詭謀(4)
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商都ナーガス――
まだ日の昇る気配すらない未明の刻に、紅衣の少年アルスは独り、出立の準備を終えていた。薄暗がりの中に居るにも関わらず、まるで炎の化身の様にその姿は艶やかなものであった。
とは云え、何処の世界で調達して来た物か材質不明の鮮やかな真紅の外套を例外として、彼は如何なる刻でも徒手空拳であった。護身用の武器の類も身の回りの荷を詰めた背負い袋の一つすらも一切身に付けてはいない。街での何らかの支払いの際には懐中より現地通貨や貴金属の入った小袋の類を取り出すこともあるが、それを仕舞い込んだ際に袋の容量的に懐は相応に膨らんでいなければならないのだがそれすら無い。
外套の他に敢えてアルスが特別に身に纏っているものを挙げるとするならば、彼の周囲を巨大な歯車の様にゆっくりと回っている三つの“枷”だけであろうか。
コバル公国のクォーバル大公の名代を務めるザーザートによって施された“不可視の枷”。それは螺旋時空の狭間に据えられたこの密閉世界に引き摺り込まれ、散り散りとなった従者と捕囚を追う術を失い“眠り”の内に今後の処し方を思案している間に施された、アルスにとっては不覚に近い“枷”ではあった。
ザーザートの言によれば術者以外は視る事も叶わぬこの“枷”は、アルスに対する生殺与奪の“宣告”が形を成した物だとのことである。勿体ぶった言い方をしているが、要はアルスをいつでも誅せるという宣言でもあった。
だが、誰の目にも視えぬ三重の術式と云う脅し以上の情報を流石にザーザートも迂闊に漏らしはしなかった。それが方術によって寄木細工めいて構成されたある種の縮退術式であることまでは、聞き齧りの知識しか無いとは云えその“歯車”を間近に視たアルスも推測できた。
万事を煩わしいと感じるアルスが、小賢しいと目を細めるのも稀なことではあった。芝居じみた大仰なことだと、もしも2人の従者の内のどちらかでも傍にいたならば、そう彼は冷笑していたところであろう。
何れにせよ、術式の構成に関しては門外漢であるアルス独力では“枷”を解除する術が無いこともまた事実ではある。そもそもが“不可視の枷”にその身を囚われたという事自体が、ザーザートの方術がアルスの抗魔力を上回ったという事でもあり、彼にとっての――口にする事こそないが――誤算であった。
それでも彼の胸の内に浮かぶのは驚愕や無念ではなく、只々煩わしいという苛立ちではあるのだが。
「……」
一人である。先日の『潮時か』という独白に違わず、今のアルスは独りであった。オズナには出立の話すらしていない。そもそも宿は同じだとは云え部屋は――有無を言わせぬアルスの所業で――違えているので、昨夜の繁華街の帰りから後は貌を合わせてすらいない。
別離の声掛けなど不要であろうとアルスは思う。その手間自体の煩わしさは勿論、言えば付いて行くと言い張る事が目に見えていた。彼の捜し人がそうであったように。
おそらくはその定命の者の“善意”とやらが、アルスにとっては邪魔以外のなにものでもないことに気付くこともあるまい。
既に逗留代としての宿への支払いは十二分に済ませてあった。他に後顧の憂いなどある筈も無い。
長い流浪の旅の中で、後顧の憂いなどしたこともないが。
「……」
忍び足どころか摺り足さえもしていないにも関わらず、アルスのいつもの大股開きの歩みからは一切の物音は立ってはいない。床がどのような材質であろうと常にカツカツと響いていた独特の足音さえも、今は文字通り空気を読んだかのように沈黙を保っていた。
宿の扉がまるで目に見えぬ従者でもいるかのように独りでに開き、そして外に出た彼の背後で音も無く閉じる。未明であるとは云え下働きの者一人、彼の前に顔を出す事も無い。
あたかも宿そのものが深い“眠り”に包まれているように。そしてそれは比喩ではなかった。
そのまま宿の敷地を横切るアルスが厩舎の前を通ったのは、単に門に至るまでの建物の造りがそうなっていただけの事である。オズナが乗っていた馬も無論ここ繋がれている訳ではあるが、別に彼に別れの挨拶などと云う感傷があった訳では無い。実際にアルスはその馬の名前すら記憶には留めていなかった。
「……」
だが、それでも厩舎の馬に一度目線を向けたのは、アルスの単なる気まぐれか、或いは得体の知れぬ悪寒の故か。何れにせよ、その紅い三白眼がスゥと細まる。
「貴様……!」
