帰道(20)
*
“黒い棺の丘”――それは“彼等”によって造られたこの閉じた世界の中心に位置する不可侵の魔境。
その遙か高所に陣取るコルテラーナも、決して無防備に台座に座していた訳ではない。この世界の住人を殲滅する為の“雨”を降らす“台座”――それを守護する為に、なにがしかの飛行能力を有する“守衛”達を周辺に配備はしていた。既にこの世界より去ったとは云え、それだけ真紅の龍に対するコルテラーナの畏怖が強かったということでもある。杞憂に過ぎないことは彼女自身にも自覚はあったのだとしても。
だが、その『龍』が残した龍遺紅の驚異的な推進力は、実際にコルテラーナの杞憂を凌駕していたのである。
紅く眩い煌めきをその場に居た者が目視できたのはほんの一瞬であった。滞空し警戒状態であった守衛達が見間違いかと自問した時にはもう手遅れであった。それ以上反応する猶予を与えずに、その身を文字通り弾丸と化したガッハシュートが台座の底に激突する。
単なる体当たりに過ぎないその一撃によって、しかし台座は呆気なく真っ二つに割れた。
「――っ!?」
コルテラーナが為す術なくここまで追い込まれたのは、ガッハシュートの飛行速度がここまで苛烈なものだと予期していなかったことも無論ある。同じサリアが夢見た不滅の存在同士、相争ったところで決着の付かない不毛な行為だという諦観が前提としてあったこともある。世界を滅ぼし再生する行為はこれまで幾度となく繰り返し行ってきており、ガッハシュートと意見を違えたことも数え切れないほどあるのだから。
いずれにせよ、衝撃で台座から投げ出され落下する筈のコルテラーナの体は、そうはならずに今はガッハシュートの眼前にあった。
空中である。しかもどちらかが手を伸ばしさえすれば抱き合うことも可能なまでの眼と鼻の先。それが実際には不可能であったのは、コルテラーナの全身を覆う“力場”にガッハシュートの指先が阻まれたからである。
本来はこの世を滅ぼす降雨の滴よりコルテラーナ自身を護る為の“力場”であったのだが、それが龍遺紅の灼熱の余波から彼女を保護する盾となった。その作用によりちょうど磁石の同極同士であるかの如く、コルテラーナの体がガッハシュートによってそのまま押し出される形となる。
「停止紋言は使わせない!」
コルテラーナの眼前にはガッハシュートの端正な貌がある。その貌が常に煌めきで満たされているのは、夢見るサリアの“愛”が故であろう。だが麗しのガッハシュートの口から発せられた言葉には、彼女に対する慕情の一欠片も含まれてはいない冷酷なものであった。
停止紋言――コルテラーナとガッハシュート、そしてバロウルのみが知る試製六型機兵を完全に停止させ四肢の結合すら胴体から解除する事が可能な『セイレーヌ・ザウハー』なる紋言を指す言葉である。
元々は内包した魂魄が狂気に蝕まれ暴走することが常であった試製六型機兵を鎮圧することを目的とした仕掛けであり、コバル公国の捕囚となった際にバロウルが実際に紋言を用いた前例もある。
コバル公国の時とは異なり、その後の『龍』の干渉によりおびただしい変貌を遂げた今の試製六型機兵に果たしてその紋言が依然として有効なのかという疑念は付き纏う。しかし“黒い棺の丘”中心部でのキャリバーの自爆が計画の要である以上、コルテラーナによる停止紋言の詠唱を封じ万全を期する必要があったのだ。
台座を破砕した程度で龍遺紅の推力が衰えるようなことは無く、その勢いのままにガッハシュートとコルテラーナの両者はこの世界の天頂にすぐに達した。それは両者の体が遂に世界を密封する不可視の“壁”に直接接触したことを意味していた。
そのまま自分諸共コルテラーナが“壁”に挟まれ砕け散ればガッハシュートにとっても楽な展開であっただろう。邪魔する者が――例え幾ばくかの刻を経て揃って再誕する間でしかないにせよ――いなくなるからだ。
だが実際はそうとはならず、それもガッハシュートにとっては――付け加えればコルテラーナにとっても――予想の範疇ではあった。
この閉じた世界を取り囲む“壁”は、強固ではあったが物理的に硬いという訳ではない。むしろ逆に柔軟性を有しており、その意味では“膜”と呼ぶ方が実体に近いのかもしれなかった。
これまでサリアの夢見る数多の世界における数多の人々によって、世界を囲う“壁”を破壊する試みは数え切れない程に試みられてきた。如何なる爆発物も、如何なる破砕槌も、如何なる斬撃すらもこの“壁”を破壊することは適わなかった。“壁”の持つ柔軟性により、破壊力が散らされてしまうこともその一因であった。
今、龍遺紅の突進に対しても“壁”は破壊されることなく風船の膜を押すように衝撃を散らした。
コルテラーナを“壁”に押し付けたまま、ガッハシュートは龍遺紅の推進力を緩めなかった。
無言のまま、まるでここだけが刻の止まった空間であるが如くに。
*
頭上に奔る真紅の流れ星の軌跡を、モガミは視線の片隅に抜け目なく捉えた。
(待ちかねた!)
