黒騎士様は令嬢を守りたい4
「おかえりなさい、ソフィア……って、あんた、どうしたのよ!」
自室に戻ると、カリーナが目を丸くしてソフィアの側へと駆け寄ってきた。頼りになる友人の姿に、ソフィアはほぅと息を吐く。余計な力が抜けて、ふらふらとソファーに腰を下ろした。
「どうした、って?」
カリーナはすぐにソフィアの上げていた髪を下ろして、正面に回って濡れたコットンを肌に当てた。
「そんな表情じゃ誤魔化せないわよ。旦那様がどうこうより、ソフィアの方がおかしくなっちゃうわよ!」
朝王城の使用人にされた薄めの化粧を落とされ、髪も緩く纏められていく。カリーナの言葉に思わず右手を頬に当てると、ソフィアの頬は自身が思っているよりずっと冷たかった。そんなに強張っていただろうか。これは顔色も良くないだろうと、妙に冴えた頭で冷静に思う。
「ほら、さっさと着替えちゃいましょう。何をするにせよ、まずは休みなさい」
カリーナがソフィアをそのままに、楽な部屋着を持ってくる。あっという間に着替えさせられ、手を引かれて寝台へと連れて行かれた。
「カ、カリーナ。あの……」
「良いから!」
ソフィアは強引なカリーナに小さく頷き、寝台に入る。広い寝台は、やはり一人で寝るには大きかった。カリーナが天蓋を下ろし、カーテンを閉めた。
「とりあえず昼食まで、ね。おやすみ、ソフィア」
「おやすみなさい……」
カリーナは寝室の端に控えているようだ。同じ部屋に信頼する人の存在を感じて、ソフィアは安心した。身体の力を抜いて寝台に預けると、慣れた香りに包まれていることに気付く。
「──ギルバート様」
言葉の形に口を動かす。ここは、ソフィアとギルバートが使っている寝台だ。共寝を許されてから一月、毎晩ここで温もりを貰ってきた。その事実が、今のソフィアの心を慰める。自然と口元が緩んだ。確かに昨日から、ソフィアはずっと気を張っている。目を閉じると、思っていたよりも深い眠りが、ソフィアを誘った。
目覚めると、窓から差し込む光は赤く染まっていた。眠り過ぎてしまったと、慌てて寝台を出て部屋の扉を開ける。
「おはようございます、奥様。お元気そうで良かったです」
結婚してから増やされた侍女が、ソフィアに微笑みかける。カリーナはいないようだ。
「ありがとう、すっかり眠り過ぎてしまったわ」
「いえ、お元気なようで何よりです。旦那様は本日、お帰りが遅くなると伺っておりますので、お食事の用意をするよう伝えて参りますね。──あっ、カリーナもすぐに着替えを持って参ります!」
一礼してぱたぱたと出て行った侍女を見送り、ソフィアは嘆息した。やはり、侍女とはいえまだカリーナ以外には気を遣う。
「ソフィア、お待たせ。着替え持ってきたわよ」
侍女である慣れた友人の笑顔に、ソフィアも自然と笑顔になった。
「ありがとう」
「あら、随分と顔色良くなったじゃない。良かったわ」
ぐっすり眠ったお陰で、確かに心の靄は晴れている。からりと笑ったカリーナに、ソフィアはまた救われたような気がした。
日中ゆっくりと眠ってしまったせいで、夜になったのになかなか眠れない。スリーピングポーチのテーブルのランプを点けて、ソフィアは手元のハンカチに刺繍を入れていた。幸運を願ったクローバーの葉と花は、男が持つには、ましてギルバートが持つには少々可愛らし過ぎるようにも思う。いつもハンカチを贈ってきた。薔薇のデザインの物もあったが、基本的には男の人らしく騎士らしい物を意識して作っていた。
「──それでも、良いよね。一枚くらい」
いつギルバートが戦地へ行ってしまうのか。そのとき共にいられないソフィアには、ただ信じて祈ることしかできない。どうか、ギルバートが怪我をせず、無事に戻ってきてくれるように。今夜は家に帰ると言っていたのだ。こうして待っていれば、きっと顔を見ることができる。
丸い木枠に張ったハンカチに、ひと針ひと針を丁寧に刺していく。魔道具でないランプの明かりは弱く温かい色で、手元を控えめに照らしてくれる。レースのカーテン越しには、昨日よりも少しだけ欠けた月が柔らかな光を届けてくれていた。
しばらく続けていると、寝室の扉が開く音がする。はっと手を止め、振り返った。
「──ソフィア、起きていたのか」
優しい声がした。明かりを落とした寝室は、スリーピングポーチから離れるにつれて暗くなっていく。一歩、一歩とギルバートが近付いてくる度、少しずつその姿が明るく、表情が分かるようになってきた。穏やかだがどこか疲労の滲む笑顔に、ソフィアは胸がいっぱいになった。
「おかえりなさいませ……っ」
針を生地に刺し、木枠を投げ出すようにテーブルに放る。駆け出したソフィアの肩からストールが滑り落ちた。ぱさりと軽い音がする。
勢いのまま胸に身体を預けるようにぶつかると、ギルバートはソフィアの細い肩をしっかりと受け止めてくれた。慌てて抱き締めてくれる腕が、あやすようにソフィアの背を撫でる。不器用で優しい感触が愛おしい。
「どうした、何かあったか?」
ソフィアはギルバートの胸元に顔を押し付け、否定の意味を込めて左右に振る。
「いいえ、何も……何もございません」
「すまない。私は、あまり察しが良くない」
顔を上げると、心配そうな瞳のギルバートと目が合った。ソフィアは気付いて表情を緩める。
「ただ、少しだけ。寂しかっただけです。ご心配なさらないでください。──おかえりなさいませ、ギルバート様」
ソフィアが微笑めば、ギルバートは相変わらずどこか心配そうにしながらも、優しく微笑み返してくれる。それが嬉しくて、ソフィアはぎゅうとギルバートの背に腕を回した。