令嬢は黒騎士様を恋い慕う5
「やっほー、ソフィア嬢。久しぶり、僕のこと覚えてます?」
ソフィアが来訪の挨拶をするより早く、ケヴィンは片手を持ち上げて笑った。その人懐こい笑顔は、以前会った時から変わっていない。
「ケヴィンさん、お久しぶりです」
ソフィアは軽く微笑んで、向かい側のソファーに腰掛けた。紅茶と菓子をそれぞれの前に置いたカリーナが、ソフィアの少し後ろに控える。そのどこか警戒しているような姿にケヴィンは苦笑を漏らした。
「大丈夫だよ、カリーナちゃん。貴女の心配するようなことじゃなくて……ああ、違うよ。ただ僕が確認したかっただけなんだ」
「──ケヴィン様。今は奥様とお話されている筈でございますが」
カリーナはつんと澄ました表情で、しかしどこか拗ねたように言う。ソフィアは二人の様子を見て嬉しくなった。ケヴィンが確かにカリーナを想っていることが確信できたからだ。カリーナのささやかな嫉妬も、無意味なものだったということだろう。
「良いのよ、カリーナ。では、どのようなご用件でしょうか」
心配するようなことではないということは、ギルバートの身に何かがあったという訳でもないだろう。ケヴィンは表情を引き締め、両手を膝の上に置いた。
「本当に僕の興味からのことなんだけど。副隊長がこの邸を出た日を教えて欲しいんです」
「どうして……そんなことを。ご存知です、よね?」
ケヴィンはギルバートと同じ小隊に属している。知らない筈がないとソフィアは思った。
「それが、魔法騎士の任務は一般の騎士には伝えられないことが多いんです」
「でしたら、私の口からもお伝えしかねます。ごめんなさい」
目を伏せたソフィアに、ケヴィンは小さく嘆息した。嘘のようには見えないその落ち込んだ様子に、ソフィアは首を傾げる。ケヴィンは気付いてすぐに笑顔でその場を取り繕った。
「ですよね、……分かってるんです」
「何かあるのですか?」
「──副隊長はいつもご自分のことを僕達には話しません。それは任務についても、それ以外も……僕だって、心配してるんです。今回は話してくれると思ったのに、また何も言わずに」
「それは」
ソフィアに対しても同じだ。心配をさせたくないのだろうということは、一緒に暮らしていてやっと分かったことだった。共に働いているのなら、距離を置かれていると感じるかもしれない。
「すいません。ソフィア嬢に言うことでも無いですよね」
「いいえ……あの方は、お仕事でもそうなのですね。ケヴィンさん、ギルバート様はただ、あまりご自分を気になさらないのだと思います」
任務の為の情報規制もあるのだろうが、それだけではないだろう。ケヴィンは無言のまま、ソフィアの手元をじっと見つめていた。ソフィアは会話の間が気になって、可愛らしく盛り付けられた菓子を一つ口に運ぶ。その甘さに緊張した心が少し緩んで、ほうと息を吐いた。すぐに紅茶を飲むと、甘さの余韻と混ざり合って小さな幸せを運んできてくれる。
「──ソフィア嬢は、強いですね。いや、強くなった……のか」
誰に聞かせるつもりでもないように、ケヴィンがぽつりと呟いた。
「いいえ。私は、強がっているだけです。格好付けていないと、寂しくて仕方がないのですよ」
微笑んだつもりだが、上手くできていただろうか。カリーナがぴくりと身体を揺らしたのが気配でわかる。しかし今、ソフィアはケヴィン相手に嘘を吐く気にはならなかった。
ケヴィンはしばらくしてからフォルスター侯爵邸を辞した。少し離れてから振り返ると、重厚な美しさを持つその建物は貴族街の中でも特に存在感がある。
ギルバートが任務の為に多忙になってから、カリーナはあまりソフィアの側を離れなくなった。ほぼ一週間、ケヴィンはカリーナと会えていなかったのだ。ならばソフィアはもっと落ち込んでいるのかと思い様子を見に行ってみれば、ケヴィンが予想していたよりはしっかりとしていたようだった。
「友人、か──」
以前自分の言った言葉が胸に刺さる。カリーナにとってソフィアは主人である前に大切な友人で、それは他の何にも代え難いものなのだろう。ケヴィンがその穴を埋めることはできないし、ギルバートにとってのそのような存在になることもできない。 ケヴィンにとってギルバートには謎が多く、自身も彼と肩を並べられるだけのものは持っていない。
何処か埋まらない虚無感に、帰路を急ごうと前を向いた。今日分かったことは、ギルバートはきっと本来の魔法騎士の出立日とは異なる日に戦地に向かっているであろうことと、カリーナはまだしばらくケヴィンの誘いを受けてはくれないということだ。ソフィアははっきり言うことはなかったが、おそらくギルバートは特殊な任務に関わっているのだろう。予想していたことで、知ったからといって何をできる訳でもない。
「今日行った意味って、あったのか……?」
貴重な休日だが、得るものはなかった。ケヴィンは日の傾いた空を視界の端に映しながらやさぐれる。カリーナの顔が見れただけで、良しとしようか。不意に背後から名前を呼ばれているような気がして、気のせいだと自分に言い聞かせる。直接話したくて、ついに幻聴にまで襲われたのか。そんなにも恋しいのならば愛の告白でも何でもして、さっさと自分のものにしてしまえば良い。ケヴィンの生家は一応貴族だ。三男のケヴィンにはあまり関係のないことだが、とはいえカリーナを飢えさせることはない程度の相続分はある筈だ。彼女から好かれている自覚も自信もある。家族から反対されることもないだろう。しかしそれはカリーナとソフィアを引き離すことになるのだということも、ケヴィンは分かっていた。そしてまた、想いは言葉にならないままに、今も血と共に体内をぐるぐると巡っている。
「──ケヴィン、いい加減振り向きなさいよっ!」
幻聴だと思っていたものは、どうやらそうではなかったらしい。硬い何かが飛んできて、背中にぶつかった。突然の痛みに驚いて振り向くと、足元に転がっているのはいくらか大きさのある紙袋。咄嗟にそれを拾ってみると、中身はパンのようだ。それよりも今駆け寄ってきて、目の前で呼吸を乱しているのは。
「カ、カリーナ!?」
膝に手をついて、肩で息をしているカリーナは、走って追いかけてきたせいか俯いた顔は真っ赤にしているようだ。見慣れない侍女服は禁欲的で、反して解れて首に掛かる一筋の髪が妙に艶めかしい。
「これっ、ソフィアが、あんたに渡してほしいって……! 聞こえてたでしょ、さっさと振り向きなさいよっ」
「あ、いや、その。ご、ごめん」
顔を上げたカリーナが、ケヴィンを睨め付ける。その両目に自身だけが映っていて、それだけで心の中のグラスがあっという間に満たされていくような心地がした。
「──まあ良いけど。ソフィアが気を遣ってくれて、あんたと夜ご飯食べてきなさいって。予定無いなら行くけど。ついでに、今日何で来たのかちゃんと教えなさいよ!?」
ふいと逸らされた目線がいじらしく、可愛らしい。ああ、きっとどうあっても、このたった一人にケヴィンはずっと敵わないだろう。右手で髪を雑に掻いて頷いた。先程投げつけられたパンを右手に持ち、左手を伸ばしてカリーナの手を握る。歩くスピードを落として、その手を引いた。食事に行くレストランを考えながら、ソフィアが一番大切なカリーナを、自分が一番大切に想おうと、改めて強く思った。