第42話 月夜の魔女
砂海の夜は想像以上に寒かった。
魔除けの外套衣をもらい、俺は│箒を片手に一人、クソ寒いデッキへと放り出された。
上司が俺に言う。
「ジャガイモの皮剥きの仕事を全部、カルロス様一人にやらせていたそうだな」
あまりに心外な言葉を投げかけられ、俺は顔を崩して反発する。
はぁ!?
俺の態度が気に喰わなかったらしく、上司が不機嫌に舌打ちしてくる。
「なんだ、その顔は。カルロス様が嘘を申されているとでも言うのか?」
いや、大半やったの俺なんだけど。
「嘘つけ! あの皮剥きを全部済ませるなど神の所業だ。
あれは神に選ばれしカルロス様だからこそ出来たこと。
お前なんかにあの量を一人で出来るはずがない」
出来るはずがないって──それ、“出来ない”って分かってて俺らにやらせていたのか?
「新入りなら誰もが通る道だ。俺も入りたての頃はそういう仕打ちを受けて、夜のクソ寒いデッキに放り出されて掃除をやらされたもんだ」
知るかよ、そんなこと。
「俺も手伝ってやるから文句を言うな。お前は向こう、俺はこっちをやる」
ちょ、待てよ! 向こうの範囲広過ぎだろ! 新入りの俺にはここの狭い範囲をやらせるべきだろ!
「うるせぇッ、ごちゃごちゃ言うな! 砂海に放り出されたいのか?」
ぐっ……!
砂海に放り出されたら確実に魔物のエサになって死ぬ。
俺は苛立たしくブラシを握り締めて奥歯を噛んだ。
ここは騒動を起こさない為にも俺が退き下がるしかない。
わ、わかりました。俺が向こうをやります。
「当然だ。あー、あとそれとな」
ギリッ、と。
俺はさらに強くブラシを握り締め、内心で呪詛を吐く。
クソ腹が立つクソ腹が立つクソ腹が立つ。
「そこが終わったら中の通路のモップがけだ。埃一つ残さず綺麗に磨けよ。
モップがけが終わったら、壁も拭いとけ。
それが終わったら、最後に俺の珈琲を用意しろ。それからがお前の食事休憩だ」
なんでそこまで俺が──!
「あともう一つ。お前が頭に乗せていたペットのことだが、さっきベンツに頼んで貨物室の檻にぶち込んでもらった。
船の中でペットを連れて歩くな。ペットは貨物室だ。今度ペットを頭に乗せて連れ歩いたら、お前をマストの先に吊るすからな。分かったな?」
でも──!
「言い訳を言うな。返事は“はい”だ。分かったら“はい”と言え。それ以外は言うな」
……はい。
「よし、じゃぁ仕事開始としよう」
……。
言うだけ言って。
上司は気楽に鼻歌を歌いながら後ろ手を振り、俺の前から去っていった。
ちなみに上司の手は空っぽだった。
ブラシ一つさえ持っていない。
つまりそれは掃除なんてやらないという意図を示していた。
上司の姿が見えなくなると同時、俺は八つ当たりにブラシを床に叩きつける。
なんなんだよ、アイツ! ほんと腹立つ!
だからといって何が変わるわけでもない。
俺は仕方なしに諦めて、ブラシを拾い上げた。
不機嫌な足並みで移動する。
そういえば……。
俺はふと思う。
上司からは“向こう”という指示しかなかった。
それはつまり。
俺は適当な場所で足を止めた。
ブラシの先を床につけて、適当に磨いていく。
最初は真面目に床を磨いていた俺だったが。
しん、と静かで誰も居ない夜のデッキ。
俺はチラリと辺りの様子を覗った。
……。
少しずつ、磨く力を落としていく。
上司を含め誰一人として来る気配はない。
……。
やがて俺は作業の手を止めた。
ブラシを手放し、背を思いきり伸ばして。
軽くストレッチを始める。
溜め息を吐いて。
俺はブラシを拾い上げる。
真面目に磨く気なんて更々なかった。
遊び感覚でブラシに寄りかかり、退屈しのぎに周囲を観察しながら考え込む。
はぁ。なんかめんどくせぇーな。
なんで異世界に来てまで掃除しないといけないんだ?
