第28話 雑用のお仕事
うわ、すげぇー……。
出航後。
初めて踏み入れた帆船の展望デッキ。
全開なまでに視界いっぱいに広がる壮大な砂漠の景色は、俺を感動させるのに充分だった。
鼻孔をくすぐる新鮮な潮の香り。
肌で感じる湿気のない乾いた海風。
船体をゆったりと上下させながら、真っ直ぐに砂漠を向いて動進んでいた。
上空を覆う雲一つない快晴の青空に、ぽつんと浮かぶ眩しい太陽。
一本筋立つ地平線の向こうまで続く壮大な砂漠の海。
俺は両腕を大きく広げて深呼吸をする。
なんて解放感なんだろう。
そのまま陽の光に手を翳して影を作る。
見上げたその先には、大きな三本マストが天高く突き上げるように帆を広げて立っていた。
風の力がこの船の原動力。
石炭でもなく、ましてや電力といった強い力も持たない。
ただ風の力のみで動く帆船。
もし風が止んだら、この船はどうなるのだろう。
いや、止むことがないから人々は帆船を利用するのかもしれない。
……。
可笑しなものだよな。
魔法は発達しているのに、なぜか文明は原始的基準のままだ。
ましてや科学的技術には一切頼っていない。
もし気候が急に変動したら、この世界の人たちはどう生活していくんだろう。
世界の終わりだと慌てふためくんだろうか。
魔法の存在しない世界で生活する俺には、どうなるかなんて想像も出来なかった。
俺の居る向こうの世界は、魔法が存在しない代わりに文明がかなり発達しているんじゃないだろうか。
そう思えた。
……。
腕を下ろし、俺は改めて前方へと目を向ける。
開かれた視界に広がる砂漠の海。
見た目は砂漠そのものなのに、この世界にはなぜか砂漠に波があって海のように揺れ動いて存在している。
向こうの世界とはまた違った重力が存在するのだろうか。
重力があるなら、きっとこの世界にも宇宙が存在するはずだ。
……。
本当にこの世界に宇宙は存在するのだろうか?
俺にはそれを証明するだけの学力なんてない。
この世界には魔法が存在する。
もしかしたら俺の世界の科学知識はこの世界では通用しないかもしれない。
……。
ため息を吐く。
俺には理屈が難し過ぎる。
気を取り直して、俺は前方を見つめる。
風を受けた帆は大型帆船を動かし、俺たちを乗せてどこまでも突き進む。
まるで黄金大海原を行く船のように。
ここから俺の果てしない冒険の旅が始まる、完。
……なんつって。
──おっ、と。
途端に強く吹いた風に、飛んでいきそうになった水兵帽を慌てて掴んで押さえる。
風が落ち着いたところで。
俺は乱れてしまった己の水兵服を整えてから、改めて辺りを見回した。
この船に乗っている人たちは皆【オリロアン】へ向かう人たちだ。
観光客を含め、老若男女とも身分を感じさせるような高価な衣服に身を包んでいる。
貴族階級の人たちだろうか。
どうやらこの帆船、乗船賃がかなりお高いようだ。
ふと。
良家っぽい感じの三人の幼い子たちが、手すりへと駆け寄っていく。
俺は危ないと思いながらも、慣れた様子の幼い子たちに遠目から見守った。
幼い子たちが船底を指差して無邪気にはしゃぐ。
「見て! マージュだ! マージュがいる!」
「ほんとだ」
「かわいい」
可愛い……?
その言葉に疑問と好奇心を持った俺は、手すりへと歩み寄っていった。
いったい何がいるんだ?
