帰道(21)
撃ち貫いた手応えはあったが、一撃必殺には及ばなかったことをモガミは知った。急所を僅かに逸れた為である。
その理由は、暗闇で目標が定まらなかったせいなどではない。これまでクロウの装甲で護られていた麻痺毒が、剥き出しの彼の肉体を蝕み照準が僅かに揺らいだ為である。
だが、生身を晒すという選択をした時点で、そこまではモガミの想定の内ではあった。彼の握る小銃は月銀鋼製のレールガンである。一撃必殺ではなかったとは云え、その殺傷能力の前にイグラッフも無事では済まないという算段であった。高所からの落下の衝撃により致命傷に達し得る、その目論見であったのだ。
だが落下したにも関わらず、イグラッフは即死を免れていた。咄嗟に空気を緩衝材にしたことによるものであったが、流石にそこまでの想定はモガミにも無理な話である。
事前にガッハシュートから主だった“守衛”の“力”の聞き取りを行ってさえいれば防げたというのも選択肢としては最初から外してあった。そこまでの詳細な情報をガッハシュートが伝授したとコルテラーナに知られた場合――知見が共有される以上、それは必然である――警戒され、所長の方に守衛達を引き付けるという目的が果たされなくなる可能性が高かった。不利を承知で、モガミとガッハシュートは敢えてそうしなかったのである。
いずれにせよ、誤算には違いない。イグッラフではなくモガミが致命傷を負うと云う誤算が。
「ああああぁっ!」
「!」
金切り声と共に、渾身の空気の針をイグラッフは撃ち出す。棒立ちのモガミに対し、自分が撃たれたのと同じ腹部を狙ったのは、それが単なる激昂ではなく必殺への確かな執念の証であった。
「!」
空気による不可視の針。もしも音を吸収する先程真までの領域を展開したままであったならば、モガミは対応することができなかったかもしれない。だが空気を切り裂く音にモガミの忍者として研鑽を重ねた身体が反射的に動き、上体を逸らし躱した。
払った代償も大きい。直後にモガミの瞳が大きく見開かれ、口から激しく吐血する。
「がっ!?」
濁るモガミの視界の先にイグラッフの“旗”の顕現である“蝶”の姿が浮かぶ。イグラッフの頭上にたゆたう蝶の羽根から撒かれる鱗粉は、先程までの毒々しい紫色からどす黒い死を思わせる色に変じていた。
麻痺毒が致死毒に変じた、その証であることは間違いなかった。
朦朧とし始める意識の中で、しかしモガミの決断は早かった。ダラリと垂れていた右腕が小銃を構え直そうと僅かに動く。
だが所詮は儚い抵抗であったのか。今度は“針”ではなく固められた空気の“槌”がすかさずモガミの手を激しく打ち、小銃が――忍者である彼にとっての最後の武器が――彼の手の内から後方に大きく弾き飛ばされる。
同じく空気を固めた台座に縋りヨロヨロと立ち上がりつつ、イグラッフは鬼気迫る笑みを改めて満面に浮かべた。
「お前はもうお終いよ」
「……」
「私の毒でもがき苦しんで死ね!」
イグラッフの頭部と“蝶”との間の空間に更なる追撃の為の空気の戦斧が、空気の穂槍が、空気の大槌が、次々とその形を整え始める。依然として空気を固めた実体は不可視であったが、“蝶”の撒く毒鱗粉により、その輪郭が禍々しく浮かび上がる。
空気の凶器を揃えたところで、イグラッフの禍々しい笑みがスンと消え失せる。
「――腐り落ちるのを見届けるつもりだったけど、気が変わった」
「……」
「コルテラーナの指示なんてもうどうでもいい! お前が護ろうとしたものも全部、私の毒で惨たらしく殺してやる!」
「――!」
言ってはならぬ事をイグラッフは口にした。モガミの指先がピクリと反応する。
もとより、モガミが小銃を為す術も無く手の内から放したのはイグラッフの隙を誘う意図があった。毒により既に銃で狙いを定めることができる状況では無かったからである。
押さえ込んでいたバネが弾けるように、突如としてモガミが地を蹴り駆ける。ただひたすら前方に――イグラッフに向かってロケットのように。
それは傍から見れば滑稽ですらある光景だっただろう。駆け出す初速こそ目覚ましいものがあったがそれでも毒の影響か、普段のモガミからは信じられない程にその走りはヨタヨタとしたものであった。素手なこともあり、単にイグラッフに体当たりするだけで精一杯としか見えない惨状であった。
