2-1 異能力などあったらラブコメは困難だ 『どエス』須土
数十人の集団検診が終わった翌日は、春も盛りの陽気になっていた。
『第三課』研究主任の紫条屋冬華はゴルフカートのアクセルを踏みこみ、研究所の敷地の中央付近、高い塀のひとつへ向かう。
塀の入り口には小さな守衛室がついていて、身分証と時刻を確認してから扉が開けられた。
「今日はこの『ランクA』施設にいるVIP様と面会してもらう」
「前回の検診のような、職員総出の大騒ぎになる『ランク特A』の寸前……戦車や戦闘ヘリなみの脅威ですか」
助手席に座る研究助手の紺堂秋実も、塀の中へ入るまでは好奇心のほうが強かった。
「前回の異能力『おさななじみ』こと戸鳴くんは、調査を詳しくするほど安全性ばかり深まる気の毒な状況らしいが……ともかく、ここにいるふたりは、彼とは逆に『対象の広さ』が大きな問題になっている」
「乳児、および近い血縁者以外……ほぼ『誰でも』ですね?」
高い塀の内側はサッカー場や小学校が入りそうなほどに広い。
地面はすべてセメントでのっぺりと固められ、アクセントに飾られている監視カメラやスプリンクラー、そしてそれらに似ているが少しちがう形状の『何か』が不穏を助長していた。
「たまに『誤作動』が起きて危ないから、念のため建物の外は長居しないようにね。今では収容場所も足りなくなって『ランクA』すら『相部屋』だ」
冬華は二軒の建物を指す。
大家族でも楽に住めそうな三階建てビルが、互いの位置と周囲の塀から最大の距離をとって建っていた。
大きな窓は三階の二ヶ所だけで、ほかの窓は人が通れないほど小さい。
しかもそのすべてはシャッターまで下りている。
四重になっている玄関ドアに着くと、すでに秋実は厳重すぎる警戒態勢にげんなりとしていた。
「隔離による効果の軽減が確認されているほかは、特に有効な対策がない。影響が蓄積されやすく、耐性の個人差も大きいため、指示があればすぐに退室してくれ」
三枚目のドアの先にはインターホンが設置されていた。
「須土さん、こんにちは。おじゃましまーす」
最後のドアをくぐると室内運動場になっていて、奥にはトレーニングジムセットもある。
階段で二階へ上がると、やや広いほかは平凡な応接室へ出た。
隣のリビングルームもいわゆる中流家庭の家具や飾り、書棚やオーディオが並んでいる。
しかし大人数でも住める広さをひとりで使っている不自然な余裕は見てとれた。
そして奇妙なことに、リビングをはさんだ向こう側にも、秋実が立つ応接室と同じ内装と家具をそろえた部屋がある。
そこに長い黒髪の少女が立っていた。
「検査結果はどうでしたか?」
声は落ち着いていたが、よく通る。
清楚な印象で、表情も静かだが、どこか近寄りがたい。
「うん、正直に言うのは心苦しいのだけど……」
互いに近寄ることなく、広いリビングごしに話を続ける。
少女が手で着席をうながし、冬華は緊張した様子でソファーへ腰をかけた。
見下ろされた状態で何秒か沈黙があり、冬華は手元の資料へ目を落とす。
「特に変化はないね。研究対象としては興味深いけど、こんな環境を押しつけている私など、人として許されていいものか……」
インカムへ短い通信が入り、冬華は気を取り直すように首をふる。
「おっと……このとおりの威力だ。秋実くんは……」
冬華が助手を見ると、ソファーではなく床に正座して体をこわばらせ、見下ろす少女の視線をびくびくと気にしていた。ややうれしそうに。
「わりと素質があったようだね。もう外へ出ていたまえ」
「え? でも私だって博士のようなゴミクズの共犯に堕ちた虫けら未満の存在ですし、このまま須土さんの気が済むまで……」
「人聞きの悪いことを言うな。いいからすぐ退出して、調査情報を読みなおせ」
秋実が身をちぢめるようにして階段を降りると、インカムに若い男の声が入る。
「そのまま玄関を二枚だけくぐってください……秋実さん? だいじょうぶ?」
「あ、幹春さん……え、ええ。私のような者でもなんとか」
「須土さんの調査情報は、今日だけ閲覧許可が出ているよね? 冬華さんの指示どおりに、もう一度よく目を通して」
「わ、私ごときが須土さんの個人情報へふたたび踏みこむなど!?」
「えーと……しっかり事前学習しないで対応するほうが、須土さんへの失礼にあたると思えばいいのかな……」
「は、はい! そういうことでしたら今すぐに!」
秋実は携帯端末を天へ掲げるようにして凝視する。
『ランクA』能力名『どエス』
『近くで対した相手の被虐嗜好を助長する』
「な、なるほど……対策欄にあるとおり、効果をよく意識すると、異常を自覚できる感じもしてきました」
「それでも秋実さんが頻繁に会うのは危険そうだね。どちらかといえば逆の嗜好だった僕でさえ、もう玄関をくぐると四つんばいで……ごくり……」
「え」
「あっ、いや、決して僕が特殊なわけではなく、今のところ直接に十回以上も会っているのは冬華さんだけなんだ」
「あー。いじめられて喜ぶ側ではなさそうですね」
「でも貴重な相性なんだよ。強大な異能力を持っているとはいえ、須土さん自身はごく普通の女王様……いや女子高生で、さびしい思いをしている。直接に会って話せる同年代の生贄……いや友だちが必要なんだ」
「幹春さんもだいぶ蝕まれていますね」
「それがまたなんとも……いや、あくまで職務としての充実……のはず……と、とにかく。冬華さんの傲慢で自己中心的で迷惑をばらまいて喜ぶ性格が、そこでだけは存在価値もあるから……あれ?」
ごそごそと階段を降りてくる音がして、秋実の背後でドアが開き、冬華が四つんばいで出てくる。
「なにかあったのかな? いつも数十分は話しているのに……」
……という幹春の声は、冬華が首にひっかけているインカムからも聞こえていた。
職員らしき中年男性の声も入る。
「どうやら幹春くんと秋実くんの会話が、冬華くんにもつながっていたようですねえ?」
「ええ!? あ、本当だ!? 課長、これって……!?」
「冬華くんでも少しは落ちこみましたかねえ? しかも須土くんが増幅してしまいましたかねえ?」
冬華は四つんばいで秋実へ後頭部を見せたまま、暗く笑っていた。
「人体実験を続けなければ生きられない不様な怪物などに、人間様と同じ高さの空気を吸う権利などありませんので……」
秋実は冬華が背に乗せていた紙の資料束をそっとひろい、冬華の見つめる床に置く。
「博士、調査情報を読みなおしてください。きっと博士なら、すぐ元の有様に……」
「それだけがとりえの、それしかできない私ですから、何百時間でも」
冬華は口でページをめくって読みあさり、秋実はそっと課長だけに連絡する。
「あの……このまましばらく冬華さんの観察記録をつけたりはしないのですか? 今の姿も監視カメラで保存しているんですよね?」
「秋実くんも意外と、この施設に向いた性格だったようですねえ?」
後日の話だが、監視カメラの映像は冬華によって削除された。
しかし職員の間では密かに、冬華が四つんばいで資料ページをくわえている『人間様と同じ高さの空気を吸う権利などありませんので』画像のケータイ待ち受けが流行した。