俺も真似るように手すりから身を乗り出して砂漠の海を覗き込んだ。
波立つ砂漠を掻き分けながら突き進む船底──異世界特有の“オリハルコン”という謎の鋼鉄物質で出来た黒光りの船底の船側部分──を、沿うようにして何十頭もの謎のサメらしき生物が、鋭い歯をカチ鳴らしてエサが落ちてくるのを待っている。
俺は思わず二度見した。
いやこれ絶対肉食生物だろ。
ってか、可愛いか? この世界の“かわいい”の基準ってなんなんだ? そこは明らかに怖がる部分だろ、普通。
落ちたらまず百パーセント喰われる。
そう思っただけで俺の背筋にぞっと寒気が走った。
そのまま何気に、砂海を辿って船の後方へと目をやる。
大型帆船の後方から追いかけるようにして、ぴったりと付けてくる三隻の軍艦。
俺は真顔になり、それを見つめた。
脳裏を過ぎる出航前の出来事──。
※
──出港前。
ターミナルの待合室で俺たちを待ち伏せていたのは、数人の【白の騎士団】だった。
俺は慌てて顔を俯けてフードを目深に被り、知らないフリをした。
なるべくアデルさんの体の影になるよう、なりげなく隠れて目立たなくする。
幸い、勇者祭りで出会った大男やディーマンは居ないようだ。
だが油断は出来ない。
いつ誰に勘付かれるも分からない。
ふと。
リーダーと思わしき少し高価で軽装っぽい白鎧に身を包んだ男が、アデルさんに向け敬礼した後、一歩身を引く形でアデルさんに話しかける。
「王命です、アデル様。【オリロアン】までの道中、我々──第五、第八部隊がアデル様とミリア様を護衛します」
アデルさんが強い口調で手を払う。
「護衛などいらぬ。我輩は王家を棄てた身。庶民も同然なのだ」
男は告げる。
「これは王命です、アデル様」
「……」
顔を渋め、アデルさんがミリアと目を合わす。
ミリアが無言でこくりと頷く。
仕方ないといった感じに、アデルさんが諦めたように肩を竦めてお手上げした後に男へと視線を戻す。
「よかろう。ならば従うしかあるまい。お前たちの護衛を許そう」
「ありがたく存じます」
男が礼を言い、アデルさん達を案内する。
「ではこちらへ。乗船の手続きは済ませてあります。アデル様とミリア様には特別な部屋をご用意しております」
アデルさんが口をへの字に曲げて言う。
「特別な待遇など受けぬ。二等室を用意せよ」
「これは王命です、アデル様」
「ふむ……」
困ったようにアデルさんがミリアと顔を合わす。
ミリアが微笑してアデルさんに言う。
「お供します、アデル様。彼らに従いましょう」
「うむ」
頷いて、アデルさんがミリアとともに白騎士たちの方へと歩を進める。
しかし俺はその場で足を止めた。
気付いてアデルさんが俺に振り向いてくる。
たしかに俺だけ呼ばれなかったというのもある。
だがそれ以前に俺は一緒についていくわけにはいかない。
俺はここの住人のフリした異世界人だ。
ログアウトの瞬間を見られるわけにはいかないし、なにより誘拐された手前、白騎士たちにコード・ネームを知られるわけにはいかない。
そもそも俺は──
「む? どうしたというのだ、ケイよ。一緒に来ぬのか?」
……。
俺は無言で頷いた。
そう。そもそも俺は、アデルさんに“ケイ”と名乗っている。
それは即ち、異世界人であることがバレると同時にコード・ネームもバレてしまうという最大のミスを犯していることもあるからだ。
頭の中でおっちゃんが言ってくる。
『だから俺があれほど名を変えろと言っただろうが。俺の考えた素晴らしい名、ヴァヴァダクト・エレクトロニクスなんとか』
忘れてんじゃねーかよ。
『お前があの名を名乗っていれば今頃──』
それだけは絶対嫌だ、と俺は思った。
『なぜ拒絶する? 最高の名だと自信持ってたんだが』
「ケイよ。怖がることはない。さぁ、我輩とともに行こう」
……。
アデルさんが俺に優しく手を差し伸べてくる。
その優しさが俺の胸を鋭く抉った。
とても痛い会心の一撃だった。
アデルさんが来ないことで、白騎士たちの目が俺に向く。
男がアデルさんに尋ねる。