「無様無様っ!」
単純な動きである分、迎撃も容易であった。同じく瀕死ではあるイグラッフが金切り声と共に空気の穂槍を投げつけるが、毒の鱗粉で可視化されたその兇刃をモガミが身をよじって躱す。
槍は駄目と見たイグラッフは、今度は長い空気の刃をモガミの脇腹目掛けて真横に薙ぎ払った。
必殺の一撃。
モガミの胴体が一刀両断され、上半身と下半身が真っ二つに生き別れる。確かに直撃したからには、そうなることが必須の切れ味を誇る空気の刃である。臓物が捲き散らされ、イグラッフが狂ったように高笑いを上げる、その筈であった。
「――!?」
違和感にイグラッフが気付いた時にはもう遅かった。脇腹に必殺の一撃を確かに食らったモガミであったが、胴体が生き別れになることもなくそのまま彼女に真正面からぶつかった。
「――葦名忍法“金剛胴”」
その呟きが、はたしてイグラッフの耳に届いたかどうか。
種明かしとしては単純である。始めから鎖帷子をモガミは忍び装束の下に着込んでいた。彼の元居た世界で精製された月銀鋼製の合成鋼繊維を用いた屈指の柔軟性と強度を両立させた防具であり、同じく月銀鋼製の小銃と並んで彼の“奥の手”となる装備である。
モガミがそれを揃って持ち出したと云うことは、文字通り『必殺』を意味していた。存在を秘匿してこその“奥の手”である。それは相対する『敵』を生かして帰さぬということでもあった。
だが如何にそのような強固な防具で護られていたとは言っても、モガミの攻勢は明らかに性急であった。稚拙と言ってもよい。
それも道理、彼には今ここで早急に決着を付ける必要があった。
皆殺しにしてやるとイグラッフは吠えた。虚仮威しではあるまいと、モガミは瀕死の意識で断ずる。“風”を操る“力”――それはイグラッフの詐称ではあったが、風を操ることができること自体は真実である――、そして“蝶”の撒く致死毒となればその狙いは明らかであった。
“風”に乗せて周囲に致死毒を散布されれば間違いなく所長が死ぬ。そればかりかその隣に侍するバロウルも、周囲で奮戦を続けている配下のシノバイド達も、一人残らず死ぬ。
モガミが武器も持たずにイグラッフに組み付いたのは、精一杯の最期の抵抗にしか思えなかった。少なくともイグラッフ自身はそう判断し、鼻で笑った。
しかし、モガミは最期の意地を示す為だけに無謀な突撃を敢行した訳ではない。忍者である以上、断じて有り得ない。
(お赦しを……!)
モガミは胸中で主君に詫びた。
彼も又、配下のシノバイド達と同じく鎖帷子の下に自爆用の爆薬を装備していた。ただ仕様として配下の爆薬とは異なる点が一つだけあった。特別に、遠隔操作による起爆が可能となっていたのである。
伊達や酔狂でそうした訳ではない。今回の作戦で司令塔を務めるモガミは安易に自爆を決行できる立場ではない。逆に言えば、彼が自爆を選択するまで追い込まれるということは、自力での起爆すら不可能な壊滅的状況であることが予測された。
致死毒に犯され、イグラッフに力無く抱き付くしかない正に今この刻のように。
「――カグツチ!」
イグラッフに振り解かれる直前にモガミが叫ぶ。
それこそが幾通りか用意していた起爆の合図の内の一つ――すなわちクロウに対し彼の自爆装置を遠隔で起爆するように命じる号令であった。
クロウの双眸が赤く点灯する。それは起爆の指示が受理された証であった。
(妙子様……)
最期に脳裏に浮かんだのは、妻であるティラムとヴァラムの姉妹ではなく、主君である所長の貌であった。
己の外衆ぶりに自嘲しつつ、モガミの意識はそこで途絶えた。
*
閉じた世界の中心部にドーム状にそびえる暗黒の不可侵領域。その只中に今、試製六型機兵キャリバーの姿はあった。
この突入時の為に換装された専用の脚部の踵には車輪が備えられており、今のキャリバーはそれによって滑走を続けていた。足下に伸びる白い路に沿って、後はひたすら中心部に向けて滑走を続けるだけ、その筈であった。
“ロールロード”と云う名のその白い路は、長い年月をかけてコルテラーナとガッハシュートが敷設したものであり、何よりもその末端はキャリバー自身が運び込んだものでもある。真っ直ぐに伸びるロールロードの敷設作業の為に“黒い棺の丘”に乗り込んだのが、もう随分と昔のことのように思えた。
(大丈夫、お兄ちゃん……?)
