令嬢は黒騎士様を恋い慕う1
温もりが消えた寝台の中で、ソフィアは乱れたシーツを引き寄せ抱き締めた。香水とは違うギルバートの香りが、鼻腔から身体の中をいっぱいに満たしていく。
「──ギルバート様……」
その名を口にすると、涙が溢れた。ソフィアは、突きつけられる現実を知っていて、狡い選択をした自覚があった。それでもギルバートの口から悲しい現実を聞きたくなかったのだ。頭で分かっていても、本心では受け入れたくはなかった。逃げる為に抱かれた夜はそれでも優しく、激しく、ソフィアを甘やかした。
しかしどんなに身体にその感覚が刻まれていても、ギルバートが既に行ってしまった事実は変わらない。残されたソフィアには、帰りを待つことしかできないのだ。だから今はただ、無事でいてくれることを願うだけ。
昨夜は流せなかった涙が、また流れる。
「ソフィア、……起きた?」
カリーナの珍しく遠慮がちな声がソフィアを呼んだ。
「うん、起きたよ……」
どうにか言葉を返すと、おずおずと天蓋に手が掛けられた。控えめに開かれた隙間から、小さなガラス容器が差し出される。毎晩寝る前に外している、藍晶石の指輪だ。眠るときにはギルバートが魔力を抑える白金の腕輪を外す為、ソフィアも指輪を先に外している。隣の部屋に置いていて、いつも身支度のときに身に付けているものだ。
「あのね、これ。先に見せてあげようと思って」
その中には指輪と、小さなカード。指輪を結婚指輪の隣、左手の小指にはめてから、そのカードを手に取った。飾り気のないシンプルな白いカードは、ギルバートが何度か使っているものだ。相変わらずの短い文章に、思わずくすりと笑みが漏れる。
──私がいない間、どうか指輪を外さないでほしい
必ず帰る G.F
見慣れたカード、見慣れた筆跡。少し走っている文字から、朝の忙しい中で書いてくれたことが分かる。その気持ちが愛しくて、そっと唇を寄せて目を閉じた。涙が一粒落ち、サインの端を滲ませる。ぎゅっと手の甲で涙を拭った。
「ありがとう、カリーナ。大丈夫よ。もうお昼かしら?」
まだ少し震える声に、自身を叱咤するように手を握る。
「そうよ。本当、なかなかの朝寝坊だわ」
「うう……ごめんなさい」
「大丈夫よ、シャワー浴びる?」
カリーナの問いかけに頷いて、ソフィアはすっかりしわだらけになった夜着に袖を通した。前を軽くかき合わせた頃、カリーナがカーテンを開けて天蓋を柱に括り付ける。そしていつものようにその場を離れようとして──寝台に座っているソフィアを見て動きを止めた。
「──やだ、ソフィア。それ、ギルバート様ね!?」
顔を真っ赤にして大きな声を出したカリーナに驚き、ソフィアは首を傾げる。
「え?」
「それよ、それ。首も胸も……もうっ! 外出禁止じゃなかったとしても、こんなんじゃ出掛けさせられないわよ!」
カリーナの指がソフィアの胸元を示している。改めてソフィアがそこを見下ろすと、白い肌の上に赤い痕が残っていた。それも、何ヶ所も。カリーナの言い方からして、首にもあるのだろう。昨夜は気にならなかったそれが、今更になってソフィアに存在を主張してくる。
「え。恥ずかしい……っ」
ソフィアは両腕で自身の身体を抱き締めた。ギルバートの存在を近くに感じて心は暖かいどころか熱いくらいだが、今は改めて身体を確認するのが怖い。
「隠せる服にするわよ、後でちゃんと見せなさいね。それよりお風呂! 用意してあるから来てっ」
カリーナに急かされるままに、ソフィアは寝台から降り、立ち上がった。力の入らない足でふらつきつつも歩く。恥ずかしさに思わず俯くと、カリーナが小さく嘆息した。
「……旦那様にも困ったものだわ」
「違うの、私が……っ」
ギルバートをフォローしようとして、ソフィアは言い淀んだ。自分から誘ったなどと、言える筈もない。カリーナは呆れたように笑って、ソフィアをまた浴室へと急かした。
「おはようございます」
ギルバートは予定通りの時間に王城に着き、更衣室の扉を開けた。まだ早朝だ。誰もいない筈のそこには何故かアーベルがいて、軽く手を上げている。
「おはよう」
「隊長、お早いですね」
「ああ、ちょっとな」
ギルバートは着てきた魔法騎士団の制服である黒い騎士服を次々と脱いで、雑に近くにあった椅子の背に掛けた。侯爵邸ならばハンスがすぐにハンガーに掛けてくれるのだが、ここでは後で自分でしなければならない。若干の面倒臭さを感じつつ、着替えを済ませていく。
シンプルな生成りのシャツに、特徴のないズボン。ベストを羽織り、足には動きやすい皮のブーツを履く。どこにでもいる平民らしい服装になった。鞘に布を巻いて装飾を隠したいつも使っている剣を腰に挿し、白金の腕輪には魔法をかけて少しくすんだ色にする。ソフィアの指輪と揃いのイヤーカフには藍晶石が付いているが、この程度の装飾品は大丈夫だろう。念の為位置をずらして耳の上の方に移動させ、髪で石を隠した。
「その耳の、持ってくのか」
それまで黙っていたアーベルが、意外そうに言う。ギルバートが僅かに首を傾げると、アーベルが首を振った。
「いや、目立たないから構わないとは思うが。お前が私物を持ち込むのは珍しいだろう」
「これは……妻と揃いのものですので」
結婚指輪は指から外して、細い鎖で首から提げた。シャツの内側に入れてしまえば、外からは分からない。支給された少し皺のあるシンプルなハンカチを、ズボンのポケットに雑に押し込む。
「お前がそんなことを言うとは、感慨深いな」
アーベルはがしがしと頭を掻いて、にかっと笑った。つり上がっていた目尻が下がり、途端に親しみやすい印象になる。
「そうですか」
ギルバートは騎士服をハンガーに掛けて、その胸ポケットから丁寧に畳んだハンカチを取り出した。愛らしく清楚な花の刺繍は、ギルバートにソフィアを連想させる。使うことはできないが、御守りとして持ち歩こうと、着ているシャツの胸ポケットに入れる。ベストのボタンを掛けて、それを隠した。
「それで、隊長は何をしにいらしたのですか」
ギルバートは結局何もしていないアーベルの真意が分からず、正面に向き直る。アーベルは一度嘆息してから、気安い仕草でギルバートの肩を叩いた。仕草に対し、全く加減のない力である。
「お前の見送りだよ! 皆には言ってないから俺だけで悪いが……お前のことだ。何も心配はしていないが、無茶だけはするなよ」
アーベルの真面目な表情に、ギルバートは改めて気を引き締める。無意識に、右手を左胸に当てた。
「はい。──必ず、無事に帰ります」
国の為に、フォルスター侯爵家の皆の為に、任務を果たさなければならない。しかし誰よりソフィアの為には、ギルバートは我が身も大切にしなければならないのだ。ギルバートはこれまでよりも覚悟を決めて、移動装置のある騎士団長の部屋へと向かった。