「アデル様、この者は?」
「ふむ……。兄はこのことを知らぬであろう。
我輩は新たに弟子を迎えたのだ」
「弟子を、ですか」
「うむ。勇者祭りの際に街で引き取った庶民だ。家族を亡くし、孤独で居たところを見つけてな。勇者の才を持つ若者だったので、我輩が弟子に迎えることにしたのだ。
今ミリアとともに勇者を目指しておる」
目指していません。
内心で俺は静かに否定した。
男が俺に謝ってくる。
「無礼を詫びます。ケイ様も我々と御一緒に」
……。
俺は無言で首を横に振り、断った。
アデルさんが感情を取り乱して問いてくる。
「なぜだ?」
俺は一緒に行けません。
その言葉にアデルさんが俺の傍へと駆け寄ってきて腕を掴んでくる。
「何を言うておる。お前さんは我輩の弟子だ。遠慮はいらぬと言うたではないか。
さぁ、ともに行こうケイよ。弟子を置いていくなど我輩にはできぬ」
いえ、俺は……一緒に行けません。
「なぜだ? なぜ来ぬのだ? 理由を申せ」
いや、それは……
「ミリアのことか? そのことなら気にするでない。ミリアはお前さんのことを嫌ってなどおらぬ」
「嫌いです」
キッパリと。
ミリアは俺の見て真顔でそう言ってきた。
なんでそんなにミリアに嫌われなければならないのかと、理由もなく俺はめちゃくちゃ落ち込んだ。
アデルさんが咳払いしてくる。
「ミリアはミリア。我輩は我輩だ。お前さんは我輩の弟子であろう。ならば師の行く先には付き添わねばならぬ。
共に来るのだ、ケイよ。断りは許さぬ」
……。
無言の間を置いた後。
俺はアデルさんの掴む手に手を当てた。
心配させないよう微笑みを浮かべ、別れを告げる。
一緒には行けません。俺のことは気にしないでください。大丈夫です。【オリロアン】には一人で行けますから。
「しかしお前さん、乗船賃も持たずにどうやって──?」
アデルさんがハッとする。
俺は頷いた。
働きます。働きながら一緒の船に乗ります。だから気にしないでください。俺は大丈夫です。
その言葉にアデルさんの手が緩んだ。
緩んだことで俺は掴まれた手を申し訳なく払って、そのまま後退する。
アデルさんの目に光る涙。
諦めるように告げてくる。
「そうか。ならば分かった。お前さんがそこまで身分を気にするのならば仕方あるまい。お前さんの気持ちに気付いてやれず、すまなかった……」
……。
なんかめちゃくちゃ誤解された気がした。
アデルさんが無念を噛み締め、言葉を続けてくる。
「ならば【オリロアン】の【カモメ亭】に来るがよい。我輩とミリアはそこでお前さんを待つ。
必ず来るのだぞ」
……。
行かないと地の果てまで追いかけられそうな気がした。
アデルさんが“待ってるぞ”とばかりに俺の肩を軽く叩く。
そして、俺に背を向けて白騎士たちとともに去っていった。
しばらく見送った後。
俺はホッと安堵の息を吐く。
良かった。どうにかこの場を切り抜けられた。一時はどうなるかと思ったが、上手くいって良かった。
ふと。
俺の頭上にいたミニチュア・ジュゴンが片ヒレでぺしぺしと叩いてくる。
痛っ、痛いよ、なんだよ?
『なぜ一緒に行かなかった?』
えぇっ? 今のは褒めるべきところだろ?
『いいや、大失敗だ。あーぁ、せっかく優雅で豪華な個室で贅沢三昧できるチャンスだったのによぉ、あーぁ。残念だ。すごく残念だ。これで俺は船の中の臭い獣箱行きだ。あーぁ』
そっちの失敗かよ。
だけどさ、よく考えてみろよ、おっちゃん。白騎士と道中一緒に過ごさないとならないんだぜ?
『奴らがプライベートの個室まで監視すると思うか? ましてやまだ疑いをかけられたわけじゃない。
ちょっと疲れたから個室で寝るとか何とか理由付けて引きこもってログイン・ログアウトすれば、もっと上手く切り抜けられたろうになぁ。
あーもったいねー。あーぁ、すごくもったいないことしたなぁ、お前』
そんなに言うんだったら俺に指示してくれれば良かったんだよ。俺にはあれが限界だった。おっちゃんが何も言ってくれなかったからこうなったんだろ?
