奇郷(1)
私信:加世田先生、ストックが尽きもした……
目覚めは、最悪だった。
敢えてもう一度言うことを赦してもらえるならば、目覚めの感触は最悪であった。
あの、悪夢にうなされているだけであると願い意識を失くした一夜から目覚め、再び暗黒の只中に精神だけが捕らわれていることを知った私に出来ることと云えば、ただ己の置かれた境遇を薄く笑うことだけであった。
(ふた……)
私は妹の愛称を呟き、その記憶に縋り、そして――最初の覚醒の時と同じく肉体など存在しないのだが――項垂れた。
眼前で落下する妹を救えなかった後悔が私を責め苛む事は当然である。だが何よりも、今もどこか他人事のように冷静さを保てている自分自身が何よりも嫌だった。
(何が『近所でも評判の仲良し兄妹』だ……)
鼻高々に周囲に吹聴して回っていた過去の自分が耐え難く、そして忌々しい。口ではどう言おうとも自分さえ無事ならばそれでいい、それが私の本性なのだと痛感させられた。
結局私は最期まで、妹に対して兄らしいことを何一つしてやることができなかった。
何一つとして……。
“――試製六型、稼働開始”
故に私は目覚めの刻を告げる声なき声を、半ば捨て鉢気味に聞き流した。
またあの廃棄場からの再起動であるならば、迷わずその場で自爆を選ぶつもりだった。この身が痛みを感じないのであれば、何の恐れも躊躇も有る筈が無い。
(ふた……)
だが自分には出来はしないだろう。妹を遺して、自爆することなど。
妹の居ない世界に、自分一人だけが逃避することなど。
思案の袋小路に迷い込んだ私を、頭から丸飲みにされたような独特な感触が包み込む。総身を、魂魄を隅々まで舐め上げられるような微弱な快感の内に、私の自我と視界は現世に再び呼び戻された。
「――お目覚めね」
最初に私の視界一杯に飛び込んできたものは、蜂蜜色をした大きな瞳だった。
同時にかけられた穏やかな響きの声に、部屋に差し込む陽の光の眩しさに、私は完全に虚を突かれ一切の反応を返すことができなかった。
「そっちはどう、瞳ちゃん?」
蜂蜜色の瞳の持ち主である小柄な若い女性が、私の顔をまじまじと覗き込みながら何処かへと訊いた。
東欧系と表現すると一番近いのだろうか、ただでさえ女性に興味の薄い私にとって――更に加えて相手は白人である――年齢に関しては完全に憶測となってしまうが、それでも20代辺りの妙齢の女性に見えた。
「どうも何も、何か喋らせてくれないと」
左の奥から別の、これまた女の声が応えた。
無愛想かつキツめの物言いが何故か気に触ったが、単眼をそちらに巡らす前に、目前の女性が再び私に話しかけてきた。
「おはよう、調子はどうかしら?」
どこの令嬢だと見紛う程の穏やかな、楽の音のような透き通った声。修道女のような飾り気のないゆったりとした服。
その上からでも察せられる薄い躰と腰の辺りまで伸びる金髪は、私にゲームや漫画に出てくる麗人を連想させた。
社畜の哀しさ、というのは卑下し過ぎだろうか、親に躾けられた『挨拶には挨拶で返す』という慣習だけは如何ともし難く、私は反射的に「おはようございます」という言葉を口にしていた。
喋れる機能が無いことを、あれほどまでに思い知らされていたにも関わらず。
「おはようだってよ、館長!」
再び奥から怒声かと思うような無遠慮な声が上がる。侮蔑の色は無かったとは云え、流石に私も好意的とはいえないその声の主に眉を顰めた。
「瞳ちゃん、言い方」
金髪の女性は奥に顔を向け軽く窘めると、改めて私の方に向き直り子供をあやしているかのような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね、あの子真面目すぎるから」
申し訳なさげに語る彼女の貌を間近で見る内に、私はとある一つの事実に気が付いた。
私の耳に届く声と彼女の唇の動きが連動してはいなかった。ちょうど吹き替えの洋画を観ている時のように。
「えぇと、私の名前は館長。色々と戸惑っているとは思うけれど、まずは落ち着いて私の話を聞いてくれる?」
私の反応を伺っているのであろうか、ゆっくりゆっくりと、噛んで含めるような口調で彼女が会話を紡いでいく。その長い台詞を見る限り、唇の動きとの音声のズレは顕著であった。
「……」
沈黙のままに、しばし私は思考を巡らす。
“吹替”について、色々と思うところはある。言語が異なるとして、それを私が理解できる言葉に訳せるということは日本語のデータが何処かに存在しているということである。
いつ? 誰が? どのような経緯で?