馬の足元にはまとまった数の荷駄が既に準備されており、更にその傍らには半ば寝惚けていたとは云えオズナが荷に体を預け座っていた。その出で立ちは完全に旅装束のそれであり、アルスの接近に気付いた愛馬が健気にも、未だ目の覚めやらぬその頬を長い鼻面で押していた。
「何故、旅に備えている……?」
アルスが唖然とした表情を面に出すのは非常に稀なことであった。愚か者の類だと、オズナの挙動にはまったく注意を払っていなかったというのも無論ある。だがその油断を抜きにしても、よもやオズナが自分の行動を読んで一手先んじるなど、その可能性を考慮すらしたことはなかった。
偶然鉢合わせしたのであれば――アルスの生来備えた感知能力の前ではそれすらも有り得ないのだが――諦めもつく。だがこうして待ち構えていたということは、すなわちそういうことであった。
「まさか、本当だとは……」
眠い目を擦りつつ、それでも心底感心したかの様にオズナが呟く。アルスを見上げる邪気の無い瞳が、また一層アルスの心を苛つかせた。
「何を言っている?」
放置して飛び去れば良いものをつい問い返してしまったのは、定命の者への興味を捨てきれぬアルスのある種の弱みであったのかもしれない。
「あの酒場の片目のマスターがこっそり教えてくれたんですよ」
完全に目が覚めたのかヨイコラセと立ち上がりながら、オズナがまるで自分の手柄の様に自慢げに胸を張る。
「アルス卿が、別れも告げずに独り旅立つ男の目をしているって」
「――!?」
馬鹿な、とまではアルスは口には出さなかったが、刹那とは云え紅い三白眼が大きく見開かれたのは事実である。オズナがそれに気付ける道理も無いが。
定命の者と相対する事による、常なる煩わしさと極稀に生じうる面白さ。それがアルスの胸の内で如何なるしのぎを削ったのか、表面上は渋面を収めつつ彼は一言だけをオズナへと告げた。
帰れ、と。
オズナが素直に頷く筈がないことはアルスも予期していた。彼の捜し人がそうであった様に。故にオズナが何か反論を口にする前に、彼は更に厳然たる“真実”を告げた。脅しであったと言ってもいい。
これ以上自分に関わると、誰もがそうであったように命を落とすぞ、と。
でもと、オズナは粘った。
卿の捜し人は無事なのでしょうという反論は、オズナにしては気の利いたものであった。
アルスの脅し文句が怖くないかと言えば嘘になる。真紅の少年の言う通り、ここから回れ右をして一人コバル公国に戻れば、オズナにとっては短くはあったが様々なことを我が身で学べた愉しく有意義な旅の想い出として残ったであろう。
しかしあれだけ傍若無人であれだけ粗雑な扱いを受けながらも、どこか別れ難いと云うか、何とも云えぬ魅力が真紅の少年にはあった。
同じ思いを抱いたからこそ、数日とは云え連日アルスが通っていた例の酒場の隻眼のマスターもオズナに耳打ちしてくれたのだろう。
昨夜の内にでもオズナなりに懸命に手筈を終えていたのか、厩舎から引き出した馬の鞍に荷を積むだけで、彼の旅支度は完了のようであった。それなりに大きな音を幾度か立てたにも関わらず、宿の者が出窓なりから確認の為に顔出すような事は一度もなかった。依然として建物全体が深い“眠り”に就いたままであるかのように。
オズナの支度が済んだところまでを見届けたアルスが踵を返し、独りでさっさと歩き出す。これまでの旅の途上がそうであった様に、わざわざ言葉を交しはしない。
唯一これまでと相違があったとすれば、秘かに彼が宿への“眠り”の術を解いたことくらいであろう。
帰れと厳命された訳でもなく、さりとて好きにしろと言われた訳でもなく、放置された形となったオズナが慌てて馬を牽きながらその後を追う。
宿を出てそれなりに騒がしい正門への道すがら、背を向けたままであるとは云えアルスの方からオズナに問い掛けたのは珍しいことであった。
「もし俺が、宿の正面ではなく裏の塀でも乗り越えていたらどうするつもりだった?」
「え?」
キョトンとしたオズナの貌は、無論アルスには視えない。その後の心底意外そうな表情も又同じである。
「アルス卿、そういうコソコソしたことはしないじゃないですか」
「……馬鹿か、貴様は」
傲岸に吐き捨てて歩を早めるアルスの表情も又、オズナからは見えない。その唇の端にほんの僅かに苦笑交じりの笑みが浮かんだことも。
『コソコソしたことをやらない−』――宰相デイガンより託された通行手形を持つオズナを捨てて行く以上、アルスが商都を出る為に外壁を密かに飛び越えていく算段であったことを、彼が明かす日が来ることはないだろう。
「待ってくださいって!」
滑る様に先を進むアルスに置いて行かれぬよう、慌てて馬を牽いて続くオズナ。その騒がしい足音を背後に聞きながら、アルスは改めて今後の事を思案する。
