令嬢は黒騎士様を恋い慕う6
帰っていったケヴィンを、土産にパンを渡すという理由をつけてカリーナに追わせた。ソフィアは一人自室に戻り、着替えを済ませる。ソファーに腰掛けると、張っていた気が緩むのが分かった。侍女は退がらせており、室内には一人きりだ。寂しい分、取り繕わなくても良い安心感があった。
カリーナとケヴィンが想い合っていることは、様子を見ていれば分かった。やはり何か理由があるのだろうが、なかなかくっ付かない二人にソフィアもやきもきしてしたことは否定できない。
「ちょっと態とらしかったかしら……」
ソフィアは苦笑して背凭れに上半身を預けた。目の前にはさっぱりとした柑橘の果実水が置いてある。氷の入っているそれは、コースターの上で汗をかいていた。手に取って一口飲むと、きんと冷えたそれがソフィアの中のもやもやとした感情を少し取り払ってくれる。意識してゆっくりと呼吸をしながら、もう一口、それを飲む。どこかギルバートの香水を思わせる香りが、ソフィアの心を軽くした。
「──奥様、いらっしゃいますか」
問いかけの体でありながらも確信のある呼び声が、ノックと共にかけられた。応接間が片付いた頃だろうか。カリーナと同じくらい毎日聞いている声に、ソフィアは少し姿勢を正す。
「はい、何でしょうか?」
「少々失礼致します」
扉を開けて入室してきたハンスは、手にいくらか厚みのある書類を抱えている。ソフィアは疲れも忘れて、その書類を見た。
「それは、先日お願いした……?」
思わず身を乗り出すと、ハンスは苦笑して歩み寄ってきて、テーブルの上に書類を分けて置いた。柔らかく紳士的な笑顔は、どこか子供に向けられるそれと似ている。
「そうです。奥様が旦那様とご一緒にお出ししてくださった案を元にして、旧レーニシュ男爵領の情報を整理し直しました。──これでしたら、そろそろ次の施策に移ってもよろしいかと」
それは旧レーニシュ男爵領の領政の効果についてまとめた書類だ。減税を実施してから約半年、少しずつ活気が戻ってきていることは聞いていたが、分かり易く数字になると目に見えて嬉しい。
「ありがとうございます、ハンスさん。ええと、次は──」
テーブルの上を漁って、目当ての書類を探し出した。ギルバートと共に旧レーニシュ男爵領の領政改善の為の打ち手を考え、検討したものだ。大きく丸を付けられたいくつかの項目からそれを見つけて、ソフィアは思わず目を閉じた。──カルナ豆の流通による交易の活性化。それはソフィアの父親がかつて領主でありレーニシュ男爵であった頃から、検討されていたものだ。ギルバートの几帳面に整った筆跡で書かれた文字が、余計にソフィアの心を乱す。
「カルナ豆の栽培方法の取り纏め、でございますね」
そう、交易の為に栽培方法を取り纏め、生産技術を確立させるのだ。何人かの研究者も投入し、特産とするだけの価値を生み出そうとギルバートは言っていた。目を開けたソフィアの前には、気遣わしげな表情のハンスがいる。小さく首を左右に振った。
「それで進めてください。あ……でも、今は世情が不安定でしょうか」
エラトスとの戦が始まって一週間程、世間はその噂で持ちきりだ。中でも今回はこれまではと異なり、エラトスから亡命を求める者が数百人単位でいるようだった。国境付近の森では急遽アイオリアの軍が一時滞在場所としてテントを提供しているらしい。今後の受け入れの可否で議会は揉めていて、その判断の為に王太子であるマティアスが情報を集めていると、新聞では報じられていた。
「あの辺りはエラトスとは逆の方向でしょう。念の為研究者の道中には護衛を付けますので、ご安心ください」
「分かりました。ではそれで……お願いします」
ギルバートがいれば、この進歩を共に喜ぶことができただろうか。これまで領政にあまり関わりのなかったギルバートが、ソフィアの為にと共に学んでくれていたのだ。
「奥様」
ハンスがソフィアの手から書類を受け取り、テーブルの上に戻す。
「旦那様がお戻りになるの、楽しみですね」
ハンスは意図的に明るく言ってくれたのだろう。ソフィアが隠そうとしていても、近くにいるハンスやカリーナには当然に消沈していることは気付かれているのだ。恥ずかしくて頬が熱くなる。それは、冷えた身体にぽうと熱が灯ったようだった。
「はい、そう……ですね。きっと、喜んでくださると思います」
一礼して出て行くハンスを見送り、ソフィアは手元の果実水に目を向ける。コースターには水が溜まっていて、グラスの氷は殆ど溶けていた。それでも何故か残したくなくて、少しずつゆっくりと飲み干していく。空になったグラスの底には、香り付けの小さなミントの葉が一枚残された。