ピアニストの一番弟子
「僕聴いてるからアンドロメダ唄ってよ」と耳打ちした。
加藤君は気に入らなかったみたいで、
「ほんと、このうちって不便だよね!」
と腕組みした。
加藤さんが「信也、何てこと言うの、失礼でしょ!」と声を上げる。
「ねぇ、何でこんな大きなうちに無いのさ、ひとつあればイッパツなのに」
じっちゃんは目を見開いて加藤君の次の言葉を待っている。
「ピアノだよ、ピアノ。ここにあればコイツのいう曲もすぐわかるし、アンドロメダだって一緒に唄えるんだ。折角振り付け考えてきたのに……」
「だから、ひとりでも唄ってよ」
僕が重ねて言うと、
「二人で唄って楽しいと思わなかったの?」
と顔をぐっと近づけて僕を睨んだ。
そりゃ楽しかったよ。僕は元々歌好きだし、加藤君は上手だし、唄う以上のことをしてくれるし。
じっちゃんが立ち上がって奥の部屋に続く襖から出て行った。
「もう、じっちゃん行っちゃったじゃん」
加藤君は不貞腐れて、足を投げ出してその場に座りこんだ。
お母さんが取りなそうとしている。
「信也が彬文君に一度唄ってあげればいいでしょ? 彬文君上手だからすぐ憶えてくれるわよ」
それでも気がそがれたのか、加藤君は動かない。
そこにじっちゃんが、ぼくの背丈くらいのキーボードを抱えて戻ってきた。
「これじゃ、だめか?」
加藤君はぱあっと顔を輝かせた。
「あるんじゃん、キーボード」
じっちゃんから受け取っていたお母さんに駆け寄ったかと思うと、加藤君は
「つないでつないで、あ、でもまず歌詞だ。紙、紙」
と急に活動再開した。
まるっとした読みやすい字でアンドロメダの歌詞を書いてくれた。キーボードで曲を弾いてくれるのかと思ったら、手を引かれて縁側に連れだされた。
「やっぱりリハーサルは見せないほうがいい。こっそり練習」
もうにこにこ顔だ。
小声で三度唄って座敷に戻った。
「あきふみはここね」
と言って僕の両肩に手を置いて位置決めした。急に下の名前を呼ばれて驚いた。
僕は、学校で会うと「加藤君」、うちで会うと「信也」と呼びたい気がする。
また信也が前奏をつけてくれて、ふたりで唄い出した。
僕は紙を見ながら直立不動だけれど、信也は隣でパンチを繰り出したり、後ろで両手を上げたり、歌詞に合わせて踊っていた。
エンディングも、「あーおおおおおー、ジャジャジャジャン」と添えた。妙に可笑しかった。
じっちゃんもばあちゃんも、加藤さんも拍手していた。信也は僕を見てエヘヘと笑った。僕もつられて笑い返した。
ジュースをもらって飲んだ。すると加藤さんが、
「音出してもいいでしょうか?」
と訊いた。
「もちろん」
じっちゃんが答える。
僕はジュースをこぼすかと思った。聞こえてきたのは大好きな、チャイコフスキーのコンチェルトだった。
レコードじゃない。弾いているのは紛れもない、目の前の人、信也のお母さんだ。
「これが彬文君のおススメの勇ましい曲。もうひとつはこう」
次は「皇帝」だ。百五十年以上前に作られたとは思えない煌めき流れる勇壮さ。
わあ、スゴイ。
「両方知ってるでしょ、信也」
「だから唄ってって言ったんだよ。さわりだけでも唄ってくれればよかったのに。上手いんだから恥ずかしくないじゃん」
信也も僕の歌を褒めてくれたようだ。でも今はそれどころじゃない。
「おばさん、スゴイ」
「ありがとう」
そう笑ってくれた演奏者の横で信也は
「おまえ、失礼なヤツだな。僕のお母さんは本物のピアニストだぞ」
と威張った。
ああ、いいな、素敵だ。ピアニストのお母さんと唄って踊れる信也、羨ましい。
「じゃ、一番弟子、何か弾いて」
おばさんは信也に演奏させるつもりだ。
聞こえてきたのはアイーダの大行進曲だった。きっと、勇ましい繋がりだ。
ミスタッチもなく気分よく弾き終ると信也は
「これうちにあったキーボードじゃん。僕の落書き残ってる」
と呟いた。
おばさんが赤面した。じっちゃんも照れた気がした。
「預かってもらってたの。うち狭いから」
信也は空気を読まない。
「じゃ、また預かっといて、じっちゃん。また弾くと思うから」
「わかった」
信也が怪我したくない理由がわかった。突き指して演奏に響くらいならアウトになったほうがいい。ドッジボール下手くそでいいんだ。
柔道のときはどうしてるんだろう? テーピングか何かするのかな。受け身のときに手首傷めたりしないんだろうか?
少し僕に似てる気がした。何もかも全部に頑張っちゃったりはしないんだ。しないといけないこと、やりたいこと、頑張りたいことの順番が見えていて、選んでるのかもしれない。
加藤信也は「好き嫌い」で行動している気がする。お母さん大好き、じっちゃんも好き。ばあちゃんも嫌いじゃない。学校大好き、柔道も好き。その上歌がとっても好き。
僕のことも、好きな部類に入れてくれた気がする。
じっちゃんや僕の本性を知らないから、ただの神官ではないと知らないからだろうけど。