祈桜(16)
私の傍にスィと立った所長が、小首を傾げ私に尋ねる。あくまでも控えめに、あくまでも穏やかに。だがその黒い瞳には、隠しようのない好奇の色が見て取れた。
「ヴ……」
この女性が何を目的に相撲を取らせたのか、私には分からない。そもそもこの人が何者なのかを私は知らない。相も変わらず脳内の声なき声は、彼女に対する情報を一片たりとも返しはしない。
ただ一つだけ確かなことは、彼女が――様々な細かい疑念はあるとしても――日本人であろうということだけであった。
(“日本人”――私の同郷……)
迂闊であるとは分かっていても、それでもわたしは嬉しかった。浮遊城塞オーファスにおける日々の暮らしの中で、幾度も私の目の前に現れる日本人の足跡。私の心をかき乱すその先達が何者なのかという疑問が氷解したのも勿論だが、それ以上に同郷の者の存在が嬉しかった。純粋に。
二度と故郷へ戻る事の叶わぬ、この蟻地獄にも似た閉じた世界の予期せぬ邂逅が。
(だが……)
私が一方的に抱いた親近感の結果がこれである。何故かは知らねど、望まぬ相手に対し望まぬ相撲を取らされている。
その挙句が劣勢である。
所長が悪い訳では無いのだろう。水田や桜の樹を目の当たりにしたことで私の内に芽生えた望郷の念が、同郷である所長に対し根拠の無い過度な期待を抱かせたのだろう。
だがそれはそれとして、私は――勝手に芽生えたとは云え――己の失意と憤りの念を胸の内で完全に抑え込む事ができる程できた人間ではなかった。
赦しなさいという、母の声が聴こえた気がした。
幻聴だと、私は己自身を叱咤する。
常日頃から私は感情を抑えるように心掛けてきた。それがサムライとしての生き様だと信じて生きてきた。
それ故に、私はいざ己が内に憤怒の情が湧きあがったこの時に、その黒い焔を制する手段を知らなかった。
或いは妹がこの場にいたならば、何かしら取り繕ってくれたのかもしれない。
幻覚だと、もう一度私は胸中で頭を振った。
確かに肌に感じた妹の哀しみ。それは己の拙い願望が生んだ幻なのだと、私はその気配を振りほどき高々と吠えた。
「ヴヴヴヴ!!」
単眼に赤い光を――己が視界をも真紅に染める“否定”の輝きで充たしながら、私はバロウルの貌を再び睨め付けた。私の湧き上がる怒りをぶつけることのできる、唯一の対象を。
シロとクロから流れ出る琴のしらべに乗って、彼方の丘より流れ来る一片の桜の花弁。その儚い欠片を赤い視界の中に融かしながら。
私は右肩から伸びる三条の“紐”を振り上げると、脅しの意味を込めて鞭のようにしならせ土俵の上を叩いた。発声機能こそ無いものの、己自身を鼓舞する為に胸中で敢えて苛烈な啖呵を切る。
(この“鞭”で、女として生まれて来たことを後悔させてやる!)
空を裂く鋭い音と、次いで響いた土俵を穿つかのようなバシンという大きな音がシロとクロの琴の音をも掻き消した。例え如何にバロウルの燐光を放つ腕が私の四肢の接続を強制解除する致命的な効力を持とうとも、この鞭打によるリーチの差で近寄る事も叶わぬ筈であった。
(勝った……!)
