黒騎士様は令嬢を守りたい5
このような有事においては、魔法騎士であるギルバートが第二小隊から離れて活動するのも当然のこととして受け入れられた。隊員の中にはギルバートが他の魔法騎士とは別行動をしていることに気付いている者もいるだろうが、任務だと察しているのだ、表立って口にされることはない。
出発の前日、ギルバートはマティアスと共に王太子執務室にいた。机上にはいつも以上に書類が多いが、人の出入りは然程多くない。いつものように少し後ろに立とうとしたギルバートに、応接ソファーの対面に座るよう指示したのはマティアスだった。今日は護衛ではないのだから、と。
「ギルバート、いつもすまないね」
マティアスは紅茶を口にし、小さく嘆息した。ギルバートは無言のまま、次の言葉を待つ。
「──本来、諜報は父上直属の特務部隊の役割だ。能力があるとはいえ、一魔法騎士に危険度の高い潜入捜査など、本来はさせるべきではないのだが……」
「いえ、分かっております」
ギルバートが近衛騎士団に入団するとき、是非にと言われた特務部隊。それを拒否し、マティアス付きの第二小隊を選んだのはギルバートだ。そのときから、有事の際には潜入捜査や諜報を任されてきた。それは自身が蒔いた種であり、自身が作り出してしまった歪みでもある。
「元は私の我儘です。殿下の元を選んだのは、自身の判断でした。これまでと同じです」
これまでだって、危険なことは何度もあった。戦争の相手国に潜入して内情を探るなど、甘く思えるような任務もあった。今回は交渉権を得ているだけましと言えよう。
「いや……君の魔力も魔法騎士としての実力も知っている私は、何も心配はしていないよ。しかし、ソフィア嬢の気持ちを思うとね、やはり居た堪れない」
マティアスがギルバートの前に置かれている紅茶の水面をじっと見つめている。ギルバートもまた目線を落とした。最初に置かれてから、それは減っていない。
「ソフィアには、何も……言っていません」
心配させることは分かっていた。エラトスの王城内部に潜入するなどと言ったら、あの可愛い妻はどんな顔をするだろう。戦地に行くと言っただけでも、あんなに不安そうにして、心を乱させているのに。
「──何も?」
マティアスがギルバートと目を合わせた。その空色の瞳は、誤魔化しを許さない王族としての威厳を確かに持っている。今のギルバートには少し痛い。
「はい。ソフィアを不安にさせたくありません。それに家にいれば、彼女は安全ですので」
侯爵邸に新たな業者の出入りはない。以前からの付き合いの店ばかりだ。使用人の身辺調査も漏れなく行なっている。戦争と知ったソフィアは不安そうにしていた。怖いと思うものには、できるだけ近付けたくない。
「ギルバート、そうじゃないよ。今ソフィア嬢を不安にさせているのは、君だ。彼女は強い。それは君が一番よく知っているだろう? ──確かに任務について詳細に伝えることはできないが、有事の際に君がどう動くことになるのかは、ソフィア嬢の為にも、伝えておくべきではないかな」
「そう、ですね」
マティアスの射るような目からそっと視線を逸らす。ギルバートはマティアスの言葉の意味を知っていて、まだ覚悟ができないままでいた。
帰宅したギルバートがハンスに聞くと、ソフィアは夕食を終えてから自室にいると言う。ギルバートは食事を終え、夜着に着替えてから寝室へと向かった。
潜入に使う道具は騎士団で用意されている。ギルバートは明日の出発に向けて、いつも身につけている魔力を抑える腕輪と自身の剣以外に、用意するものはなかった。
「ギルバート様、おかえりなさいませ」
昨日と同じようにスリーピングポーチの椅子に座っているソフィアが、ふわりと微笑んだ。しかしすぐに目線を手元に戻す。
「ただいま。何をしているんだ?」
ソフィアの元まで歩いていく。軽く頭を撫でてから向かい側の椅子に座った。
「少々お待ちください。すぐに、できますから」
ソフィアは真剣な表情でじっと作業を続けていた。何かと思って覗き込めば、どうやら刺繍のようだ。鮮やかな緑と柔らかな白が可愛らしい。白い生地に刺しているのに、その花と葉は鮮やかに浮かび上がって見えた。相変わらず素晴らしい腕前だと感心する。