つい癖で手首の時計を確認しようとして、時計を忘れたことを思い出す。
あーそうだった。俺、腕時計を向こうの世界に置き忘れていたんだった。
再度溜め息を吐いて。
俺は寄りかかったブラシから身を起こすと、辺りを適当に歩き出した。
一応上司と鉢合わせた場合を考えて、念の為にブラシは手放さずにしておく。
なんだろう、この生徒指導部の先生に見つからないようにする感覚。
ちょっと楽しかった。
俺は誰も居ない無人のデッキを適当に散歩する。
……。
なんだろう、この無人の寂しさ。
他の人達は今頃みんな、船内で食事やダンスを楽しんでいるんだろうな。
映画みたいにこっそり二人だけ抜け出してここで密会とかありそうなものだが……。
せめて見回りの船員とか見かけてもいいような気が……。
……。
デッキに俺以外の誰の姿もなかった。
きっと俺だけなんだろうな。
こんな寒い中に外に出る奴なんて。
……寒い。
なんだか泣きたくなってきた。
──あ! そうだ。
俺はあることに閃く。
どうせ誰も居ないのなら、今がログアウトのチャンスなのかもしれない。
もうこんな世界を生きていくのはたくさんだ。
宿題だってまだ残っているし、明日は学校に行かなければならない。
とりあえず一旦俺は向こうの世界に帰らせてもらって、また【オリロアン】に着いた頃にでもここに来よう。
俺はブラシを床に置いた。
念の為、上司の姿を確認する。
よし。居ない。
改めて気を取り直して、俺はログアウトの準備に取り掛かる。
ログアウト=クトゥルクの力。
クトゥルクの魔法騒動は先ほど片付いたばかり。
それにより現れた最大級の魔物は仲間にした。
あの胸毛を使わない限りは現れないだろう。
これで心置きなくここでクトゥルクを使っても大丈夫なはずだ。
もう俺を邪魔するものは何もないし、使った後も安全だろう。
……たぶん。
よし!
自論に確信を抱いて、俺は再びあの恥ずかしいポーズをすることにした。
意識を最大限に集中させ、股を大きく開いて腰を落とす。
次に両腕を水平に、今度は前へと形を変え突き出すことで成功しそうな気がした。
さらに掌を前に開くことで、よりパワーアップを期待し、魔法使いが魔法を放つイメージをすることで成功率が跳ね上がることも期待した。
そっと目を閉じ、羞恥心から声を最小限に落として、独自に編み出した謎の呪文を感情こめて唱える。
大声で唱える必要なんてない。
必要なのは小声でも言葉に介し、大きくパフォーマンスをとることだ。
誰に教えてもらったわけでもない。
でもなんとなく、俺の中でイケそうな気がした。
気分は最強で最大級の大魔法使いだ。
俺はイケる。絶対に成功する。
きっと成功の鍵は精霊が握っているに違いない。
俺はそう根拠のない自論に確信を抱いて、それらしい魔法の呪文を口にする。
次元を司りし精霊たちよ。我が願いを叶えたまえ。
……。
俺はそっと目を開いた。
そしてすぐに両手で顔を覆う。
──って、うっわ! 全く何も変わってねぇしッ!
無駄に恥ずかしい思いをしただけだった。
いや、恥ずかしかっている場合じゃない。
俺は両手を顔から退け、素の表情に戻す。
こうなりゃヤケクソだ!
なんだってやってやる!
元の世界に戻れるのであれば恥なんて今ここで捨ててやるよ!
よし、次だ。次こそは必ず成功する!
しばらく。
俺の無意味で恥ずかしいパントマイムと謎の呪文が続いた。
そして。
続けること、約三十分。
俺は空を仰ぐと、赤面する顔を両手で覆い隠して絶望的に床に膝を折った。
……もう立ち直れる気がしねぇ。
マジで恥ずかしいことを何やってんだ、俺。
つーか、なんでこんな事をやろうと……。
人生で一番振り返りたくない記憶の一ページを作ってしまった。
ここに同級生が誰も居ないことだけがせめてもの救いだ。
俺だけの禁断の一ページ。
そもそもなんで俺だけがこんな仕打ちを受けなければならないんだ?
他のコードネーム保持者は誰一人としてこんなことしていないのに。
いったい何の罰ゲームなんだ? これは。
人生で懺悔するようなことなんて何一つとしてしていないのに。
なんで俺だけが?
思い返せば。
なぜ俺だけそのままの姿で、よく分からない最強の力を持たされ、無駄に正体を隠しながらトラウマになるほどの怖い経験を味わい、人間不信になりながらも、こんな事をし続けなければならないんだろう。
疑問を思えば思うほど。
それは苛立ちへと変わり、その矛先はおっちゃんへと向いていく。
俺は両手を顔から下ろすとその場から立ち上がり、怒り任せに高速で床を磨き始める。
だいたいなんで、もっとちゃんとログアウトの仕方を教えてくれないんだ?