勝利を確信し下品にもほくそ笑む私の横で、不意に所長が軍配を上げた。
勢いも鋭く、高々とした宣言と共に。
「――バロウル!」
それが何を意味するのか、私は咄嗟には判別できなかった。
一拍置いて上がるナナムゥの歓声。それに被さるように、琴に代わって太鼓の音が響き渡る。
「――ヴ?」
私は所長の顔を見、そしてもう一度所長の顔を見た。
「――ヴ!?」
「今、腕を土俵に付けたでしょう?」
軍配で扇子の様に口元を隠しながら、涼しい貌で所長が決着を告げる。黒い瞳がクリクリとまるで悪戯っ子の様に、土俵を打ったままの状態である私の“紐”と、明滅する私の単眼との間を行き来する。
「まだだ!」
想定外の成り行きに呆然として抗議することすら忘れた私の代わりと云わんばかりに、不意に鋭い声が上がる。
その声は意外なことに、バロウルから発せられたものであった。
「こんな半端な決着など、私の方から願い下げだ!」
「あらあら」
所長は口元を覆っていた軍配を、おそるおそるといった感じで目元まで上げた。まるで仮面でも付けたかのように、所長の顔全体が軍配で隠れる。
にも関わらず、横から盗み見た所長の口元が僅かにほころんでいるかのように視えたのは気のせいか。
だが身も蓋も無い言い方をすると、今の私にとって所長が何を企んでいようが些細な事であった。それよりもバロウルの大上段な物言いに――大怪我をせぬよう今までこちらが加減してやっている事にすら気付かぬ尊大な物言いに、カチンと来たというのが正直なところである。
普段の私であれば、何をやっても鼻に付く負のスパイラルであるが故にここで踏みとどまっていただろう。己を殺すのはいつもの事である。
だが今は、今だけは違った。何故ここまでバロウルに対して苛立ちを覚えてしまうのか、既に自分でも分からなくなっていた。
(落ち着け!)
私は胸中で一旦息を吐くと、まずは所長を巻き込まないことに留意した。
問題は無い、そう現況を把握すると同時に私は所長へと向けていた頭部をバロウルの方へと戻した。そしてバロウルが再び身構えるよりも早く、左肩の“紐”を鞭のようバロウルの頭上から肩口目掛けて振り下ろした。
敢えて大仰な動きで振りかぶり、敢えて見せつけるかのようにゆっくりと。
「はん!」
鼻息も荒く、最小限の左右の動きでそれを避けるバロウル。何よりも怒りの感情と、そして判定とはいえ相撲では勝利したという事実が逆に災いしたのであろう、私の躰を整備する身でありながら、バロウルは試製六型の特殊能力を明らかに失念していた。
(かかった!)
胸中でニタリと吐き捨てた時には、私は既に己の視界に遅延をかけていた。空いている右腕の“紐”を、コマ送りのようにゆっくりと避けるバロウルの足元を払うかのように軽く横に薙ぐ。
「んなっ!?」
意外と可愛い悲鳴をあげて、バロウルが腕をバタバタと振り回しながら、もんどりうって尻から落ちる。その体勢のままゴロゴロと勢い良く土俵の外にまで転がり出たのは、私にとっては予想外に胸のすくものであった。
大人気ないと私を嗜める者もいるだろう。でも、わたしの知ったことじゃない。
意趣返しとばかりに、私はパシンと挑発の意味を込めて再び土俵の上を“紐”で叩いた。
待ってやるから上がって来いと。
自分でも歯止めが効かない程度に調子に乗っていることは自覚していた。加減を知らぬ子供めいた愚かな行為であることも。
感情の昂ぶりのあまり童心に帰った、というのは言い訳以外の何ものでもないだろう。
だが、普段では決してやらないであろうこのような狼藉によって自分の中の何かが――心の奥底に淀んだ正視に耐えぬ何かが――抜け出て滴り落ちていく、そのような不思議な感覚があったのも事実である。
決して嫌な感じではなかった。この心地良ささえ感じる流れに、このまま身を委ねてしまっても良いとすら思った。理性を忘れて。
土俵の下から薄笑いを顔に貼り付けたべたバロウルが、ユラリと立ち上がって来るまでは。その両手に凶器を――先程切り離した私の片腕を、棍棒の様に構えて土俵上ににじり寄って来るまでは。
