黒騎士様は令嬢を守りたい2
翌朝ギルバートがやってきたのは、ソフィアの身支度が終わってすぐのことだった。昨日ここに来たときは騎士服ではなかった筈なのに、ギルバートはいつの間にか見慣れた黒に身を包んでいる。 表情も少し硬くて、それが少し寂しい。
「ソフィア、準備はできたか」
「お待たせしてしまいましたでしょうか?」
ソフィアが眉を下げると、ギルバートは僅かに表情を緩めた。
「いや、そんなことはない。帰ろう」
ギルバートが差し出した左手に、ソフィアは頷いて右手を預けた。少しだけ、今だけは、この手はソフィアだけのものだ。
乗り込んだ馬車は昨日来た道を引き返していく。ソフィアは視線に迷って窓の外に向けた。少しずつ、王城が小さくなっていく。
「──頼みがある」
ギルバートが口を開いたのは、王城が見えなくなってしばらくしてからだった。ソフィアは顔を正面に戻して、目線を合わせる。
「ギルバート様?」
ギルバートはソフィアが思わず問いかける程、眉間に深い皺を刻んでいた。きゅっと引き締められた口元が、これから話す内容の深刻さを表しているようだ。
「しばらく私は多忙になる。帰りが遅いときは、待たずに先に休んで欲しい」
「分かりました。あまり、ご無理はなさらないでください……ね」
覚悟していたことだった。ソフィアは昨夜も言ったことを繰り返す。ギルバートは無言のままに頷き、対面に座るソフィアの手を取った。それはまるでいつかのように、その本心を探るかのように。馬車は侯爵邸に着いたようで、それまでの揺れが収まった。車輪の音が無いと、二人きりの馬車の中はあまりに静かだ。
「ありがとう。──それと、」
ぎゅっと手に力が入れられる。ソフィアがはっと目を見開いたときには、腰を浮かせたギルバートに強く抱き締められていた。その腕の強さに縋り付くように、ソフィアは自由な左手をギルバートの背に回す。
「しばらくの間、この家の敷地から出ないでくれ。不自由だろうが……頼む」
囁きに近い、搾り出された声がソフィアの胸に刺さる。それは、懇願、だった。
「──はい」
ソフィアも囁くように返す。扉の外に人の気配がした。きっと御者とハンスだろう。中の様子を窺っているのが分かる。ギルバートはそれでも、ソフィアを抱き締める腕を緩めようとはしなかった。
「すまない……だが私には、それ以外にお前を守る術がない。何日かすれば、私も南部のバーガン領へ行くことになる。──側で守ってやることが、できない」
肩口に触れたギルバートの唇が、僅かに震えていた。それはソフィアを一人にすることへの躊躇い故だろうかソフィアは緩く首を振り、繋がれたままの右手を安心させるように強く握り返した。顔が見えていなくて良かった。今、綺麗に笑える自信はない。
「いいえ、ギルバート様。貴方は、私を……私達を、いつも守ってくださっています。だから大丈夫です。──私、ちゃんとここにいます。ここで……お待ちしていますから……っ」
抱き締めていた腕が解かれ、ソフィアの両手が座面にぱたりと落ちる。ギルバートは目を逸らして扉に手を掛けた。外にいる御者達を無視して扉を開け、振り返らないまま馬車を降りる。
「旦那様、御者が困っておりましたよ。奥様といちゃつくのは、お部屋でなさってくださいませ」
「いや──私はこのまま王城へ戻る。ハンス、カリーナにソフィアを休ませるよう伝えてくれ。昨夜はあまり眠れていない筈だ」
「かしこまりました」
馬車の外からギルバートとハンスの声が聞こえる。ソフィアはのろのろと腰を上げて踏み台に足を乗せた。ギルバートが気付いて手を貸してくれた。そのまま邸の前まで共に歩く。
「ソフィア、行ってくる」
玄関の扉の前でギルバートはソフィアの手を離した。
「いってらっしゃいませ。あの……」
ソフィアは言葉が浮かばず俯いた。昨夜夢に見た両親の姿が、ちらりと脳裏をよぎる。両手でぎゅっとドレスの裾を握り締めた。気付かないままにいつかの自分と同じ行動をしている。
ギルバートは距離を詰めると、ソフィアの頤に手を掛け上向かせた。一瞬触れた唇が、すぐに離れていく。
「夜には戻る」
薄く笑んで踵を返したギルバートは、御者に用意させていた馬に乗った。黒毛の馬はやはり逞しく、銀の髪が日の光を受けて輝く。
「お待ちしています……っ!」
後姿に向けた声に、ギルバートは軽く片手を上げて応えた。少しずつ小さくなる背中をじっと見つめる。大丈夫、大丈夫。言葉に意味はなくても、自身を励ます為に心の中で繰り返す。ソフィアは安全な場所にいて、ギルバートはまだ戦地へ行く訳ではない。今夜だってここに帰ってくると言っていた。まだ何も心配することはない。
その背中が見えなくなっても、ソフィアはしばらくそこに立ったままでいた。
「──奥様、お部屋へ参りましょう? カリーナに部屋を整えさせます。お顔色があまりよろしくないようです。今日はゆっくり休んでください」
ハンスがギルバートから受け取ったいくつかの荷物を抱えたまま、気遣わしげにソフィアに声をかける。
「そうですよね。──ありがとうございます、ハンスさん」
ソフィアは笑顔を貼り付けて頷いた。心配をさせたくない。ソフィアは、まだなりたてだが、それでもこのフォルスター侯爵家の女主人なのだ。ギルバートの妻という地位を、放棄する訳にはいかない。ハンスは少し安心したように頷いた。
「ええ。非常時ではありますが、まだ旦那様が何処かへ行く訳ではございません。それに旦那様はお強いですから、何かあっても大丈夫です。安心してお休みください」
扉を開けてくれているメイドにも微笑みを向けて、階段を上る。部屋に戻ろう。部屋に戻って、刺繍の続きをしながら、ギルバートの帰りを待とう。信じるしかできないソフィアは、ただギルバートを信じることを決意した。