クトゥルクを使うなとか、戦うなとか、正体を隠せとか、“あれやれ”“これやれ”だの、口で言う方は簡単だよな?
つーか、そんなに危険で大事な力なら、俺なんかに渡さずにおっちゃんが自分で管理すれば良かったんだ!
それを全部俺に押し付けて、俺一人が罰被って!
おまけにこんなことまでやらされて!
ガシガシガシと。
俺は荒々しく床を磨いた。
大人はみんなそうだ。
俺がガキだからって便利で都合の良いモノ扱いしてくる。
ガキだからって何でも言えばハイハイ都合良く言う事聞いて動いてくれると思ったら大間違いだ。
クソ大人社会が!
腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ!
そもそもクトゥルクってなんなんだよ?
ぬぁーにが最強の力だ!
何の役にも立ってねぇじゃんか!
一度だってクトゥルクの力で人が助けられたか?
その逆だろ?
使えば使うほどこんな忌々しい力なんて存在して何の意味があるっていうんだ?
コキ使われるし、食事もお預けだし、ログアウトできないし、怖い魔物に遭遇するし、戦闘やらされるし、人に迷惑かけてばっかりで──
俺はそこである疑問を覚えた。
作業の手を止めて、思い返す。
船に現れたレア級の魔物。
そういやおっちゃんは、なぜあんな魔物を俺の護衛に選んだんだろう。
ニューハーフであることは去ることながら、なぜわざわざ人ではなく魔物を?
確かに今のおっちゃんでは俺を守ることはできないだろう。
でもせめて、もっと信頼できる人間がおっちゃんの知り合いに居ないのかな?
ふと脳裏に思い浮かぶ小猿の姿。
確かに強力な味方だった。
人間じゃなかったけど。
でも、やっぱりディーマンも俺がクトゥルク持ちだって知った途端に、イナさんみたいに裏切って俺を誘拐しようとしたし。
この世界の人間って信用しちゃいけないのかな?
……。
まぁだからこそおっちゃんも、俺の護衛に魔物を選んだんだろうな。
港町であんなに苛立って俺に剣の練習を強要して八つ当たりしてきたのも、これが原因だったりするのかな?
勇者祭り以降、おっちゃんは何かと苛立ってる。
たしかに俺のせいでもあるんだろうけど、なんつーか、もっと、こう、以前は割と温厚な方ではあったと思う。
セディスの事件ではイナさんを拳銃で撃たなかったのに、ここに来て簡単に引き金を引くようになってきた。
……。
俺は止めていた作業の手を動かす。
今のおっちゃんはディーマンですら平然と撃ち殺しそうな勢いだ。
俺の知らないところで何かあったんだろうか?
確かにイナさんやディーマンの時みたいに信頼していてもクトゥルク持ちと知った途端、急に掌返して裏切ってきたりする。
たしかにそのやり方は犯罪的且つ強引だ。
おっちゃんが苛立つ気持ちも分かる。
人を気軽に信用せず俺ですら平然と利用してくるおっちゃんの心境を考えると、過去に色々苦労もあったんだろう。
まぁそれでも人を殺すのは間違ってると俺は思うけどな。
ゴシゴシと。
床を磨きながら、考えを巡らせる。
確かにおっちゃんは独りボッチだ。
隠し事も多いし、独りで色んなことを悩み抱える寂しい年頃なのかもしれない。
悩みを打ち明けようにも、俺は異世界人だし、歳も話も経験も噛み合わないだろう。
戦力面だって、俺は戦闘出来ないから常におっちゃん一人に任せっきりだ。
そりゃ魔物に護衛をすがりつきたくなる気持ちは分かるんだけどさ……。
でも一度くらいは俺を信用して相談つーか、悩みを打ち明けてくれてもいいような気がする。
おっちゃんからしたら、俺はまだ十四のガキで頼りにならないかもしれないけど、せめて何がどうなってこうだからあーしろくらいは教えてくれてもいいような気がするだけど……。
俺だって物事を理解できない年頃じゃないんだ。
良し悪しくらいの判断は一人前に出来る。
何もかも一方的に“出来ない”と決めつけて暴力で教え込むのは間違ってると思うんだけどな。
ごしごしごしごし、と。
ふいに。
ブラシの先に少女の足が見えたことで。
俺は驚いてようやく顔をあげて前を見る。
上の空で考え事をし、磨くことばかりに集中していたせいで目の前に人が居ることに気付かなかった。
作業の手を慌てて止め、俺はその少女を見つめた。
まるで漆黒の魔女が夜空から舞い降りてきたかのように。
月夜を背にして、闇に紛れるかのような黒いゴシック風の衣装に身を包んだ少女が俺の前に居た。
彼女もまた、俺を無表情で見つめて佇んでいた。
背中まである長い髪をゆるく垂らしただけの風貌。
歳は俺とさほど変わりなく、どこか王女を思わせるような立ち振る舞いと、それでいて気高くも澄まし顔。
片方の目を包帯で覆った隻眼の彼女は、俺を見て何かを思い出そうと小首を傾げている。
あ……。
俺は彼女に見覚えがあった。
思わず指で差して、彼女の名を口にする。
もしかして……フィーリア?
