詭謀(6)
当時既に老耄による狂態が目立ち始めたとは云え、依然として大公の六旗手としての“力”は健在であった。デイガンの必死の抗議は大公の恫喝の前には全てが虚しいものであり、何よりも必要以上に不興を買う事でデイガンはオズナを遺して処断される訳にはいかなかった。
せめて事前に何らかの思し召しでもあれば、どうにか口実を設けて商都なりに逃す事もできたであろう。ちょうど高等方術を学ばせる為にザーザートを商都に派遣させていた時期でもあり、そこに匿うことが最善だと分かってはいた。だがあまりにも突然の出来事であり、デイガンにはティティルゥを逃す手段は無かったのである。
厚顔無恥だとは自分でも思う。デイガンに出来たことはティティルゥを逃す事ではなく、逆に逃げて事態を悪化させぬように願い諭すことだけであった。
後事として弟であるザーザートの庇護をデイガンに託し、ティティルゥは山腹深くに穿たれた大公の後宮の扉の奥へと消えた。“ケーン洞”を護る為に文字通り“売られた”ティティルゥの白目の少ない醒め切った藍色の瞳を、デイガンはいまだに忘れる事ができない。
養父となった訳ではない。元より鉱山送りとなって遠からず衰弱死したであろう運命から救い出してやったという恩義がまず先に有る。何よりも選ばれし六旗手――それも“旗”を秘かに2本も有した――クォーバル大公に抗する手段も無い以上、デイガンのみが血も涙も無い不義理な男であると責められる謂れは無いであろう。
だが、それでも深い哀れみと負い目を感じぬ程、デイガンは非道ではなかった。ティティルゥへの虚しいだけの詫びの言葉は、遂に彼の口から洩れる事は無かったのは、それだけ恥じていたに他ならない。
ティティルゥの身が再び後宮より戻されたのはそれからほんの数日後の事であった。
何よりも“下げ渡された”彼女の姿は陰惨の一言に尽きた。
何があったのか、何をその身にされたのか、絶句するデイガンには想像する事すら躊躇われた。
四肢のあらゆる関節は有り得ぬ方向にねじ曲がり、常に宝石の様に輝いていた大きな瞳は今は生気の無いまま見開かれ、二度と閉じることは無かった。
そして物言わぬティティルゥの屍の脇には、のっぺりとした白い“幽霊”が――死人の無念が形となった忌まわしい人型が――絶えることなき嗚咽をただひたすらに漏らしていた。
その止まらぬ怨嗟の嘆きを前に、どうして大公が死体を早々に後宮の外に放ったのかをデイガンは理解した。
コバル公国に住む者にとって、“幽霊”を目にするのは別段珍しいことではない。むしろ不慮の事故死の多い鉱山地帯という土地柄上、廃坑の暗闇の中を彷徨う“幽霊”は付き物の光景ですらあった。
だが、ここまで激しく咽び泣く“幽霊”を見るのはデイガンにとっても初めてのことであり、あの嗜虐性の増す一方であった大公ですら早々に厄介払いを決め込んだのだと予想するのは容易いことであった。
或いは――或いは巧く大公の寵愛を得る事で結果的にティティルゥに利するのではないのかというデイガンの朝露の様に儚い望みは、当然のことながらたちまちの内に粉砕されたという訳である。
商都のザーザートには、姉が大公に召されたという事は始めから知らせてはいなかった。それがティティルゥの望みでもあり、デイガンにとっても事態の悪化を招く要因でしかない以上、ただ黙って恥を重ねるのみだと云うことでもあった。
それでも、如何にしてほぼほぼ日を跨ぐことも無く知り得たのか――今にして思うと既にザーザートはデイガンの庇護の手を離れ、何がしかの独自の情報網を隠し持っていたのであろう――ザーザートは馬を乗り潰しすらして公都に一人駆け戻って来た。何事にも姉を立てデイガンを立てオズナをも立て、自らは矢面に立つことを嫌い誰よりも控えめであったあのオズナが、である。
残酷にも彼が到着した時には、全ては手遅れであったのだが。
ザーザートにはティティルゥの遺骸を見せないようにデイガンは取り計らった。そればかりか邸宅に招き入れたその身を軟禁状態にすらした。姉の訃報を前に泣きも喚きもせず、まるで自らが“幽霊”そのものであるかのように立ち尽くす、まだ少年の面影の残るザーザートに対し。
それがデイガンのしてやれる育ての親――何を今更とデイガンは自嘲した――としての精一杯のことであった。
しかしその夜、ザーザートの姿は公都から消えた。デイガンが公都の邸宅地下に取り急ぎではあるが安置したティティルゥの遺体と、その傍らですすり泣く“幽霊”諸共に。封だけは厳重にしていたのにも関わらず。
