黒騎士様は令嬢と再会する7
窓の外はいくつもの魔道具の明かりで照らされており、邸の敷地内に隠れる場所は無いように思えた。ギルバートは力なく縋り付いているソフィアを担いだまま追手の追跡を逃れて庭園を抜ける。短剣と魔法で裏門の警備兵を退けると、貴族街の広い道をできるだけ最短距離で抜け、商業地区の裏道へと身を隠した。
華やかな商業地区は、裏道に入れば人気のない場所や小さい酒屋が多い。このまま近くの林へと抜けよう。ギルバートは一度ソフィアを下ろし、華やか過ぎる青い上着を脱いだ。裏返して装飾を隠し、寒そうなソフィアの肩に掛ける。ソフィアは寒さからか恐怖からか、小さく震えていた。
「もう少し耐えてくれ。すまなかった」
ギルバートは自分とソフィアの仮面を外して、折れるのも構わずポケットの中に雑に押し込んだ。今度は少しでもソフィアを安心させるように優しく抱き上げる。冷えた身体を少しでも早く温めてやりたかった。
「ギルバート様……」
ソフィアが闇にのまれてしまいそうなか細い声でギルバートの名前を呼んだ。ギルバートは抱く腕に力を入れて、それに返事をしないままひたすら夜を駆けた。
ようやくギルバートが足を止めたのは、商業地区の端にある小さな林の中だった。ここまで来れば追手もいないだろう。木の幹に寄り掛からせるようにソフィアを座らせる。やっと地面に身体が付いてほっとしたソフィアは、すぐ目の前に屈んだギルバートの姿に釘付けになった。
「──ソフィア、遅くなった」
夜の闇の中でも輝きを失わない銀髪と、ソフィアを見る真摯な瞳。暗く、いつもの藍色が分からないことが切ない。それでもその端正な顔も、慣れた腕の感触も、大きな身体も、焦がれて仕方なかったギルバートのものだ。
「ギ……ルバート、様?」
ソフィアは身体の重さすら厭わず、ゆっくりと持ち上げた右手でギルバートの頬に触れる。ひやりとした感触が、ソフィアを少し安心させた。
「良かった、です。夢じゃ……ないんですよね?」
僅かに口角を上げる。顔が強張って、上手く笑えなかった。ギルバートが頬に触れているソフィアの手に手を重ねて支えてくれている。そして、何かを堪えるようにぐっと両目を閉じた。苦しそうな表情が、ソフィアの胸に刺さる。
「夢ではない。夢でなど、あってたまるものか。本当に……無事で、良かった。ソフィア、辛い思いをさせて、すまなかった」
「いいえ……ごめんなさい、ギルバート様。私こそ、ご迷惑をお掛けしてしまいました」
「いや、ソフィアは何も──」
「わ……私、皆様にも、ギルバート様にも、もう、お会いできないと……」
涙が溢れた。気を抜いた身体は重く、押さえてくれていなければ右手もギルバートに触れていることはできないだろう。僅かな繋がりが今のソフィアを繋ぎ止めるたった一つで、離してほしくなかった。今は少しでも長く、ギルバートに触れていたい。
「だから私……っ」
続けようとした言葉は、突然の抱擁によって阻まれた。腕を引かれて前のめりになった身体を、ギルバートの胸が支えてくれている。力が入らない身体は重たいはずなのに、ギルバートは背中にしっかりと両腕を回してソフィアを抱き留めてくれていた。
「駄目だ。お前は何があっても……誰に何を言われても、私の側にいてくれ。ソフィアを感じない生活なんて、全く無意味なものだ」
ギルバートは言い聞かせるような強い口調だ。ソフィアの頭はギルバートの肩に凭せかけられていて、その表情は窺えない。ただ力強い腕と、確かに感じる温もりと、ソフィアを受け入れてくれる言葉が、まるで春の日差しのように、凍りついた心を融かしていくようだった。溢れた涙は空気に冷やされ、冷たくなってギルバートのシャツに染みを作っていく。
「こんな私じゃ……ギルバート様のお側には、相応しくないのかもしれないと……」
「そんなことはない。むしろいてくれなければ、私が困る。それとも今回のことで、もう私の側にはいたくないと思わせてしまっただろうか……?」
はっきりと首を振って否定したギルバートは、逆にどこか弱さを含んだ声音でソフィアに問いかける。ソフィアは慌てて首を振った。
「相応しくないのかもしれないと、思いました。──でも、それでも何があっても……やっぱり私は、ギルバート様のお側でなければ、嫌です……っ!」
力の入らない両手で、ギルバートの服を緩く握った。少しの隙間も無くしてしまいたかった。今は服の生地すら邪魔だと思ってしまう。触れ合う身体から、どちらのものとも分からない鼓動の音がする。
「──……ありがとう」
ギルバートが、ソフィアの大好きな甘く優しい声で囁いた。それは耳に擽ったくて、同時に心をぽかぽかと温めてくれる。涙は少しずつ止まってきていた。
「すぐそこのアパートメントを借りている。一度戻って、その首輪を外してしまいたい」
「ありがとうございます」
魔道具は解除することも壊すことも、専門の技術が必要だ。手間を掛けることは本意ではないが、このままでいては余計に迷惑だろう。ソフィアは素直に礼を言った。
「早く外してしまわなければ、私がソフィアに抱き締めてもらえないだろう」
ソフィアを抱き上げながら、ギルバートが苦笑して言った。ソフィアは日常のようなその声にほっと息を吐く。緊張の糸が緩んで、ギルバートに身体を預けた。
「このまま少し休むと良い。どうせ朝までは、こちらも何もできない」
ギルバートにそう言われても、ソフィアは眠るつもりはなかった。しかし規則的な揺れはソフィアをあやすように心地良く、気付けばすっかり眠りの中にいた。