記憶を辿ってか、隻眼の彼女──フィーリアが俺のことを思い出したようで。
黒ドレスの裾をちょこと持ち上げ、軽く膝を折って俺に辞儀する。
「ごきげんよう」
あ、どうも。
俺は頭を下げて照れくさく挨拶した。
「……」
えっと……。
俺は次の言葉に困った。
なんだろう。雰囲気というか、すごく話しかけ辛い。
ようやく見つけた会話。
俺は訊ねる。
あの、ところでここでいったい何を?
するとフィーリアの首の後ろから毛むくじゃらの生き物がひょこりと顔を出す。
俺は思わず親しげに名を呼んだ。
モップ!
──と、いっても彼女のモップなのだが。
その生き物が俺に向けて親しげに裸手を振ってくる。
俺もつられてにこやかに手を振り返した。
フィーリアが毛むくじゃらの生き物にちらりと視線を向けた後、再び俺に視線を戻してきた。
「不思議な人……」
え?
「やっぱりあなたとは一度どこかで会った気がするの」
いや、会いましたよね? 竜人の家で。
俺は紅茶を飲む仕草で彼女に伝えた。
あの時は覆面で顔を隠していたから、もしかしたらまだ俺のことにピンときてないかもしれない。
フィーリアが目を伏せて呟く。
「……きっと人違いね」
いや、あの、だから俺、一度──
「あなたが彼のはずない」
噛み合わない会話に俺は顔を崩して問いかける。
彼?
「捜しているの。ずっと。十四年前に全ての記憶を失い、失踪した彼を……」
記憶がないのか? その捜している彼は。
フィーリアが小首を傾げる。
「……聞いてどうするの?」
え、いや、その、別にそういう……
確かに詳しく聞いたとて、俺は何の情報も有していない。
俺は顔を背けて謝る。
ごめん。なんか、出過ぎたこと聞いて。
「あなた、異世界人なの?」
え?
いきなりの質問に俺は戸惑い、フィーリアへと顔を向けた。
フィーリアが変わらぬ顔で淡々と訊いてくる。
「あの時、あなたが急に消えたから」
あー……うん。確かにそうだった。
思い返せば、俺はフィーリアの前で思いきりログアウトした。
それは避けられない事実であり、同時に異世界人であることを明確に示していた。
俺は気まずく視線を逸らして頬を掻き、いつでも逃げ出せるよう目で逃走経路を探した。
もし彼女が白騎士と通じていたら何かとヤバいと思ったからだ。
フィーリアがさらに問いかけてくる。
「あなたの守護者はどこに居るの?」
えっ。
俺はびくりとする。
そこまで情報に詳しい人なんだ、と。
内心めちゃくちゃ焦った。
目で逃げ場を探しつつも、俺は適当に答える。
いやあの、その、し、守護者というか保護者なら今貨物室に行ってて、もうすぐ戻ってくると思います。
「そう……」
素っ気なくそう言って。
フィーリアが手を小招き、俺を誘ってくる。
「戻ってくるまでの間、私と向こうで少し話さない?」
どうやら誘拐してくるわけでもなければ戦いを挑んでくるわけでもなさそうだ。
俺は少しだけ緊張を緩めた。
彼女の前から逃げる必要が無い気がした。
だからこそ俺は彼女の質問に答える。
え? は、話すって……いったい何を?
「あなたに渡しておきたいモノがあるの」
渡しておきたい、モノ……? 俺に?
優しく手招きされるがままに、俺は何となく彼女の誘いに乗った。




