帰道(19)
“斬糸”――それは、ナナムゥがカカトの遺骸と“同化”することにより彼の知識と経験則を引き継いだからこそ可能となった文字通りの“奥の手”であった。
致死量と見紛う程に流れ出るナナムゥの血が“柔糸”に吸われていく。彼女の生命そのものとも言える血をタップリと吸収することにより白妙の“糸”が真っ赤に染め上げられていく。かつてのザーザートの切り札である“単分糸”の斬れ味には及ばぬとは云えそれで充分であった。
血により類い希なる硬化を果たしたナナムゥの“斬糸”が、彼女の手によってクンと引かれる。その“糸”の鋭さは、妖精機士の胸部装甲を抵抗も無くスパリと断ち割った。
ナナムゥがその気になれば、胸部装甲のみならず剥き出しとなった操縦者の肉体をも同じ様に両断できたことだろう。しかしナナムゥは血を吸っていない新たな“柔糸”を敢えて指先から射出した。
“柔糸”がナイトゥナイの体に巻き付く確かな手応えを元に、ナナムゥが残された力を振り絞りその糸を引く。既にその視力は覚束ないが故の雑な動きである。
“旗手”としてのナイトゥナイが“旗”より授かった能力は任意の物体を縮小する“力”であり、その力を自らの身体に及ぼしていた。それにより人間の懐に収まる程にまで縮んだナイトゥナイの小さな体をナナムゥが操縦席から引きずり出すこと自体は容易であった。
(――!?)
指先に伝わる奇妙な感触にナナムゥは違和感を覚える。だが一端様子を窺う余裕すらも今の瀕死のナナムゥには無かった。
空中に大きく弧を描いてナイトゥナイの体が地面に落ちる。その様は釣り上げられた魚の動きにも似ていた。
残る力を振り絞ったナナムゥの体もまた擱座した妖精機士の機体から滑り落ちる。
ナナムゥが指先に感じた違和感の正体を最初に目視できたのは、ようやくその場に駆け付けたミィアーであった。その口から、思わず――シノバイドとしては失格である――驚愕の声が漏れる。
「“ティティルゥの遺児達”!?」
ナナムゥの“糸”により操縦席から引きずり出された妖精族。かつての仲間。それは確かに四肢を備えた人の形を保っていることだけは判別できた。だがその表面には黒い“布”がウネウネと巻き付き、全身を覆い尽くしていた。その素顔さえも見えなくなる程に。
“ティティルゥの遺児達”――かつて散々苦しめられた“旗手”ザーザートの眷属をミィアーが見紛う筈も無い。その忌まわしき“黒布”がナイトゥナイの全身を包帯のように硬く覆い隠していた。
「――!?」
不穏な気配にミィアーが目線を周囲に巡らせる。ナイトゥナイ機のみならず、周囲で同様に擱座している“子機”達の関節部からも次々と黒い蛆虫のような動きで“遺児達”が姿を現す。
そういうことかと、ミィアーは改めて戦慄の念を覚える。
始めから疑念はあったのだ。幾ら『カカトの仇』という――逆恨みでしかない――認識であったとは云え、狂気と呼べるまでに錯乱しているにしてはナイトゥナイの襲撃はあまりにも的確に過ぎた。襲撃の場所は勿論、何よりもそのタイミングが。
それも“遺児達”がナイトゥナイの肉体に取り付き操っていたというのならば全てに合点がいく。
しかし、であったとしてもと、ミィアーが心の内で秘かに眉根を寄せる。その“遺児達”自身の謎が依然として残ったままである。
“ティティルゥの遺児達”とはザーザートが生み出した眷属の類いであると、ミィアーはナナムゥから聞かされていた。より正確には“ティティルゥ”という名を冠している通り、ザーザートと半同化したティティルゥの眷属ではあるが、そこまでは流石にナナムゥも把握してはいない。その様な細かい認識の差異は兎も角として、一つだけ確かな疑念があった。
ザーザートもティティルゥも、既に“龍”によってまとめて跡形も無く灼き付くされてしまった。その眷属である“遺児達”もまた例外ではなく、事実その時を境にその群体が目撃されることは無かった。何よりもミィアー自身が、ザーザートが消滅する様を直に見届けていた。
“ティティルゥの遺児達”は確かに滅びた。主であるザーザーットも無しにこの場にいる筈が無い。いて良い筈も無い。それが世の道理というものである。
(死んだモノが甦ることなど――そうか!)