ザーザートの方術によるものであろうと理屈付けはできる。その推測が正解であるのか知る術は無いが、邸宅の誰の耳にも“幽霊”の嘆き声が届かなかった事だけは事実である。
或いは後にオズナが――然したる根拠も無く思い付きで――口にしたように、ティティルゥの“幽霊”はザーザートを前にして泣くことを止めたのかもしれない。
ザーザートが逐電したとの報告を受けた時、自ら先頭に立ってその行方を探し求めながらも、正直なところデイガンは胸中で深く安堵していた。ザーザートが軟禁されていたにも関わらず邸宅よりあっけなく脱出できたのは、或いは謀略の一環として何処かの貴族の手引きでもあったのではないかと注進する配下の者もいた。だがデイガンには既にそれを仔細に調査する気力も失せていた――と云う態度を表向きに取った。
これ以上事を荒立てても無益であるという思いも無論あった。
だがそれ以上に、ザーザートが公国より無事に落ち延び、いつか全てを呑み込んで新たな生き方を見つけてくれることを祈る事だけが、その時のデイガンにできる最善であった。
ザーザート自身の為にも、そして暴君と共に残される自分や孫の為にも。
だが、そのような虫の良い願いが通じる筈も無く、事態は最悪の結末を迎える事となる。
デイガンの許に、クォーバル大公自らの手でザーザートが誅伐されたという一報が届いたのは、彼が姿をくらまして数日の後のことである。
デイガンが我が耳を疑ったのは、何よりもザーザートがそこまで直情的な行動をとったのかという驚愕からであった。
物事を客観的に捉えることが出来る男だと、デイガンは常日頃よりザーザートの事をそう評していた。故に六旗手である大公への恨みを募らせたとしても、まずは雌伏し機会を窺うであろうと甘い予測をしていた。そしていつしか断念してくれるのではないかという、淡い展望すらあった。
そのザーザートを大公自ら誅したという事は、逆に言えばそれだけ彼が大公の近くに潜み機会を窺っていたという事でもある。ザーザートがそこまで大公に肉薄した以上、言うまでも無く目的は唯一つ、大公を弑する事であったのは明白だった。
姉の仇討ちを謀るのは分かる。だがそれにしてもほとぼりが冷めるまで身を隠し、油断したところを見計らうのが常である。大公への怒りと憎しみが如何に膨張したとして、それに呑まれるまでにザーザートが我を忘れる性分だとはどうしてもデイガンには思えなかった。
憤怒のあまり狂ったのではないのかとも思った。だが、それを確かめる機会はデイガンには一度たりとも訪れなかった。ザーザートが捕らわれて後、デイガンは一連の事件に関与する事を大公により許されなかった為である。
それまで公国において、ザーザートはデイガンの子飼いであると認識されていた。それにも関わらずザーザートの主人としてのデイガンは、大公より弁明の為に呼び出されることすらなかったのである。完全に蚊帳の外という扱いであった。
幾ら暴君であるとは云え、当時のクォーバル大公はまだ頭のめぐりが――多少は――ましであり、横死させたティティルゥの件も合わせてこれ以上デイガンを刺激しない方がいいと判断した可能性はあった。
加えて表向きには“謎の不届き者”として扱われたザーザート自身も決して庇護者であるデイガンの名を口にしなかったと云う事実を、ずいぶん後の事ではあるがデイガンは聞き及んだ。それがザーザートによる最後の義理立てであったのか、或いはデイガンとの完全な決別を意味していたのか、ザーザートが公国に帰還を遂げた今でもデイガンは訊く事を躊躇い、敢えて触れずにしておいたままである。
何れにせよ、一切を不問とされたが故に逆にヘタな動きを封じられた当時のデイガンの耳に届いた最後の事後報告は、大公の生命を狙った“謎の不届き者”が遂に奈落の底に落とされたという顛末のみであった。
奈落とは、公都の山一つ越えた渓谷の最深部に口を開けた文字通り底知れぬ深淵であり、公国の民にとっては恐怖の象徴の地でもある。
鉱山を徘徊する“幽霊”は貴士達の手でやがて捕縛され、奈落まで引き立てられた後にその淵から蹴り落とされるのが通例であった。言わば忌まわしき者達を廃棄する為の天然の穴倉という次第である。永劫とも思えるその底知れぬ穴は、時として大公の強い不興をかった哀れな罪人が、生きながらにして落とされる流刑地でもあった。それも突き落すと身投げと変わらぬ処刑方であるが故に、即死せぬよう入念に『降ろす』といった念の込みようであった。