依然として香天花イグラッフと互いに牽制し合う状況である。感慨に耽る余裕は流石のモガミにも無い。
果たしてミィアーは予め言い含めていた通りに、キャリバーの介添人として滞りなく“黒い棺の丘”に共に突入できたのだろうか。唯その懸念だけがモガミの脳裏を一瞬よぎる。
「――!」
ピクリとモガミの片眉が極僅かに動いた理由は二つある。一つは周囲を取り巻く雰囲気の変化を敏感に感じ取ったこと、そしてもう一つは対峙するイグラッフもまた己と同じ様にその変化に反応したことを見て取ったからである。
まるで潮が退くように、戦場の“圧”とも云うべき緊張が急激に薄れていっていることがモガミには肌で判った。それは論理的に言語で説明できる類のものではない。ただ忍びとしての研鑽の果てに成し得た御業であった。
“圧”とはすなわちコルテラーナが所長を捕縛する為に遣わした“守衛”達のことである。それが潮が退くように退却していくということは、彼等の主であるコルテラーナの側に異変が起こったと解釈するのが妥当だとモガミは断ずる。
加えてガッハシュートからの狼煙として流星が空に奔った。それはキャリバーが予定通り“黒い棺の丘”に突入した証左であろうとモガミは脳内で次の一手を見極める。
先程まで耳に散発的に届いていた爆発音も完全に止んだ。それは守衛諸共に自爆を決行した配下のシノバイドの断末魔そのものであったが、それに割く感傷はモガミには無い。
少なくとも、今この瞬間には。
おそらくはコルテラーナによる招集の命により守衛達は退いた。それだけが事実としてある。モガミが新たにやるべき事は守衛の副長――すなわち眼前の香天花イグラッフをこの場に釘付けにし、キャリバー達への援護とすることにある。
無論、釘付けに留まらず処しても良い。むしろこの場で処すべき対象ですらある。守衛長と司書長が揃って離反した以上、イグラッフこそが今のコルテラーナ配下の一番手なのだから。
だが、モガミはこれまで処する動きはしなかった。否、しなかったのではない、できなかったのだ。
「……」
「……」
ジリジリと、モガミとイグラッフが対峙したまま弧を描くようにゆっくりと横向きに歩を進める。
機体を“装甲服”形態へと変じたクロウを、全身を覆うように装着していたモガミであるが、その耳元に警告が流れる。
おびただしい外気汚染――クロウによる警告ではそうであった。今はその漆黒の装甲に護られて直接の影響は出ていないが、生身であれば即座に昏倒するまでの強力な麻痺毒の類であると、内部モニターには表示されていた。
「……お前は退かなくていいのか?」
モガミの口撃による牽制に、イグラッフが浮かべていた微笑が明らかな嘲笑へと変じる。 その髪が、不意のそよ風に吹かれて揺れる。
「ご親切なこと」
イグラッフはクスリと嗤い、周囲のそよ風が強まり彼女の服の裾をたなびかせる。
「貴方を殺し所長を捕らえても誤差の遅延で済むからご心配なく」
小馬鹿にした口調のイグラッフの躰がゆっくりと天へ浮遊を始める。つむじ風が極小の竜巻の如く足下で荒れ狂う。
イグラッフが飛行能力を披露するのは最初からであり、モガミが即効勝負を避けた理由の一端がそこにあった。宙を自在に舞えるということは、重い装甲服を装着することで飛翔することができなくなったモガミにとって、そこまで不利であったのだ。
イグラッフが貌の高さまで掲げた右掌の内から光の珠が浮上する。それが“旗”であることをモガミは知っていた。その光珠がたちまちの内に形状を変じる。
ミィアーの旗が守裏遣太夫に変じたように。
ナナムゥの旗が電楽器に変じたように。
ナイ=トゥ=ナイの旗が光槍に変じたように。
イグラッフの“旗”が変じた姿は“蝶”――実際はどうであれモガミから見れば蝶に酷似した蟲であった。四枚の薄羽根を広げたその横幅は人の頭部程の大きさはあったであろう。その薄羽根からはキラキラとした――そして毒々しくもある――緑色の鱗粉が振り撒かれ、イグラッフの周囲で吹きすさぶ風の中に舞っていた。
クロウが先刻から警告している外気の麻痺毒の正体がそれであった。
「私の“力”は風を操る“力”」
文字通りモガミを見下すイグラッフの宣告が、彼の頭上より響き渡る。
「お前に抗う術は無い」
(――来る!)