だが目の前の女性の蜂蜜色の澄んだ瞳に見つめられるだけで、私はなんとも言えぬ安堵感に包まれ、この場でそれ以上追求する気にはなれなかった。
自分でも理解し難い感情。
柄にもなく惚けた私の心を、しかし彼女の最初の質問が瞬く間に打ちのめした。
例え聴き手である彼女にそのような意図が無かったとしても。
「まずは、貴方のお名前は?」
「――!?」
“館長”と名乗る女性の問いは、正に私にとって青天の霹靂だった。
改めて記憶を探っても、自分の名前が分からない。思い出せない。
端々の確かな記憶はあった。だがその全ては些事。憶えているのは妹の名前だけ。そもそも私の名前などどうでもいい、そんなことより妹が!私の妹が!わたし――
「――馬鹿かお前は!!」
これで三度目となる怒声と、それすらかき消すような机を叩く派手な音とが左の奥手から響いてくる。
そして荒々しい足音と共に、その怒号の主が私の目の前に現れた。
華奢で小柄な館長とは対照的な、大柄で褐色の巨女。その2m近いのではないかという巨躯の女性が、腕を組んで私の前に仁王立ちとなる。
長い黒髪を無造作に後ろで束ね、町工場辺りのツナギのような作業服に身を包んだ彼女は、既に悪印象を覚えた私からすれば鬼女か雌ゴリラかという程の風格を備えていた。
その雌ゴリラが眉間に皺を寄せたまま、私の顔を無遠慮に睨め付ける。
「二度は言わんぞ、六型」
褐色の長い指が、巨女自らが先程まで居た奥の一角を指し示す。そこには昔さながらのワークステーションを思わせるこじんまりとした端末とモニタの様な物が据え付けられていた。
「発声機能の無いお前の為に、お前が話す言葉があそこの画面に表示されるようにしてある。訳の分からんことを喚き立てられると、肝心なことが読み取れん」
有無を言わさぬその物言いは、怒声ではないだけに逆に迫力があった。融通の一切利かない風紀委員長を相手にしているようなものだと云えば理解してもらえるだろうか。
私もそういうテンプレめいた存在は創作物でしか見たことは無いけれど。
戯言は兎も角として注視した結果、やはり巨女の発する声と唇の動きも一致していないことを私は確認した。
間違いなく私の耳に――脳裏という方が適切か――声が届く前に、何者かによる“翻訳”が行われている。
それは私の中のもう一人の私――声無き声による翻訳であると考えるのが妥当であろう。
(ありがたいと思うべきか……)
何れにせよ、言葉を発する事のできないこの躰である。結果として互いに無言で睨み合う形となった私と雌ゴリラ――一応彼女の名誉の為に付け加えておくと、鍛えていることは明らかだが筋肉ダルマという程ではない――の間に、館長がまあまあとばかりに割って入る。
「そんな訳だから、貴方も落ち着いてまずは私の質問に答えて欲しいの。色々聞きたいこともあると思うけど、必ず後でちゃんと聞くから、ね?」
館長の申し出に、私に異存の有る筈もなかった。兎にも角にも、何を成すにしてもあらゆる情報が圧倒的に不足しているのが現実であった。
(ふた…)
この何処とも知れぬ場所で妹を探す為ならば、私はどんなことだろうと甘んじて受けてみせる。例えそれがどんなに唾棄すべきことであったとしても。
例えそれがどんなに恥ずべき事であったとしても。
故にいくら素性が知れぬとも、今は目の前の二人の女性に縋るしかない。
とはいえ、明らかに“人間”とは異なる両者に無条件に全てを委ねる訳にもいかなかった。自衛の為に無駄を承知で、自分の中の声無き声に二人の事を問うてみる。
すぐに返ってきた“応え”には一切の有用な情報は付記されておらず、ただ“館長”と“瞳”というシンプルな見出しが名前として表示されるのみであった。
(……名前?)
何がどうとも云えぬ微妙な違和感。胸中に不意に湧き上るそれを、私は拭い去ることができなかった。
「それじゃあ、改めて始めましょうか」
私の思考を遮る形で、館長がおもむろに私を促した。