妹の心配げな思念が兄へと流れ込んでくる。
それも無理はあるまいと、兄は自嘲した。
“炎の舌”の――すなわち『龍』に恵んで貰った“力”は絶大であった。コルテラーナが遣わした“守衛”達すら一蹴するだけの戦闘能力を兄妹達にもたらしてくれた。
もし、カカトを含む三人の守衛がその場に屍体を残したならば兄の、そして妹の心的衝撃はかなりのものとなっていただろう。だが斃された守衛の体は文字通り塵芥と化して痕跡すら残さずに風に吹かれて散った。
兄妹に残されたのは強い無常観のみである。しかし“殺人”という禁忌を犯したことへの罪悪感が薄れたのは事実である。
妹が心配しているのは、しかしそのことだけではなかった。
激しい睡魔に襲われている時のように、兄の自我は非情に危うい状態にあった。気を抜くと途絶えそうになる意識を、“黒い棺の丘”に突入した緊張で相殺している、そのような状況にあった。
意識を保つ為にはその程度で済んでいるとも言えた。少なくとも、今はまだ。
妹の方にはそれは無い。おそらくはこれまでの試製六型機兵の主人格が兄の方であった為に、その分魂魄の消耗に差が生じたのではないかと兄は推測する。その真偽の程はガル=
アルスが去った今確かめようも無く、意識の存続が危うい兄に対する妹の心配だけが現実として残った。
「……」
不安を押し殺し、無言のままロールロードを進む二人。心中で怖れだけが増していく中で、そっと妹が兄の手を握る。震える兄の手を、自らもか細く震える手でありながらも優しく、そして強く。
子供の頃に兄がそうしてくれたように。
灼け爛れ、互いに癒着している半死半生の肉体で手など握れる筈もない。それは朽ちた肉体に残る魂魄の視せた、幻肢痛の類いであるのだろうと兄は理解していた。
だがそれが幻でも構わない。それが兄の偽らざる本音であった。
(――お兄ちゃん!)
隙あらば曖昧模糊に陥りかねない兄の感傷を、妹の警告の念が正気に引き戻す。
キャリバーの前に遂に露わとなるロールロードの終点。道標の終わり。
路がここで途切れる事は始めから想定していたことであり、兄にはその後の対処法が必要となることも既に念頭にあった。
試製六型機兵の右の手首から、“紐”が鞭のようにダラリと垂れ下がり、その表面に炎が奔る。
“炎の舌”――『龍』の置き土産である炎の鞭を、兄はこれまで辿って来たロールロードの道筋に平行になるように上から下に勢い良く振り下ろした。鞭から射出された炎は三日月状の刃と化し、眼前に広がる暗闇の深部に向かって真っ直ぐに奔った。
その際に、“炎の刃”の先端が地面を抉り深い条痕を残す。実際にどこまで刃が奔ったのかは、闇に呑まれて定かではないが、自らの手で新たな道標をキャリバーは刻んだのである。
(進むぞ…!)
キャリバーの兄が妹に――そして自分自身にも言い聞かせるように――そう告げると、ゆっくりと歩を進め始めた。暗闇の中に機兵の単眼の青い輝きだけが浮き出る。暗視の能力は健在であるが故に、その足取りは確かなものである。
やがて彼等の前方に、機兵達の残骸の群れが姿を現した。
平たい円系の三型機兵、脚の代わりに下半身にお椀状の推進機関を備えた改四型が主たるものである。その内のかなりの数が外部との太い通信線を尻尾の様に引き摺っていたが、その何れもが切断されていることは共通であった。
「……!」
そして、自分と同型である試製六型が擱座している姿に正面から出くわした時、流石のキャリバーの脚も止まった。
かつて、浮遊城塞オーファス地下の廃棄場で初めて目覚めた直後に、自分達を襲撃し、追い回した同型機。
かつてはこの同型機の中に、錯乱した妹の魂魄が封じ込められていると兄が誤認していた時期もある。全ては正気を保ったまま起動した試製六型を手中で都合良く扱う為のコルテラーナの方便の一つであったことも今ならば分かる。
今回の作戦に挑むに際しガッハシュートが事前に教えてくれた話によると、今は動かぬ目の前の試製六型機兵の忌動器には自分達の見知らぬ二人分の魂魄が封じられていたのだという。それが――自分と妹のように――血縁がある者同士であったのかまではガッハシュートは明かしてはくれなかったが、異なる魂魄が同衾することで錯乱し狂っていたのは確かである。
