ケンカ
信也が僕の本を破った。破ったというか、すっぱりカッターナイフで1ページが切り取られていた。
許せなかった。
夏休みも終わりにさしかかり、信也はお母さんと堀内さんと水族館へ行った。
夕方僕が戻ると、部屋から同じ曲の細切れが何度も何度も聞こえた。サン=サーンスの「動物の謝肉祭」から「水族館」だった。
「まんまじゃん」、と思った。
いつも通り普通に、上手に弾いてくれれば何の問題もなかったのに、信也は冒頭ばかりをゆっくりと、装飾音やら分散和音をたくさんつけて旋律を埋没させていくように弾いた。
水の底で窒息しそうな気がした。
夕食時についコメントしてしまった。
「僕、『水族館』はオリジナルのほうが好きだな」
信也は真横に座っていて、最近は目も合わさなかった僕をキッと見据えた。でも何も言わなかった。
じっちゃんが「アレンジするなら小さめの音でやってくれるとありがたい」と微笑んだ。
信也は俯いて箸を置いた。
正座の膝に両手を置いて黙っていたかと思うと、下向きのまま声を絞り出した。
「では、ヘッドフォンを買って下さい」
「あ、そうか、悪かった、思い至らなかった。ヘッドフォンがあれば済むことだ」
じっちゃんが狼狽した。焦ったところなど普段みないから新鮮だった。
「信ちゃん、キーボードのヘッドフォンってどこで売ってるの?」
ばあちゃんが努めて明るく訊いた。
「楽器店か、大きな電器屋さん……」
「じゃ、明日、電車に乗って買いに行こう?」
「そうだな、私たちじゃどんなのがいいかわからないし、信也が自分で選ぶのがいいだろう」
「……お願い……します」
次の日から信也の演奏が聞こえなくなってしまった。少し残念だ。
ばあちゃんは夜ふかしして演奏するんじゃないかと心配なようだった。
「ヘッドフォンをしても電子ピアノは夜8時までね」
と言い渡していた。
本が切られていることに気付いたのは、夏休みも残すところあと3日になってだ。
学校の図書室の本でもなく、区の図書館のでもない。僕の、入手したてで読むのを楽しみにしていた本。
頭にきた。僕にとって本は神聖なものだ。無限の可能性を見せてくれる連綿とした言葉の繋がり。それを途中で断ち切るなんて、本を書いた人にも、作った人にも、本屋さんにも、配達した人にも失礼じゃないか。
どうしてそんなことができる?
僕が本好きなこと知っていて、どうして?
夕食後、部屋に帰る信也を廊下で待ち構え、掴みかかった。
「していいことと悪いことがあるだろう!」
殴ろうとしたが信也のほうが身体は大きいし力も強い。簡単にふるい落とされた。それでも体勢を整えて、体当たりした。
「おまえ、帰れよ、いなくなれ、恐山へ帰れよ!」
信也の拳が僕の頬に当たった。僕は尻もちをついた。
悔しかった。
加藤君はそんなこと言わなかった。学校でいじめっ子たちがどれ程そう望んでも加藤君だけは。
「ああ、帰りたいよ! 山へ帰ればお母さんがいる。お父さんだって妹だっているんだ!」
抑えもきかず叫んでいた。
自分の声を聞いてぐっとせつなくなった。
信也は僕の胸ぐらを掴もうとしていたのに、ギクっとした顔でぴたっと動きを止めた。
そこへみどりさんとばあちゃんが来て、僕たちをじっちゃんのいる座敷に引き摺っていった。
だんだん気持ちが落ち着いてきて、信也の表情が気になった。
「僕にはお父さんがいる」なんて信也には言うべきじゃなかった。信也にだけは。
座卓を挟んで、じっちゃんの前に並んで正座した。
「どうした?」
じっちゃんは信也に話しかけた。
「僕があきふみの本を破りました」
静かにそう自首した信也の声が信じられなかった。僕の名前を口にしたことも。
「破れた本は元に戻せない。途切れた言葉は繋がらない」
うそだろう?
それはうちの神社の言霊の教えだ。じっちゃんが信也に、そんなこと言うとは思わなかった。
「切り取ったページは僕の部屋にあります。セロテープで貼ればちゃんと読めるから……」
「それでも、おまえが切ったという事実は無くならない」
信也が腿の上でぐっと拳を握ったのが見えた。
「あきふみの本は誰が買っている?」
「じっちゃん?」
「違う。郵便で届くのを見てないか? そこをよく考えなさい。退がりなさい」
僕は何も訊かれなかった。
みどりさんが、冷やしタオルを持ってきてくれて、頬に当て、自分の部屋に入った。
どさりと落ちるようにイスに座る。
机の上には問題の本があった。
僕の本は、お母さんが選んで送ってきてくれている。読んで感想を書く。するとまた何冊か送られてくる。お母さんの手紙と一緒に。
たくさん読めば、また次が来る。だから僕は読むのをやめない。
待ち遠しいと他の本も図書館で借りて感想を書く。封筒がパンパンになったらポストに入れる。すぐ次が来ますようにと祈りながら。




