引っ越してきた子
一週間後に信也は引っ越してきた。ぼうっとしている。生気どころか、生きる意欲もなさそうだ。静かすぎる。怖いくらい落ち込んでいた。
誰でも学校で見せる顔とうちでの顔は違うだろう。それでも別人だ。
信也の部屋からラプソディ・イン・ブルーが聞こえる。少し簡単にした楽譜のようだが、それをキーボードで何度も何度も弾いていた。他にもいろいろな曲を。
もう少し下手なら「静かにして」と抗議もするが、勉強していても邪魔にならない。僕は次に何を弾いてくれるのか楽しみにさえ思った。
じっちゃんと加藤さんの関係を聞いて、思い至ってしまった。ラプソディ・イン・ブルー、ブルーはじっちゃんの名前、青造の青だ。
奈緒子さんは、妻子あるじっちゃんとの思い出を、狂詩曲に乗せて弾いていたのだろう。今じっちゃんをどう思っているのかは知らないけれど。
新しい結婚生活に踏み出す前に、躊躇いがちに、時間に抵抗するように。
信也と離れて暮らすことにも、軽い気持ちで同意したわけではないだろうし。
じっちゃんはじっちゃんで、信也に面と向かって「お父さんに会いたい」と踊られて、苦しかったのだろう。求められる喜びと名乗らない苦しみを吐露せずにはいられなかった。
ばあちゃんの気持ちが一番謎だけれども、もう10年も前から、信也が生まれる前からどうするのか話し合ってのことだ。信也を「孫」と位置付けて可愛がっているように見える。奈緒子さんとも普通におしゃべりして、仲がいい。
まずは5時の「おかえりなさい」の挨拶、順番のお風呂、7時の夕食、翌朝7時前の「おはようございます」の挨拶、その度に信也の部屋に声かけして、引っ張り出した。
「これしないとご飯もらえないから」
というのが決め台詞のようになってしまった。遅れたからといって断食させるようなばあちゃんではないけれど。
信也は虚ろな目でぬぼっとついてきた。
元気のない信也はさぞや僕と似ていることだろう。
神社には出なくていいから信也を見張ってくれとじっちゃんは言ったが、本人は逃げるつもりも暴れる気力もなさそうだ。
7月最後の日曜日、加藤さんが迎えに来て、信也を大きな遊園地に連れて行った。先方との顔合わせなんだろうと予想した。
「やっぱりお母さんと住みたい、じっちゃんちは堅苦しい、ニセモノのお父さんでも構わない」と言って帰ってこなかったらどうしよう?
信也と会えなくなるのは淋しい。
二学期には学校に加藤君がいないのではと思うとゾッとする。
お母さんと暮らしたら、信也は前みたいに輝く男の子に戻るかもしれない。そのほうが信也のためにいい。そう何度思い直しても、淋しかった。
そのまま千葉に住むことになってしまったかと思ったら、三日目に帰って来た。
座敷でのじっちゃんと信也の会話を、僕は隣のばあちゃんの部屋に忍び込んで盗み聞きした。
「ただいま戻りました」
「お帰り。遊園地は楽しかったか?」
「はい」
「お母さんと一緒に暮らしたいか?」
「はい」
「堀内さんはどんな人だ?」
「いい人です」
「三人で暮らせそうか?」
「……」
沈黙があった。
「僕はここにいたほうがいいと思います」
「なぜだ?」
「三人だとお母さんが笑わない。僕と二人の時かあのひとと二人の時は大丈夫なのに、三人になるとバタバタしてる」
「それはまだ三人に慣れてないからだろう」
「お母さんはお嫁さんになりたいって言いました。僕にはできないけど堀内さんならできる。ご迷惑でなければ、僕をここに置いて下さい」
驚いた。人の気持ちに敏感なのは知っていた。感じても無視しているんだというのが僕の見解。その上、大事な人の気持ちは絶対無視しない。お母さんとか僕とかじっちゃん、ばあちゃん。
信也は、自分がお母さんの幸せの邪魔になると思って帰って来た……。
「急いで決める必要はない。ここで暮らすのは全然構わないから、もっと何度も堀内さんと会ってみなさい」
じっちゃんも何とかそれだけ言って、面談を終えたようだ。
そして加藤さんの結婚式の日になった。暑い八月だというのに、涼しげに黒留袖を着こなしたばあちゃんが、暑苦しいブレザー、ネクタイ姿の信也を連れて行った。
ばあちゃんは奈緒子さんの母親代わりを務めたらしい。
夕食時に、どれだけ綺麗なお嫁さんだったか話してくれたけれど、どう反応していいのかわからなかった。
信也は黙りこくったまま。
その後だった。信也が僕に意地悪しだした。