『たまにはお前の言動を傍観してみるのも悪くないと思ってな。あえて最後まで黙っていた』
性格悪いよな、おっちゃん。
だいたいさ、よく考えてみろよ。仮に俺がアデルさんについていったとして、最悪な結果になることは分かっているだろ?
ミリアからの厳しい監視だってあるし、白騎士の前でバレないよう俺に演技しろというのが無謀なんだよ。
個室でログイン・ログアウトとか、一見魅力的に惹かれる案だけど、考えてみれば俺が上手く切り抜け成功した試しはない。
俺の嘘はいつだってバレやすいんだ。
そんな無謀なチャレンジ、心臓に悪くて出来るかよ。
『ほぉ。お前にそこまでの自覚があったとは驚きだ』
ぅぐ……っ!
『確かにお前は歩く“最悪結果生成機”だ。
お前の|軽はずみな言動(歩いた)の後には、魔王も同情するほどの壊滅的結果がやってくる。
そろそろ自覚して失敗から次を学ぶべき頃だ。俺はもう何も言わない。傍観者でいるつもりだ。
反省だけなら猿でも出来ると云うだろ? 馬鹿みたいに同じ結果を繰り返すだけじゃなく、人間らしく何かを学んで前に進め。
──いや、お前と猿を比べたら猿に失礼か。今の猿は頭が良い』
馬鹿にされている気がした。
『そうか? 俺なりにお前を褒めたつもりだが?』
ほんと性格悪いよな、おっちゃん。おっちゃんもその性格の悪さをそろそろ自覚しろよ。
『まぁいい。この話は終わりだ。
これで行動しやすくなったな。次にどうするかは言われなくても分かるはずだ。
自分の発した言葉には責任を持て』
分かってる。おっちゃんに尻拭いさせるつもりはない。
俺だってやればできるんだ。
※
あれから。
俺は船員として与えられた水兵服に身を包み、この大型帆船に乗り込んだ。
やっぱりこっちの方が気楽で緊張感なくログアウトしやすい。
俺の選択は間違ってなかったと思う。
船に乗る途中でおっちゃんがペット扱いで没収され、この船のどこかの貨物室に連れて行かれてしまったけど、自分の選んだ道に後悔はしていない。
ログアウトの仕方がこれで完全に分からなくなってしまったけど後悔はしていない。
俺の選択は間違ってなかったと思っている。うん。
周囲の様子を見回してから、誰も俺の存在を気にしていないことを確認した後、さりげなく長袖の裾を捲って腕時計に視線を落とした。
残された時間はあとわずか。
そろそろログアウトすべき準備をする時間だ。
事はここまで順調に進んでいる。
もう充分だ。とりあえず一旦、元の世界へ戻ろう。
腕時計を再び袖の中に隠して、俺は周囲を見回した。
向かうはおっちゃんの居る貨物室。
おっちゃんにログアウトしてもらわないと
──その時だった。
俺の後頭部に固い拳が飛んでくる。
痛ッ!
鈍い痛みに頭を押さえて、俺はその場に座り込む。
同時に飛んでくる罵声。
「馬鹿野郎! そこで何サボってんだ、雑用! 何様のつもりだ? あぁ?」
見上げれば。
そこには憤怒の形相をした男が拳を振り上げ立っていた。
俺より少し上等な水兵服は、俺の上司であることの証。
男が俺の首根っこを荒く掴んで持ち上げ、脅すように揺さぶりかけてくる。
「だ・れ・が・展望デッキに行けと言った? あぁ? 俺はな、お前に第二作業室へ行けと命じたんだ。話聞いてたのか? クソガキが」
いや、口頭で行けと言われても。俺、船に詳しいわけじゃないから場所分かんないです。
「馬鹿野郎! お前に付いているその鼻は何の為だ?」
息をする為です。
「馬鹿野郎! 冗談も通じないのか、お前には。いいか? 勘でダメなら直接俺のとこまで聞きに来い。
いいから来い! お前の作業場はこっちだ」
あ、はい。すみません。
俺は男に襟首掴まれたまま引き摺れるようにして、そのままどこかに連れて行かれた。