「──できましたっ」
ギルバートがじっと見ている内に、完成したらしい。ソフィアは満足げに木枠から外し、手で軽く皺を伸ばしてから綺麗に畳んで両手に持つ。
「ギルバート様。どうか、こちらをお持ちください」
差し出されたそのハンカチには、女物のような可愛いクローバーの刺繍。ギルバートは受け取りつつも、困惑してソフィアを見る。任務には、私物は極力持ち込まないことになっているのだ。
「これは」
「ギルバート様には可愛らし過ぎるかと思いますが……願いを込めて作りました。どうか、無事でお戻りください。私、お待ちしておりますから……っ」
ギルバートはその言葉に胸が詰まった。昼間、マティアスに言われたことの、本当の意味を理解する。ソフィアは何も知らなくても、伝えなくても、いつだってギルバートの最善を考え、尽くそうとしてくれているのだ。今不実なのは、間違いなく自分だ。
「ソフィア、私は──」
ハンカチを手の中で握り締める。口を開いたギルバートを、ソフィアの指が止めた。テーブル越しに、人差し指が唇に触れている。
「存じております。ハンスさんが、教えてくれました。ギルバート様には、特別なお仕事がお有りだと」
ハンスがソフィアにそれを伝えたのは今朝のことだ。ギルバートの出発前に伝えるべきだと思ってのことだった。フォルスター侯爵家では当然のこととして知られているそれを、ソフィアに教えるのは当然だろう。ギルバートに、ハンスを責めることはできない。
「黙っていて、すまない」
「いいえ、私を思ってのこと……ですよね。ありがとうございます。だけど、やっぱり心配ですし……ごめんなさい、寂しいです」
ソフィアが俯く。細い肩が震えていた。それがギルバート自身のせいであると思い知らされ、自身の至らなさを実感する。しかし自分のせいだとしても、一人で泣かせたくはない。
ギルバートは立ち上がり、ソフィアの手を取った。腕輪を外したギルバートと眠る為に、その指にはいつもの指輪はない。自分と同じ色の藍晶石を見る度、口にはできない独占欲が満たされていた。今はないそれがギルバートと過ごす為に外されたと知っていて、それでも胸が騒つく。
ギルバートを見上げるソフィアの潤んだ深緑色の瞳の中には、カーテンで薄くぼやけた月が本物よりも丸く映っていた。
「謝らないでくれ、ソフィア。──私が帰る場所は、お前がいる場所だ。だから心配せず、帰りを待っていてくれ」
自分の口から出た縋るような音に驚いた。それはまるで、ギルバートの願望をそのまま乗せたような音だ。ソフィアの目が大きく見開かれ──ぽろりと涙が落ちた。それを惜しいと思い指先で拭うと、ソフィアはギルバートが初めて見る、穏やかで優しい暖かな笑みを浮かべる。
「ギルバート様。どうか……私を、抱いてくださいませ」
ソフィアの瞳はギルバートから逸らされることがない。まっすぐな思いがギルバートに刺さる。ゆっくりと立ち上がったソフィアを、ギルバートはできるだけ優しく抱き締めて横抱きにした。寝台に運んでそっと寝かせると、ソフィアは両手を伸ばしてギルバートに強請る。
「──そんなに煽るな」
困って眉を下げるが、ソフィアは左右に首を振りそれを受け入れようとしない。感情のままに奪うように深く口付けると、形の良い唇から吐息が漏れた。嫌でも煽られる劣情に、ギルバートの呼吸も荒くなっていく。触れるソフィアの身体はどこも細く柔らかく、強く触れれば壊してしまいそうな気がした。少しずつ布をはだけさせ、壊れ物を触るように指を滑らす。乱れていく呼吸が、愛しい。
「ギルバート様……もっと、私を──壊してください。私が、会えない間も、ずっと、貴方の感覚を覚えていられるように……っ」
ぎゅっとギルバートを抱き締めてくる腕は、きっとソフィアの精一杯の力なのだろう。知っていて、止めることはできない。白く華奢な肌に、所有の痕を散らしていく。漏れ出る声が可愛らしく、思わずギルバートは笑みを浮かべた。
「──ソフィア、愛している」
繰り返し求め合い、愛し合い──ギルバートは浅い眠りの後、早朝の内に邸を出た。
ソフィアが目覚めたときには既に日は高く、隣にいた温もりすら消えた後だった。