眼前の、今は完全に活動停止した機体に限らず、自分達兄妹以外の魂魄を宿した試製六型は全てが発狂し遺棄されたと聞く。
確かに追われる中で一瞬だけ意識が交錯した折りにも、狂気に蝕まれながらも救いを求める“声”を確かに聴いた。
今では同情だけがある。
キャリバーが再び歩を進める直前に一礼したのは、それが故であった。
(……いよいよだな)
キャリバーが暗闇の最深部に向けて条痕を頼りに歩みを再開してからどれだけの時間が経過したのかは定かではない。時間の経過そのものが曖昧模糊としたものに成り果て、もしもこの場に居るのが自分独りであったならば不安に押し潰されていただろう。
だが兄妹は握り合う互いの手の温もりによって正気を保ち、それが故に闇の中に靄が生じ始める異変に気付くこともできた。
身構える兄妹の前で収束を始める靄は、すぐにうっすらとした人体の輪郭の形成を始めた。
小柄な、女性の輪郭を。
それが母の似姿と化すであろうことを、既に兄妹は知っていた。これが初見であれば困惑の内に脚を止め、いたずらに戸惑うだけであっただろう。前回の邂逅時が、正にそうであったように。
母の幻影が、“彼等”による惑わしの虚像であることは既に我が身で体験していた。兄は妹の手を一際強く握ると、静かな怒りの念と共にキッと貌を上げた。連動してキャリバーの単眼が、暗黒の深淵を貫く一筋の青い輝きを放つ。
紅の粒体装甲を――“黒い棺の丘”に突入して始めて兄は試製六型機兵の奥の手であるソレを発動させた。暗黒の領域から試製六型機兵の機体を、ひいてはその装甲の内側に増殖した自爆用の龍遺紅を保護する為の結界。ロールロードは既に存在しないが“炎の舌”が刻んだ条痕は健在である。兄は幻影に構わず踵部の車輪を全開に回して前方に滑走を強行した。
それは、粒体装甲の結界を用いた特攻でもあった。兄が敢えて偽りの“母”目掛けて突撃したのは、『一たび去りて復た還らず』と云う不退転の決意の表明でもあった。
己の心の脆弱さを強引に誤魔化したと言っても過言では無い。
粒体装甲の紅い結界が真正面から衝突したことで、“母”の虚像が惑わしの囁きを一言も発する間も無く四散する。
しかし事態が好転したとは言い難い。靄そのものはキャリバーの周囲に依然として未練がましく纏わり付き、特にその頭部を覆った。
無論、粒体装甲の結界で護られている以上、靄が直接機体に接触するまではいかない。しかし単眼の視界を乱す効果は充分に発揮された。
(目眩ましのつもりか!)
苛立たしげに兄が胸中で叫ぶ。
『龍』に与えられた炎の“力”。それが粒体装甲の結界の表面を波のように走り、纏わり付く靄そのものを焼き尽くす。
視界は晴れたが、今度は機体の突撃を阻む新たな感触が彼等兄妹を間髪置かずに襲った。まるで行く手にぶ厚い水の壁が立ち塞がっているような、おびただしい圧力。機体の周囲を丸く囲む粒体装甲の結界が圧迫され、ひしゃげ始める。
奮闘虚しく後方に押し返されているだけではないのかと錯覚するまでの凄まじい抵抗に、兄は己の意識が途切れないように必死に抗うだけで精一杯になりつつあった。いくら粒体装甲の結界と云えども果たしてこの――おそらくは最後の――障害を突破するだけの余力が残されているのか、兄の心に負の疑念が生じ始めた時、妹の強い一念が彼の心を打った。
(もうっ!)
妹の――子供のような――憤怒の叫びと共に『龍』の残した“力”が全身から激しく燃え立つ。その“炎”はあくまで妹のイメージが具現化したものでしかないが、それでも周囲の“圧”を溶かし穴を穿った。
機兵の踵の車輪が回り、妹が力任せに機体を直進させる。行く手を遮る圧力は明らかに弱まりはしたが、抵抗自体は確かに残っており、その前進は容易ではなかった。
だが、その障害が、不意に失せた。
とは云え、それはこれまでと同じ悠久の闇の中にキャリバーを引き戻すことを意味してはいなかった。
晴れる機兵の視界。それは闇とは真逆の、むしろ眩い光景ですらあった。
残りあと三更新程度ですかね