉を重ねた。
「それは……今、ただでさえ外務はお忙しいでしょう」
隣国であるアイオリアと戦争をしているのだ。忙しくないはずがない。ましてヘルムートが勝手にやらかしたらしい人質騒ぎと、それまで止んでいたアイオリアからの攻撃の再開、一度はエラトスが破壊した防御壁の再構築。そして他国への説明。忙しくないはずがない。ギルバートの相槌に、カミルは力一杯頷いた。
「そうなんだよ! それなのに彼奴ら、どうにかしろしか言わないし。どうにかってなんだよって思うだろ?」
ギルバートは書類を左手に抱え、右手でカミルの肩をぽんぽんと宥めるように叩いた。カミルがギルバートの手を掴んで止める。
「なんだ、励ましてくれんのかよ。──ああ、先輩がみんなジルみたいなら良かったのにな」
「それは……仕事が回らないのではないですか?」
「はは、違いない」
カミルの言っていることは本当だった。まだ皆は知らないだろうが、更に数日後にはアイオリアから講和の申し出があるはずだ。カミルはより忙しくなる。
ギルバートは外務の部屋の前まで書類を運び、カミルと別れた。先程カミルが触れたとき、従僕も誰もおらず、鍵の掛かったヘルムートの執務室の入り口が見えた。おそらく仕事で立ち寄ったのだろう。もし今も誰もいないのならば、この上ない好機だ。ギルバートは鞄の中を確認してヘルムート宛の書状を取り出し、執務室へと向かった。