うわっと云う、引き気味の所長の呟きが聴こえた。既に軍配が上がった以上、ここから先の私闘に行司に出来ることは何も無い。
(毒食わば皿までか)
私は所長を庇うように、バロウルに対して一歩踏み出た。試合としての相撲の取組が済んだ今、土俵に立っているのは力士ではなく両腕が“鞭”と化した石の巨人と、鈍器を携えた雌ゴリラの両者だけ。
それは正に闘技場の見世物としか形容のしようのない異形の取り合わせであった。
私が後ろ手に土俵から下がるように指し示すよりも早く、所長は土俵脇で事の成り行きを見守っているナナムゥ達の方へと駆け寄った。
「二人とも、そろそろ館に戻りなさい」
「何でじゃ?」
当然の様に抗議の声を上げるナナムゥに対し、癖なのだろうか、所長は再び手にした軍配で口元を隠すと、悪戯っ子めいた口調で応えた。
「ここから先は、子供が見るものではありません」
束の間の静寂。私は単眼でチラリとバロウルの姿を盗み見たが、雌ゴリアは塑像の様にその動きを止めていた。
おそらくは所長がナナムゥ達をこの場から退去させるまで待っているつもりなのだろう。私と同じ様に。
決着を付けるのはそれからだと。
「私は子供ではありません!」
意外にも反論の口火を切ったのはナナムゥではなく、その隣にいたメイドのミィアーの方であった。
慌てて、そうじゃそうじゃと相槌を打つナナムゥは置くとしても、所長とメイドの主従の間では『コルテラーナの出迎えの準備』や『シノバイドの名に懸けて』などの単語が飛び交うのが聴こえた。
ワーワーギャーギャーと騒ぐ幼女と少女が、クロに両脇で抱えられて元来た館の方に強制的に運ばれるまではしばしの時間を要した。
「……」
「……」
騒々しい一団が去った事を見届けると、私とバロウルはどちらからともなく顔を見合わせ互いに頷き、土俵の上で再び対峙した。おかしな話ではあるが、以心伝心といっても良い程に互いが理解できていた。故に、開始の掛け声も不要であった。
「まったくあの娘達ときたら……」
ようやく落ち着いたのか、ナナムゥ達を途中まで見送った所長が土俵上の私達へと嘆息しながら戻って来た。
だがこの時既に私の方は、所長に言葉を返すどころの騒ぎではなかった。捨て身のバロウルのタックルによって、例の燐光を放つ右腕に触れられた左脚の接続を解除され、半ばくずおれ片膝を付く状態になっていたためである。
(結局、こうなるか……)
幾ら己自身を鼓舞し、幾ら強い雄叫びを上げてみようとも私はバロウルを本気で撲つ事が出来なかった。
仕方のない事だと、私は思う。くずおれた躰の体勢を立て直す為、両肩の“紐”を頭上の屋根の梁に捲きつけながら私は思う。
最初に激怒した時ならば、それでも剥き出しの感情のままにバロウルに痛打を見舞う事も出来たのかもしれない。
だが、もう無理だった。
これまで毅然としていたバロウルが、己の苛立ちも、まして瞳の涙すら隠すことなく私へと掴みかかってくるのならば、やはり私にも非はあるのだろう。少なくとも他者に涙を流させるのは私の本意ではなかった。
梁からぶら下がる私の躰は、後ろ手に縛られ吊るされた罪人か、或いはサンドバッグそのものと言っても過言では無いだろう。
「キャリバー」
流石に土俵の上には上がらずに、どこから取り出したのかレジャーシートの上に横座りとなって私達を見守っていた所長が、不意に私の名を呼んだ。
「サムライとして、恥じる事のない立ち振る舞いを期待します」
改まった口調の所長に対し、私はただ単眼に青い光を灯しそれに応えた。バロウルの殴打をこの胸に浴びながら。
そこから先、陽が落ちるまでの一連の経緯はとてもお見せできるようなものではない。相撲どころか取っ組み合い掴み合いの喧嘩にも達していないグダグダの極みとしか言いようのないものであった。
子供が見るものではないという所長の言葉は正に――悪い意味で――的を得たものであったし、座していたとは云え所長自身も良く最後まで付き合ってくれたものだとも思う。