ハッとミィアーはその例外に思い至る。“遺児達”と名乗りつつも遺児ではない、その理由に。
(カカトと同じように、“遺児達”も又――)
ミィアーの思索もそこまでであった。虚をつかれたとは云え反射的にミィアーは後ろに飛びずさり、彼女が直前まで居た場所に真正面から黒い奔流が降り注ぐ。
「!」
背後からの別の殺気に、ミィアーは咄嗟に手にした守裏遣太夫を横に薙ぎ払った。
シノバイドとして洗練された無駄の無い動き。だがミィアーの貌に驚愕の念が浮かんだのは、確かに刃を突き立てた筈の“殺気”への手応えが皆無に近かった為である。
それは水を斬った感触に似ていた。守裏遣太夫の刃を境目とし、“殺気”がザザと二つに別れる。
ミィアーを背後から襲った“殺気”の正体――短冊型の黒い“布”の群れである“ティティルゥの遺児達”が、守裏遣太夫の刃を上下に掻い潜り黒い奔流となってミィアーの躰に殺到する。
正面から最初に襲ってきた“遺児達”は、寄生元であるナイトゥナイの躰を捨てた群れである。そしてそれとは完全に別方向からの襲撃がどこから来たものなのかという疑念を、ミィアーはすぐに自己解決した。妖精機士の子機に潜みそれを動かしていた“遺児達”の群れ。それらが子機を捨て自分に向けて殺到したのだと。
「くっ!」
子機の数だけ“遺児達”の群れはある。反射的に繰り出されるミィアーの手脚を擦り抜け、“遺児達”が彼女の躰に降り注ぎ、覆う。それはあたかも黒いミイラであるかのような凄惨な光景であった。
「ミィアー……!」
地面にうつ伏せに転がっていたナナムゥがヨロヨロと貌を上げ、力無く呻く。何故、より妖精機士の近くにいた自分ではなくミィアーが狙われたのかは考えるまでも無かった。既に半死半生の自分より、シノバイドたるミィアーの肉体を乗っ取り操ろうとしているのだ。
先程までナイトゥナイにそうしたように。
かつてバロウルをそうしようとしたように。
それを阻止するだけの余力は既にナナムゥには無かった。
だがその時、ミィアーの手が横に大きく振られ、何かが奔った。霞むナナムゥの視覚ではそれが紐状の何かであることしか確認できなかった。その先端が、ナイトゥナイの妖精機士の剥き出しの操縦席に突き刺さる。
いつ如何なる刻でも鍛錬を怠るなと言うモガミの言葉が、ミィアーの脳裏に直接浮かんだ訳ではない。だがその教えは確かに彼女の肢体の内に刻み込まれていた。
電気火花を散らす妖精機士の操縦席。ミィアーの投じた鋼線の先端が操作卓に突達立ち、漏電した電流がミィアーの体に通電する。
苦し紛れの一投ではない。
ミィアーは従者の勤めの一環として、所長の元で妖精機士の機体構造の基礎を習得していた。そして所長の館が“遺児達”に強襲された際にその弱点が電気であったことを憶えており、難敵としてその備えをいまだに怠ってはいなかったのだ。
「……!」
その代償の苛烈さにナナムゥが絶句する。鋼線を伝わる電流はナナムゥの目にも一瞬眩く弾けて見えた。ミィアーの全身に巻き付く“遺児達”の上げる悲鳴が確かに耳に届いた気がした。
電流が“遺児達”を灼く。ミィアーの目論見通りに。無論、彼女自身の肉体も巻き添えとして。
その効果は覿面であった。次々と“遺児達”がミィアーの体から剥がれて落ちる。苦悶の呻きこそ上げはしなかったが、地面に落ちた後に蟲のように弱々しくもがき、やがてピクリとも動かなくなる。
息絶えたのは見ただけで判る。ただ一つ異様であったのは“遺児達”全てが黒い煤のように次々と崩れ落ちたことにある。まるで元々が灰から出来ていたかのように、一陣の風に吹かれただけで散っていく。
取り憑こうとしていた全ての“遺児達”を振るい落としたミィアーもただでは済まなかった。着衣も焼け焦げあちこちがボロボロと崩れ落ち、何よりもミィアー自身が苦悶の表情と共に大きく上体をぐらつかせた。
「っ!」
守裏遣太夫の刃を地面に突き立て支えとすることで、ミィアーは辛うじて倒れ伏すことを避けた。“遺児達”が滅んだ以上そのまま失神しても許される状況ではあったがミィアーがそれを良しとしなかったのは、無論意地と矜持によるものである。だがそれに加えてミィアーの“旗手”としての“力”の賜物でもあった。