ザーザートにはその奈落に落とされるという極刑が早々に下されたのである。
齢を経る度に嗜虐性の増していく大公が、ザーザートに手自ら苛烈な尋問をかけること無く奈落送りにしたのは、それはそれで珍しい事だと言えた。デイガンがその場に居合わせていたならまだ色々と察するものもあったのかもしれないが、“部外者”である彼の得た僅かな情報はと云えば、大公が相当に怯えていたと云う真偽も定かでは無い口さがない噂話だけであった。
主君としての一線の判断すら覚束なくなっていた大公が怯えていたという噂は、当然ながら与太話としてかなり盛られている部類であろうと云うことは察せられる。しかしそれを差し引いても、その日を境に大公が完全に政務を投げ出し、後宮に籠り荒淫にのみ浸るようになったことだけは確かであった。
それは単なるデイガンの――後ろめたさ混じりの――思い込みであり、ザーザートの仇討ちに掛けた執念と大公の政務放棄には因果関係は無いのかもしれない。それでもデイガンが無関係ではあるまいと思うのは、それこそ勘以外の何物でもない。
だが少なくともザーザートは今や大公の名代となり、逆に大公はその姿を完全に隠してしまった。
報いであろうと、デイガンは思う。
かつてこの閉じた世界から山腹に穴を穿ち地中から逃れようと試みた経験のあるデイガンにとって、例え奈落と云えども底が有ることは明らかであった。この世界を隔離する為の視えない障壁が地の中であろうと存在していた以上、例え奈落と云えどその理から逃れる術があろう筈もなく、奈落とは打ち捨てられた“幽霊”によって充たされた文字通りの生き地獄の様な場所であろうとデイガンは予想していた。
そこに落とされたザーザートがどのような手段を用いてそこから脱し、どこに潜伏していたのかは今をもってしても謎である。ザーザート本人の口から語られる機会も無いであろう。
そしてもう一つの大きな謎が残されていることをデイガンは知っている。言うまでも無くザーザートと共に消え失せたままの、かつてはティティルゥであった“幽霊”の行方である。
当然のことながら、ザーザートが大公に仇なすべくその懐に潜り込んだ時には既にティティルゥの“幽霊”は消えていたのは間違いない。いつまでも泣き止まぬ“幽霊”が共にあったならば、例えザーザートの方術の“力”をもってしても人知れず後宮に潜伏することなど不可能である為である。
これまでの数多の疑問を含め、ザーザートが公都に帰還を遂げた以上は当人に聞けば良いだけの話ではあった。だが姉弟を“切り捨てた”負い目のあるデイガンにとって、そこまで厚顔に成り切れるものではなかった。
何れにせよ、ティティルゥの遺体と“幽霊”の行方は今でも知れず、そして公都に確たる――にも関わらず然したる益も無い――地位を築いたザーザートが新たに姉の墓を設けた様子もない。
むしろ己の所業を悔いたデイガンが自らの治める“洞”に慰霊の為の秘かな碑を設け、機会があればオズナと2人で詣でている程であった。
その慰霊碑はザーザートが奈落に落とされてから日を置かずして建てられた為に、碑文にはティティルゥだけでなくザーザートの名も共に刻まれてしまっていたのだが、それはそのままにしてあった。
今更というのも無論ある。
だがそれ以上に、自分の知るザーザートはやはりあの日に、ティティルゥと共に“死んだ”のではないのかと、デイガンは度々感じるが故のことであった。
元は奈落に落とされ野垂れ死んだ筈のザーザート――否、“賢者”ザラドが公都に姿を現したのは、それから2年程後のことである。
いまだにしぶとく抵抗を続けている――本気でかまけても益が無いという“お目こぼし”も無論あった訳だが――救世評議会の若き重鎮として、クォーバル大公に秘かに平伏する為に。それが救世評議会そのものを公国に売り渡す目的であった事を知るのは、デイガンを含めてほんの僅かの者ばかりである。
実のところ、しばらくの間デイガンはザラドの正体に気付けなかった。新たに公国に仕えるにあたり、さすがに“ザラド”の名前のままでは不味かろうと改名の話が持ち上がった際に、旧名であると断った上で始めて“ザーザート”の名を名乗ったのである。
その時のデイガンの受けた衝撃は、かくしゃくとした老宰相をして思わず数歩後ずさり立眩みを起こす程の強烈なものであった。