目指すは浮遊城塞オーファス。
アルスにとって今回の旅立ちのそもそもが、その城塞の制圧を宰相デイガンに請われてのものであった。
旅立つ直前までデイガンに対する義理に近いものを感じぬでもなかったが、それも道中でオズナの世話をすることで――アルスの中では――相殺されていた。その意味でコバル公国を発って久しい今ならば、何所に向かおうと誰に気兼ねする必要も無かった。
抑止力めいた独力では外せぬ“不可視の枷”の事はとうに忘れた。
それよりも問題は、先日の酒場において公国の遣いを名乗る男がオズナに耳打ちした内容にあった。
“調査の結果、客将の捜し人が浮遊城塞オーファスに軟禁されているのは間違いない”
もとより腹芸など出来る筈も無いオズナは、使者が去った後すぐにその内容をアルスへとそのまま伝えた。
自身を含め3人いると聞く“客将”――その内の“亡者”とはザーザートの仲介によって顔合わせもしていた――の中で、それが己を指していることは明らかであった。使者も又、あれだけ自己主張の激しい真紅の装いの少年を目の前に、それに気付かぬ道理も無い。
回りくどいことだと、アルスは思う。
何らかの謀の一端であることは疑いようもない。そもそも使者を秘かに遣わしたのが宰相デイガンであるならば、わざわざオズナを介さず自分に直接言付けするよう手配するであろうことをアルスは知っていた。
対外的な示しとして“客将”アルスに対する“お目付け役”と云う名分を与えただけで、デイガンはオズナに実務を期待していない。精々が公国の“洞”を出て見聞を広める為の旅に出す方便というところであろう。
デイガンが孫ではあるがあのオズナを己の後継者として据える事を夢見、その為に外の世界での経験を積ませようと試みるまでに甘い男ではあるまいとアルスは評していた。
オズナを旅に出したのは、あくまでオズナ自身の成長を願った“肉親の情”というものであろうとアルスは理解しているつもりだった。もっともそれも自分には縁の無い、定命の者固有の行動理念だと認識しているだけの話である。デイガンがやろうとしていることは理解できるが、何故そうすることを願うのかまでは理解できない。
彼の捜し人がかつて彼を評して『哀しい』と泣いた理由が分からないのもまた、同じであった。
「……」
オズナ経由で情報を流し自分の行く先を誘導しようとする謀の主の見当は付いていた。アルスにとってはそれすらも些事ではあったが、向こうはそれを知るまい。
疑わしきは滅する――それが許されるのであればとうの昔に煩わしさからは開放されていた筈であるが、それはせぬと云う“約束”であった。
かと言って、謀の主の裏をかいてやろうなどともアルスは思わない。自分の興味を惹かない謀略にわざわざのめり込む程酔狂ではないし、何よりもそういう謀にも対処する役割の2人の従者と離れて久しい。
ただ、定命の者の居留地を端から探るだけの捜索に一つの当てができた、それだけのことであった。謀であろうとも、行けば何かは騒ぎ出すだろう。
「アルス卿、一つ聞きたいのですが」
わたわたと追い縋りながらもオズナが思案するアルスの紅い背に声を掛ける。そうしたところで何の反応も返ってこないのが常であるだけに、オズナは構わず先を続けた。
「貴方が迎えに行こうとしているのは、どんな人なんですか?」
「……」
アルスの捜し人に対しオズナが興味を持つのは当然であった。居丈高なこの少年が気に掛けているらしい人物について、実は公都に居る時から気にはなっていた。単に聞くタイミングが無かっただけの事ではあるが、自分宛に公都からの機密情報が伝えられた以上は立派な関係者に格上げされたと判断した――見当違いも甚だしいが――オズナが、今にしてようやく口に出して聞けたといった次第である。
普通ならば“恋人”の類を思い描くところではあるが、オズナはどうしてもアルスからそのような人物を連想することが出来なかった。
アルス本人が年端もいかぬ少年であるということもある。だがそれ以上にオズナ本人がそういう色恋沙汰に疎いというのがその理由であっただろう。
「ファーラか……」
「えっ!?」
背後を一顧だにすることなく、ただアルスの呟きだけが洩れ聴こえた。興味本位で口にしてはみたものの答えが返って来るとは思ってもいなかっただけに、オズナの方が我が耳を疑った程である。
アルスの呟きに含まれた声色が果たして如何なる想いを含んだものであったのか、オズナには窺い知ることは出来なかった。
「俺の――俺の捕囚だ」