痛覚遮断――修練中に重傷を負ったことでシノバイドとしての道を絶たれたミィアーに再び闘える力を与えた六旗手としての“力”は、依然として健在であった。とは云え、あくまで『痛みを感じない』というだけの話であって、肉体に負ったダメージが軽減される訳ではない。致命傷には及ばなかった、ただそれだけの話でしかない。
半死半生の少女が二人、息も絶え絶えになりながら“ティティルゥの遺児達”の最期を見届ける。風に吹かれ痕跡さえも既に定かではなくなりつつあるその末路を前に、両者は共に同じ結論に辿り着いていた。
本物の“遺児達”はやはりザーザートと共に滅んでいたのだろうと。自分達が相手をしたこの“遺児達”は、コルテラーナが遣わした“守衛”――すなわちサリアの夢見たマガイモノであったのだろうと。
(確かにあやつらも“旗手”ではあったのぅ)
ナナムゥは所長の館が襲撃された時のことを思い出す。あの時はファーラの肉体を“芯”として、“ティティルゥの遺児達”はティスティスという異様な鳴き声と共に猛威を振るい、撃退に多大な労を要した。
(と、いうことは、じゃ……)
ナナムゥは彼方にある“黒い棺の丘”の上空を見上げ、詮無き想いを馳せた。
(もしもわしらが破れて世界が『やり直す』というのなら、わしやミィアーのマガイモノも“守衛としてもそこにおるのかのぅ……?)
*
天を指すカアコーム砲が轟音を発し、遂にガッハシュートを乗せた“籠”が天空に撃ち出される。
直前にカアコームの口から大仰なカウントダウンが繰り広げられたりもしたのだが、離れた高台に追いやられた司書長ガザル=シークエ達の耳には届かない。
“――龍遺紅”
“――龍遺紅”
ガッハシュートの両の脚の魔晶弾倉に装填された魔晶が高らかに起動する。ガルアルスの置き土産である紅水晶を加工した龍遺紅が。
だが通常の魔晶とは異なり龍遺紅が真にその力を発動させるには溜めとでもいうべき猶予を必要とした。それ自体は事前の試用により明らかとなった特性であった訳だが、単に発動に時間を要するといった以上の問題も同時に判明した。その推力が甚大であるが故に、地上から直に龍遺紅を発動させ上空に飛び立とうとした場合、“ブレ”により目標を大きく逸れることは明白であったのだ。
対策として、標的を捉えた状態で空中で龍遺紅を起動させる――その為のカアコーム砲であり、脚の角度を固定させる為の“籠”であった。
その“籠”が割れ、ようやく発動した龍遺紅の推進力によってガッハシュートが大きく加速する前段階に入る。
そればかりではない。
果たしてそれは“龍”の力の残滓が成せる御業であったのだろうか。ガッハシュートが首に巻いたカカトの形見のマフラーに劇的な変化が生じる。
本来は青く長いマフラーが首から末端に向けて煌めく紅色へと変わり、そこから溢れ落ちた紅い粒子がガッハシュートの後方に帯のように流れた。
「真紅の…流星……!」
空を見上げる司書バーハラは我知らず感嘆の呟きを漏らした後、ハッと一つの預言に思い至った。その口から、この閉じた世界に旧くから伝わる預言の詩が改めて漏れる。
『真紅の流星が夜の帳を翔る時、この閉じた世界の殻は砕け、再びあるべき大地へ還るであろう』
「――その流星こそが……!」
「バーハラ君」
彼女の諳誦が終わるのを見届けてから、ガザル=シークエがバーハラに問い掛ける。
「君は、何故ガッハシュートが白一色の出で立ちを貫いていたのか、その理由を知っているかね?」
「……いえ」
困惑を隠せないバーハラの貌ではなく、空に視線を向けたまま司書長が先を続ける。
「『ガッハシュート』という名はサリアの元いた世界では『流星』を意味するそうだ。預言が世に出た時、その『真紅の流星』は自分ではない、その表明として白衣を身に纏うようにしたのだと彼は言っていた」
そこまで話した時に、天上のガッハシュートの体が一際鮮やかに紅く輝き、そして加速した。引き絞った弓から放たれた矢の如くに。