モガミは言い返す事でわざわざ相手に無用な情報を与えるような真似はしない。ただ、正念場が訪れたことを悟った。
イグラッフが余裕を誇示する一方で、モガミも又これまでは本気を出してはいなかった。より正確には、イグラッフ相手に奥の手を出すことは控えたままであった。
イグラッフを処することができないという認識自体は嘘ではないが、それは安易に奥の手を出す訳にはいかないと云う意味合いであった。
己が奥の手を出すまで肉薄するということは、相手も奥の手で返すという可能性でもある。
それで万が一相打ちに持ち込まれでもしたら、残る守衛から所長を護るべき者がいなくなるばかりか、作戦全体を指揮する者もいなくなる。モガミが独りで興したシノバイドという組織の構造上の欠陥である訳だが、いずれにせよ脱落する危険をモガミは犯す訳にはいかなかったのである。これまでは。
だが、状況は変わった。ガッハシュートの狼煙が上がり、キャリバーが暗黒領域に突入したことをモガミは確信した。その証として守衛達も一斉にこの場から退いた。
(であれば――!)
自分達の手の届かぬ“黒い棺の丘”最深部に戦局が移ったからには、これ以上モガミに出来ることは無い。唯一つ、奥の手をもってイグラッフをこの場で処する事以外は。
装甲服の両肩から、それぞれの先端に鈎を備えた三叉のワイヤーをまとめたユニットが射出される。左右の肩部から三組ずつの計六組。扇状にそれぞれ別の方角にユニットが射出されたと同時にクロウの踵部の車輪が回転し滑走形態に移行する。
イグラッフの虚を突く形でその浮遊する足下に滑走するモガミ。ただし流石に迎撃の容易な直線的な機動ではなく、回り込むような左右に弧を描く動きである。
だがそれでも宙に浮かぶイグラッフにとっては見え見えの挙動であった。迎撃の体勢を取るべくその軌道に目を凝らした隙に、射出された六組の三叉ユニットの各ワイヤー鈎が広がり、互いを頂点とする巨大な立方体を形成する。
一片が10m四方の領域。その内側にモガミとイグラッフ双方の姿はあった。
「!?」
不意に周囲が闇色に染まり、更に静寂がイグラッフを包む。視覚と聴覚を封じられた形であり、苦し紛れの一手としてはあまりにも強力な効果と言えた。
それがモガミの奥の手であることは疑いようもなく、そして初手からではなく今ここに至ってようやく繰り出してきたということは、モガミが勝負時だと判断した以上の意味をイグラッフは解析できていた。
初手から披露せずに今ようやく繰り出した――それはすなわちこの“闇”の持続時間がそれ程長いものではないということである。
視界を奪われ、音も奪われ、暗闇の中に独り取り残されたに等しい状況である。だが自らこのような領域を展開した以上、モガミの側には何らかの対応手段があるのだろうとイグラッフは警戒する。即座に攻撃を仕掛けてこないということは、慌てふためく“獲物”に対し一撃必殺を期して息を潜め様子を窺っているのだろうと冷静に状況を把握する。
(甘い!)
取り乱しながら――否、取り乱すフリをしながらイグラッフは声にならない嘲笑を浮かべる。
(甘い甘い甘い!!)