「……なぜやり返さない?」
棍棒代わりにしていた私の碗部を投げ捨て、遂にバロウルが土俵の上にへたり込みながら呪詛にも似た呟きを放つ。地の底から響くような、涙混じりの声で。
つい今しがたまでサンドバック状態の私を駄々っ子のように打ち付けていた時の鬼女の様な相は薄れ、今は逆に死人の様に打ち沈んだ貌をしていた。
バロウルの肌が褐色ではなかったら、おそらくは顔色もまた血の気の失せた屍同然であったに違いない。
「やり返せ…そうすれば私も……」
“否定”の意味を示す赤い光で単眼を充たし、バロウルの懇願をきっぱりと拒絶することも出来ただろう。だが、私はそうはしなかった。そうする気にもなれなかった。
女性を泣かせた時点で、私にとっては負けなのだ。馬鹿な事をとわたしは思う。だが仕方のないことであった。
知恵も無く、力も無く、勇気も無く、何も無く――だからこそせめて『サムライ』として魂だけは人並みでいたかった。
赦しなさいという母の声を、もう一度聴いた気がした。
「……」
バロウルには私に秘めた何らかの隠し事がある。それは間違いない。
それ故に私はバロウルを敵と断じ、バロウルもまた私への敵意を隠そうともしなかった。
一言の弁明も、一言の疑念を口にすることなく。それは私も同じだった。
(同じか……)
浮遊城塞オーファスにおいて、私とバロウルは寝食以外を共にしていると言ってもいい状態であった。その日々の中で、バロウルは常に必要以上を喋ることはなかった。
それは私に対してだけではなく、誰に対してでもそう見えた。そこに私はバロウルに自分と近しい者として共感を覚えたのは確かである。
(『赦す』か――違うな……)
だから、私は待とうと思った。嗚咽するバロウルを見やりながら。
『赦そう』ではなく『待とう』と。
いつの日か、私が知るべき時が来る日まで。
然るべき時が訪れたならば、秘め事を明らかにしてくれるだろうと私は確信していた。
バロウルも、そしてもう一人、コルテラーナも。
更新が遅くなり大変申し訳ありません。第三章も次回で終了となる予定です。
実ところ、今回の更新が大幅に遅れる旨を「あらすじ」文頭に追記していたつもりだったのですが、どうやら「更新」ボタンを押していなかったことに先程気付きました。重ねてお詫び申し上げます。
ここから先は酩酊したおっさんの愚痴と弁解と自己弁護が始まりますのでお戻りいただいて構いません。
数ヶ月前に労働環境が大きく変わりまして、それ自体は落ち着いたのですが執筆に割ける時間がそこそこ削られてしまいました。
更新がズルズルと遅れている大きな原因はそれなのですが、実のところ筆が止まっていた原因は他にあります。
若い頃に捨てた筆を久々に取るにあたり、今作は「自分の書きたい物を書く」ことを念頭に置いておりました。実際、最底辺と言って良いpt数--実はブクマやptいただけただけでも有り難いことのようですが--を目の当たりにしますと、別に自作を公開する必要もないのではないか、そもそも本当に「自分が書きたい物を書く」だけなのに公開しているのは結局己の承認欲求を満たしたいだけなのではないのか、そうではないと口では言いつつも。恥知らずにも程があるのではないか。
などと憂悶している内にまったく書けなくなったというのが、恥を忍んで告白しますが、正直なところです。
それこそ、胸の内に収めておけ、ここに書くなとお叱りを受けるでしょうが、そこは文字として吐き出すことで少しでも憂さを晴らしたかったおっさんの弱さ惨めさだと目を瞑っていただければ幸いです。
「あらすじ」にありますようこれから主人公である「キャリバー」の「苦難に満ちた第二の生」が始まります。今はまだその前フリで落とす前に持ち上げているところですが、ほくそえんでその瞬間を待つ自分が受けた報いなのでしょう。
今はただ、這うような動きでも書き進めるしかないなと。筆の速い方々が羨ましいです。本当に。