長く紅い尾を後に曳いて。
真紅の流星となって。
「だが、結局こうなる運命だったのだな」
何故、守衛長は『真紅の流星』となることを拒んだのですかと、バーハラが司書長に尋ねる。
守衛長ガッハシュートが、サリアが夢見た最初の“守衛”であるということはバーハラも知っていた。預言にある『真紅の流星』がこの封じられた世界を解放する救世主だというのであれば、ガッハシュートこそそれに相応しいという認識は、彼女のみならず移動図書館に属する者であれば異論を挟まない筈である。
本人もそれを自覚していたからこそ、ガッハシュートは自分が預言の救世主には相応しい存在ではないと固辞したのだと司書長は答える。それは半ば呟きめいた口調であった。
“彼等”による密封世界をコルテラーナは幾度となく『やり直し』てきた。その度に多くの住人が天頂の“台座”“より降り注ぐ“雨”によって命を奪われた。
『介錯』などというのは詭弁でしかない。
コルテラーナの傍らで黙ってそれを見届けるしかなかった自分には、到底救世主を名乗る資格などないのだと、それがガッハシュートの決意であったのだと。
「それでも運命には抗えなかった……」
司書長の目線の先を同じように追いながら、バーハラは哀しげに呟く。改めて司書長に尋ねるその声も又、寂しいものであった。
「私達のようなマガイモノにも、運命や宿命などがあるのでしょうか……?」
「さて、どうだろう」
司書長と司書はそれ以上言葉を交わすことなく、それぞれの想いを込めて真紅の流星を見送った。
そしてその一方、まったく別の感慨にふけりつつ真紅の流星の軌跡を見届ける男がいた。
カアコーム砲発射の為に砲台直下に備え付けられた管制席にいまだ留まるカアコームその人である。
幾晩もの寝ずの試算の甲斐あり、ガッハシュートをこの閉じた世界の最頂部である“黒い棺の丘”中心点直上に寸分違うこと無く射出することができた。
「よぅぉやく我が望みが果たされたんだにゃー」
商都ナーガスの防壁を破砕する為の攻城兵器としてではない。地下に引き籠もるコバル公国に生を受け、それ故に天に憧れ天に腕を伸ばすことを夢見てきたカアコーム。彼の構築した砲台は、最後の最後にようやくその本懐を遂げたのだ。
最後というのは突貫の砲台の末路だけを指すのではない――手元の急拵えの計器板を見るカアコームは実に落ち着いたものであった。砲身内の圧力が減じていないこと、その結果として暴発は免れないことを、圧力計の針は如実に指し示していた。
にも関わらずカアコームは座席から立ち上がろうともしなかった。この様な惨事の際に自分の足では到底逃げ切れぬことは始めから分かっていた。まして自分が慌てふためくことによって、事前に遠ざけておいた移動図書館の司書長達を呼び寄せる結果となることを彼は良しとはしなかった為でもある。
最後にカアコームが高台に向かって大きく両手を振って見せたのは、悪戯心であったのだろう。辞世の句など必要ではなかった。
カアコーム砲が爆発する。
「そんな!?」
驚愕の声こそ上げはしたが、バーハラの行動は迅速であった。カアコームを助け出すべく、丘の上を駆け下りる。
(間に合うまいが……)
その背中を黙って見送るガザル=シークエの胸中には既に諦観があった。例え今の爆発から運良く生き延びていたとしても重傷は免れぬであろう。移動図書館が共にありその設備を使えるならば兎も角、このような僻地でバーハラの手で救出できたとしても、その後にカアコームを救う術は無い。
詰みであった。
「……」
司書長が再び天を仰ぎ見る。
カアコームの犠牲を無下にしてくれるなと、胸中でガッハシュートにそう託しながら。
*
(お兄ちゃん……!)
頭上を駆ける紅い流星を前に、キャリバーの内の妹が脳裏で声を上げる。
天を仰ぎ見る試製六型機兵の単眼の赤い輝きが、次いで青い光へと変じる。
(ああ、突入の合図だ)
兄は“炎の舌”を手首の内に収納すると、眼前にそびえる暗黒の領域に巨体を踊らせた。