イグラッフが知る限り、モガミが“旗手”と成ったのはせいぜい数日前のこと。コルテラーナが夢見る最初期の“旗手”として悠久に近い過去からの存在であるイグラッフからすれば、所詮は赤子も同然である。
“旗手”は別の“旗手”の気配を感じ取ることができる。現に足下のまだいささか遠い位置に潜んでいる“旗手”の気配をイグラッフは既に敏感に感知できていた。
先程推測したとおり、既にモガミは何らかの方法でこちらの位置を捉えていると見るのが妥当だろう。彼女の行動は迅速であった。
香天花イグラッフが“旗手”としての“力”を解放する。本当の“力”を。
モガミへの牽制として、自分は“風”を操るのだとイグラッフは告げた。
偽りである。少なくとも半分は。
イグラッフが“旗”より得た真の“力”とは、空気を操る能力であった。周囲に風を吹かせ毒を撒き散らし己の体を宙に浮かべる――その全てはあくまで空気を操る“力”の応用に過ぎない。
モガミが全身に纏う黒い奇っ怪な装甲は、確かに生半可な攻撃を受け付けることのない強固な鎧であるのだろう。だが“鎧”である以上、関節を始めとした“継ぎ目”が有る。まして人が着込む形状であれば“隙間”が生じるのは尚更である。始めから攻略は成ったも同然であった。
こちらの一撃を悟らせぬ為に、イグラッフはただ両眼を大きく見開くに留めた。彼女の“力”の本領が発揮され、厚みの無い“空気の刃”が、モガミの纏うクロウの装甲服の隙間に次々と突き立った。
形状としては“刃”と云うよりもむしろ“針”に近い。一度突き立った空気の針は直ちに膨張しその口径を増し、“鎧”の内部を容赦なく穿ち、抉った。内部の人間にとってそれが致命傷であることは疑いようもなかった。
その空気の針の勢いも手伝って、クロウの体が仰け反って背中から倒れる。依然として暗闇に包まれる中、その些細な動きまではイグラッフも目視できないが、体勢を崩して倒れたことだけは朧気に判別できた。
「無様なこと」
勝利を確信し、イグラッフが鼻を鳴らす。その音は周囲に響くこともなく――それこそモガミが展開した領域の驚異的な効力である――イグラッフは不意打ちの為に無言を貫いた己の用心が過ぎたものであったことを知った。
「あははははっ!」
イグラッフの上げる高らかな哄笑。それもまた彼女の予想通りに暗黒の中に吸収され周囲に響き渡りはしない。薄気味悪い事象だと哄笑が苦笑に減じるイグラッフであったが次の瞬間、その両の瞳が驚愕に突如として大きく見開かれた。
「……がっ…あっ…あっ……?」
イグラッフが耐えきれず吐血する。
背後からの一撃だということだけは、辛うじて判った。
腹部を貫いた灼熱の一撃。矢か、槍か、魔弾の類いか。腹を押さえるイグラッフの指先には何の異物の感触も無い。
(な…何っ……!?)
依然として、“旗”の気配は間違いなく前方にある。背後ではない。
もし伏兵の類が居たのだとしても、周囲の大気は既に麻痺毒が存分に撒かれた彼女の支配領域である。隠れ潜んでいる間に毒に侵され昏倒している筈であった。
呆然とそこまで疑念を巡らしてから、イグラッフが蚊トンボの如くボトリと地に墜ちる。
それに連動した訳ではあるまいが、領域を形成していたワイヤーユニットもまた同じようにボトボトと一斉に地に墜ちる。稼動時間限界によるものであるが、内部を覆っていた“闇”も当然の如く消散し、それまで不可視であった互いの姿が再び露わとなる。
「――」
手にした小銃を降ろし、モガミが細く短い息を吐く。忍者装束のみを纏ったモガミが、イグラッフを背後から撃ち抜いた武器こそがその小銃であった。
「…お…お前っ……!」
地に転がるイグラッフが驚愕と憎悪が混ぜこぜとなった視線を彼へと向ける。“旗”の気配は今も尚モガミからは皆無であった。その一方、反対側に人形めいて転がる黒い鎧からは依然として“旗”の気配があった。
「お前ぇぇぇぇ!」
対峙した始めの時からそうであったのだと、イグラッフはようやく悟った。如何なる手段を用いたのか、単なる鎧としか認識していなかった黒い装甲服そのものが“旗手”であり、モガミ自身は只の人間であったのだ。
そのたかが人間風情が姑息にも暗闇の中で鎧を脱ぎ捨て囮とし、背後から自分に一撃を喰らわしたのだ。
卑しい人間風情が卑怯にも。
イグラッフの憶測通りである。モガミの策は“旗手”であるイグラッフを出し抜き、そして勝った。忍びとして気の遠くなるような修練を重ねた彼にとって、暗闇の中で“標的”の気配を感知し、それを撃ち貫くことは充分に可能であった。
可能となるように、鍛え上げてきたのだ。
「――」
ただ、いくらモガミとは云え誤算はあった。致命傷と成り得る誤算が。
ほんの一瞬だけモガミの上体が傾ぎ、唇の端からツと一筋の濁った血が流れる。