令嬢は異国に囚われる2
フォルスター侯爵家で最初にソフィアの不在に気付いたのは料理長だった。それはいつもより長く掛かった仕入れから戻り、厨房に入ったときだ。整然と並ぶ調理器具と、丁寧に洗われ並ぶ食器達。それは自身が出掛ける前と殆ど変わっておらず、だからこそ小さな変化が気にかかる。
調べると昼食には使っていなかった筈の皿が乾燥棚に置かれており、調理台の影に葡萄らしき果実が一粒だけ転がっている。しかしゴミ箱に葡萄の枝や皮は入っていなかった。
元々今日の仕入れは時間がかかる予定だった。香草を何種類か購入する為に、少し遠方の専門店を訪ねていたのだ。昨日の夜の内に、見習いの料理人にソフィアとカリーナにその旨を伝えるよう頼んでいた。
「何だ、この違和感は……」
冷蔵庫を開けると、自分が仕入れる予定の無かった筈の野菜が増えている。首を傾げつつ、料理長はカウンター越しに準備室を覗いた。そこには洗われないまま置かれている二組のティーセット。上品なそれのうちの一組は、ソフィア用にと選ばれた物だ。
料理長は脳裏を過ぎった不安に、急いで昨日の夜連絡を頼んだ料理人の部屋に向かった。階段を駆け上がり、住み込みの使用人達が使っている部屋の並ぶ三階に行く。その男の部屋は鍵が掛かっていなかった。扉を開けたが、中に私物は殆どない。
「嘘だろ」
料理人はまだ見習いだったが、もうこの邸で一年以上働いている男だった。明らかな異常事態に、料理長はそのまま地下のハンスの執務室へと走る。乱暴に扉を叩き、息を整える間も無く中に入った。ハンスは何か書き物をしていたようだったが、料理長の様子を見て手を止めた。
「どうしました、料理長。そんなに慌てて──」
「奥様は何処にいる!? カリーナでも良い。今何処にいるのか、ハンスなら知らないか!」
言葉を遮り勢いのままに言う。ハンスは途端に顔を青くして立ち上がった。
「この時間は貴方のところではないのですか」
「昨日の内に連絡していたんだ。今日は香草の仕入れだったから──」
「今朝はそのようなこと、全く仰っていませんでしたよ」
ハンスも事態に気付き、すぐに邸中でソフィアとカリーナ、そして料理人の男の捜索が開始された。ハンスによると、料理人の男については実家の母親が病気で金が足りないと相談をしてきたことがあったそうだ。ギルバートと相談し、数ヶ月前、病名に見合った額を男の実家宛に送っていると言う。
「彼が金を欲しがったのは、母親の為ではなかったのかもしれません」
ハンスは料理長と現状を共有し、更に表情を引き締めた。もし男が他の事情で金を必要としていたのならば、それは犯罪に手を貸す理由になり得る。料理長もまた頭を抱えた。
カリーナを見つけたのは庭師だった。もう日がすっかり暮れてしまおうという頃、使っていた剪定ばさみを片付けに小屋に向かった時、隣の倉庫から何かを叩く音がしたのだ。不思議に思った庭師は、片付けを済ませてから倉庫に向かう。鍵のないその扉には、外からつっかえ棒がされていた。
「誰かおるのか?」
扉越しに声をかけると、中からは悲鳴混じりの声が返ってくる。
「爺さん!? 私、カリーナよ!」
「カリーナさんじゃと!」
庭師は六十歳を過ぎているとは思えない程素早い動きでつっかえ棒を外して扉を開けた。途端、中からカリーナが転がるようにして出てくる。庭師の顔を見て、カリーナは顔をぐしゃぐしゃに歪めた。
「爺さん、どうしよう。ソフィアが、ソフィアが……っ」
埃まみれの制服も乱れた髪も気にせず、カリーナはただ慌てている。ハンスからソフィアとカリーナを探せという指示が出てしばらく経っている。その様子に只事ではないと思いつつ、庭師はそれでも落ち着けようと肩を叩いた。
「落ち着くのじゃ。──奥様なら、今邸の皆で探しておる。ハンスが執務室にいるから、話をしに行きなさい」
はっと顔を上げたカリーナはその言葉に頷いて駆け出した。その足取りはしっかりとしていて、庭師は少し安心する。しかし同時にカリーナとソフィアが一緒にいる訳ではないことが分かり、失望した。せめて二人でいてくれれば、ソフィアは一人きりではなかった。恐らく拐われたのだろうフォルスター侯爵家の女主人。ギルバートが案じていたことが現実になっていくことが、長く勤めている庭師には悔しかった。
ハンスはカリーナからの報告を受け、すぐに邸を出た。手には箱に入れて保管した葡萄の実と、緊急の時のみ使用するように言われている封筒。一人乗りの馬車は速く、もうすぐ正門も閉まろうというぎりぎりの時間に王城に駆け込むことができた。近衛騎士団第二小隊に向かい、持ってきた封筒をアーベルに見せる。帰り支度を始めていたアーベルは手を止めてその封筒をまじまじと見た。
「──フォルスター侯爵家の使者殿、どのような用件ですか」
それはフォルスター侯爵家の使者として、王太子であるマティアスとの秘密裏の謁見を申し出る為の封筒だ。どんな大貴族の家にも、そのようなものはないだろう。これはギルバートとマティアスが互いに信頼し合っているからこそ存在する。この存在を知っているのは、万一の際に取り次ぎを依頼しているアーベルと、マティアスの側近達のみだ。
「当家の者が拐われたようです。お取り次ぎを」
アーベルはぐっと唇を噛み、目を伏せた。ハンスはそれ以上の言葉を重ねず、じっとアーベルの返事を待つ。
「殿下なら今日はまだ執務室でしょう。案内します」
「ありがとうございます」
アーベルが鍵付きの引き出しに取り出していた私物を押し込んだ。上着を羽織り直す姿にハンスは内心で感謝し、アーベルの案内に続いて急ぎ足でマティアスの元へと向かう。空には、既に数多くの星が瞬いていた。