勇ましい歌
五月の第三土曜日、僕は座敷の隅で足を投げ出し、本を読んでいた。じっちゃんが座卓にいるから、寝転がって肘をついて読む勇気はなかった。
そこへ、足音が聞こえた。
廊下側の襖が勢いよく開いて、
「お邪魔しまーす」
と加藤君が入ってきた。お母さんも一緒だ。
じっちゃんは読んでいた本から顔を上げて、「いらっしゃい」と言った。
やはり信者さんじゃないんだろうなと思った。神社ではお代師さまと呼ばれるじっちゃんが、若い女性信者の訪問を受けても「いらっしゃい」とは言わない。普通「お元気でしたか、その後いかがですか?」とかだ。
第三土曜日が訪問日と決まってるのかもしれない。
加藤君はじっちゃんに向かって、
「お母さんと上野動物園に行きました。ライオンとトラの違いがわかりました」
と話しかけた。じっちゃんはすっと本を閉じて加藤君を見つめる。
「トラはこうです。動きがゆっくりで大きいけれど、基本猫と一緒。こう歩いてじっと見つめてまた歩く。前足を揃えてうずくまる。ライオンは動きません。オスもメスも寝てばかり。トラのこのうずくまった姿勢のまま、たまに頭を横にして寝ちゃう。それがライオンです」
「わかった、ありがとう」
じっちゃんは、自分がわからなくて加藤君に調査依頼をしたような返事をした。
「よし、歌。次は歌」
「待て、信也、歌は後にしなさい。彬文が本を読んでいるから」
ふとそんなことを言うじっちゃんもヘンだと思った。僕なんか気にしなきゃいい。邪魔なら部屋に退がってもいい。加藤君がこの日を楽しみにしていたことは一目瞭然だ。
「後っていつ? コイツいつでも本読んでるじゃん」
「信也!」お母さんが窘めた。
僕は立ちあがって「部屋にさがります」と言った。
じっちゃんが止める前に、加藤君が近付いてきた。
「一緒にうたおーよ。そしたら丸く収まる」
「僕が?」
「こないだ四拍子唄ってくれた。うたお」
「嫌だ、でもひとつ教えてくれたら唄ってもいい」
交換条件を思いついた。
「何?」
「なんでボール捕らないの?」
「ボール?」
「ドッジで」
加藤君はにっと笑うと、両手の指を一杯に開いて僕の前に突き出した。
「怪我したくないから」
「怪我って、どうして?」
「ひとつ教えた。唄って。唄ってくれたらまたひとつ教える」
僕みたいに痛いのがイヤとか目立つのがイヤとかじゃないだろうに。
「異次元艦隊アンドロメダ知ってる?」
「え? 知らない、テレビ? 僕テレビ観ないから」
「勇ましい歌が唄いたいんだ。何か知ってる?」
「歌はすぐには思いつかない。チャイコフスキーのピアノ協奏曲とかベートーベンの皇帝?」
「えー、クラシック? どれがどれだかわかんない。唄って」
「やだよ、あ、こないだ学校で『錨をあげて』吹いたよ。ドーミソラーミラってやつ」
「あ、うん、それわかる。歌詞は知らないけど。ラーでいいか、いくよ?」
加藤君は有無をいわさず、タッカタララ、タッカタララ、タッカタララタンタンと前奏をつけて唄い出した。立ちつくしている僕の周りを、敬礼したり旗を振ったり、まるで水兵さんになったみたい。
終わってしまうと淋しそうな顔をしたので、すぐシューベルトの軍隊行進曲を続けた。余り勇ましくはないけれど、マーチ同士で繋げやすかった。
加藤君はにかっと目を合わすと、今度は反対方向に僕の周りを廻った。たまに僕にメロディを任せてジャラジャラジャラとか合いの手を入れた。
それでも終わりのない曲は無い。
ここに出てきたクラシックの曲たちは、信也が大人になっても忘れることはありません。
幸せな頃の思い出の曲になります。
どんなふうにかは、拙作「帰ってきた人」の最後あたりを覗いていただけると、嬉しいです。