令嬢と黒騎士様は日々を重ねる5
「それでね、殿下ったら──」
エミーリアはマティアスのことになると、特に嬉しそうに話をした。ギルバートとのことを聞かれ続けて耐えられなくなったソフィアが、エミーリアにマティアスとの馴れ初めについて聞き返したのだ。エミーリアの話はまるで憧れのロマンス小説のようで、思わず引き込まれてしまう。友人同士から仲を深めて結婚する夫婦が、どれだけいるのだろう。平民同士ならともかく、貴族に限ってはかなり少ないのではないか。ソフィアとギルバートも随分と普通とはかけ離れた恋愛をしたと自覚はしているが、エミーリアとマティアスもまた、負けずとも劣らないようだ。
最初の緊張はすっかり取れて、今はただ、話の続きが待ち遠しい。
「それからどうなさったのですか?」
すっかり空になった二人の紅茶を、侍女がさり気なく注ぎ足す。
「そうね、それから……」
顔を綻ばせたエミーリアが口を開いたその時、温室の扉が外側から数回叩かれた。エミーリアは動きを止めて、首を傾げる。
「どうしたのかしら?」
扉の向こうに聞こえる程度に声を張って問いかけると、焦ったような女の声が返ってくる。
「申し訳ございませんっ。王太子殿下より、緊急の遣いでございます」
「──入りなさい」
扉を開けて温室に入ってきたのは、侍女の一人のようだった。エミーリアは侍女の顔を見て、僅かに安心したように表情を緩める。きっと信頼のおける者なのだろう。走らないぎりぎりの速度で、テーブルの側に寄ってきた。
「まぁ、貴女ね。そんなに慌ててどうしたの?」
ソフィアは何かがあったのかと胸が騒ついた。侍女は乱れた呼吸を表に出すまいと、意図してゆっくりと呼吸をしていることが分かる。王太子妃の侍女がこんなにも取り乱すなど、そうないだろう。
「殿下からのご伝言でございます。妃殿下におかれましては、お客様をお帰しにならず、王城内に留まるように、とのことでございます」
「出掛けるな、ということかしら? ──もしかして」
視線を落としたエミーリアは、なにかを考えるように両手を胸の前で組み合わせた。人差し指でとんとんと手の甲を叩く。しばらくして上げられた目線は、正面からソフィアを射抜いていた。
「ねえ。フォルスター侯爵も、こちらには来られないのよね?」
しかしその言葉は侍女に向けた問いかけだ。
「はい。侯爵様は殿下とご一緒でございます」
「お二人はしばらくかかるのね?」
「はい。いかがなさいますか?」
侍女の返事に、エミーリアは小さく嘆息した。一つ一つの所作が、ソフィアに不安を与えるのには充分過ぎる。
「もう少しお茶をしてから、別室に移るわ。念の為、客室の用意をしておいて。そうね……こちらの棟で構いません。侯爵夫人が、お泊りになるかもしれないから」
「はい、かしこまりました」
侍女はすぐにその場を離れ、エミーリアの指示に従おうとしている。ソフィアは慌てて声をあげた。
「──そんな、エミーリア様! そこまでお世話になる訳には参りません……っ」
王族の私的なスペースにある客室など、その親族が泊まりに来たときくらいしか使われないだろう。そんなところを借りるなど、ソフィアにはあまりに畏れ多い。
「ごめんなさいね、ソフィアちゃん。きっと──侯爵は、今夜は帰れないわ。貴女のこともここに引き留めるようにと言われてしまったから、遠慮しないでほしいの」
そう言うエミーリアは、沈鬱な表情を隠そうとして無理に笑みを浮かべているように見える。他人の表情に敏感なソフィアはそれを感じ取って、不安からその深緑色の瞳を揺らした。何があったのだろう。良いことではない、それだけは確かだ。
「あの、エミーリア様。もし……もしお答え頂くことが難しいようでしたら、何も仰らなくて構いません。ですが──もしかしてこの国に、何か……あったのですか?」
何も知らないままではいられない。ソフィアはフォルスター侯爵であり、近衛騎士団第二小隊副隊長であり、また魔法騎士でもあるギルバートの妻なのだ。向き合いたくない現実がたくさんあることも、既に知っていた。──まだその全てと向き合う覚悟ができているとまでは、言い切れないが。
「どちらにせよソフィアちゃんにはすぐ知れることだから大丈夫よ。──貴女達、少し外へ」
人払いをしたエミーリアは、大分冷めてしまっている紅茶を一口飲んだ。上品な所作なのに、テーブルにカップを置く小さな音が嫌に響いて聞こえる。ソフィアは静かにその動作を目で追った。美しいエミーリアの瞳で、静かな炎が燃えている。
「エラトスが……南の国境から攻めてきたのだと思うわ」
ソフィアはその言葉にティーカップに掛けた手を止め、本と侯爵家で学んだ知識を総動員した。エラトスとはこの国の南隣に位置する国だ。これまでも何度も戦争が起きている。争いの理由は、南部の痩せた土地が多いエラトスが、この国の豊かな資源を狙ってであることが多い。ただ、これまでは策が粗く戦力も充分でなく、国境線は長年動いていない、らしい。
「兆候はあったの。殿下は今日、侯爵とその話を内密にすると言っていたわ。──だから本当は戦になる前にどうにかしたかったのだけれど。思ったより……早かったわね」
エミーリアの真面目な表情に、ソフィアはそれ以上何も聞けなくなる。紅茶の水面が揺れていた。手が震えていることに気付き、慌ててテーブルの下に隠す。
「そう、でしたか」
ギルバートは戦地へ行くのだろうか。そもそも、本当に戦は始まってしまったのか。いつかの街や領地でも感じた、残酷な現実に対する恐怖が、ソフィアの中でまた少し育っていくのを感じた。