帰道(7)
ガッハシュートが自嘲気味に笑う。
「それこそ、前回の『世界』はこれまでで最も上手くいった。“旗手”同士は反目せず協力し、住人も知恵と知識を出し合い生活水準を向上させた。“旗”の幾つかの所在を不明にしておいたことが、“旗”には頼らず自力で解決するしかないという良い方向に作用したのだと思う。だが、結局この世界の障壁を破る方法は見つからず、住人の数は閉鎖空間の許容を超え、あらゆる資源は枯渇し、そして……」
ガッハシュートは一旦口をつぐむと斜め上に目線を向けた。まるで戻らぬ過去に想いを馳せているかのように、その瞳の焦点は揺らいでいた。
「それは酷い有様だった。人が相食むその惨状は、『やり直す』ことでしか救う術が無かった」
具体的な惨状の度合いがガッハシュートの口から直接語られることは遂に無かった。だが間違いなく地獄絵図であっただろうことはこの場に居る誰もが予想でき、それ故に口を挟むことができた者は皆無であった。
重苦しい雰囲気の中、ガッハシュートの声だけがただひたすらに延々と響いた。
「新たにこの世界を『やり直す』際に、俺とコルテラーナは“前回”の時の様にこの世界が過度に発展しないよう秘かに、そして積極的に管理することにした。移動図書館が貨幣を鋳造することで経済を掌握し、監視の“眼”として浮遊城塞オーファスから三型機兵を世界中に巻いた。住人の数を抑制する為に、騒乱の芽を敢えて見逃しもした」
「おいっ!」
流石に聞くに堪えなくなったナナムゥが抗議の声を上げたが、ガッハシュートはそれを意に介した様子も見せなかった。
「それ程までに、コルテラーナにとって前の世界の失敗は大きな心の傷となって残った。無論、住民を無駄に死に追いやった俺にとってもだ。だから今の世界を『やり直す』際に、俺とコルテラーナは共に誓いを立てた。この世界を封じる障壁を破る手立てが無い以上、世界を存続させる為に在り続けようと。二度と世界を『やり直す』ような真似はしないと。だが――」
ガッハシュートの表情が悲痛なものへと変わる。
「ガルアルスがこの世界に現れ、我々の長きに渡る悲願を事も無げに成し遂げようとした。そればかりか、メブカの成れの果てであり、我々と同じ不滅の存在である“亡者の王”を滅ぼしてみせた。コルテラーナ…いや、サリアはそれを認めることができず、“穢された”として『世界をやり直す』ことを決めた」
「!」
ガッハシュートからほとばしる強い圧に、モガミが弾かれたように顔を上げる。
「誓いは破られた。俺はそれを止めねばならん。コルテラーナの為にも、サリアの為にも」
ガッハシュートは寂しく微笑むと、最後にこう付け加えた。
「俺の元である、メブカの為にも」
*
(でも驚いたね、お兄ちゃん)
試製六型機兵キャリバーの内の妹は、無邪気と言ってよい程に素直に感嘆を示して見せた。主にガッハシュートがあの後に語ってくれた補足についてである。
これまで幾度も世界の『やり直し』を重ねてきた過程において、主に歴代の“旗手”の中から――“旗”自体が紛いモノである以上、“旗手”としては同じく紛いモノでしかないのだが――良かれ悪しかれ強く印象に残った者の似姿としてサリアが夢見たモノが“守衛”と呼ばれる一団であった。
“守衛”は言わば“館長”の近衛兵であるが、普段は実体を伴って顕現していることは稀である。今の世界を始めるにあたり誓いとして結ばれた、あからさまに介入せず陰ながら見守るという方針故であり、通常は“黒き棺の丘”の奥底で、サリアの夢の一部として眠りについている。
唯一人の例外こそ“守衛長”ガッハシュートという訳である。
その制限された“守衛”に変わり新たにサリアが夢みたモノが“司書”であった。移動図書館には、これまで密封世界に流れ着いた数多の絵物語が収蔵されていた。その蔵書の登場人物の中から選出された似姿こそが“司書”である。
“司書”には“守衛”とは異なり相応の自我が与えられ――その理由まではガッハシュートの口からは語られなかった――その内の一人であるガザル=シークエが“司書長”の座と“旗”の一振りが与えられた。
天より浮遊城塞オーファスの“館長”コルテラーナと“守衛長”ガッハシュートが地上を見守る傍ら、“司書長”ガザル=シークエが市井の人々の暮らしを掌握したのである。
サリアが夢見る限り、その似姿である“館長”コルテラーナは不滅の存在である。
同じくサリアが夢見たモノである以上、その配下である“守衛”と“司書”も等しく不滅の存在であった。特に“守衛”は個々の人格こそあれど、サリアの似姿の意向に逆らうことは決してない。コルテラーナとガッハシュートを護り、祝福する存在として、そうサリアに夢見られたモノである為である。
そしてその名の通りコルテラーナを守護する『守衛』として、最後まで我々の前に立ちはだかるだろう。例え“守衛長”の自分に対しても。
ガッハシュートの話では、そうであった。
正直なところ、妹にとっては理解し難い話である。守衛長であるガッハシュートの命令を部下である“守衛”が聞かないというのがまず分からない。何れにせよ、小難しい話は昔から兄の領分だと心得ていたが故に、妹はそれ以上悩むことを分かる訳ないと早々に止めていた。
彼女が兄に対して『驚いた』と告げたのは、ガッハシュートの語った内容ではなくあくまで彼自身に対するものであった。
確かに整った顔立ちであることについては疑いようがないとは云え、兄妹から視たガッハシュートの一挙手一投足は常に煌びやかな輝きと共にあった。高尚な作法の教育など受けた事も無い妹にとっては、それが『雅』な立ち振る舞いかどうかなど判別できない。それは兄も同様であろう。だが礼儀作法の心得が無いからこそ、ガッハシュートの貌が常にキラキラと光り輝いて見えたことは、不可思議な現象として強く印象に残っていた。
そしてガッハシュートによるサリアとメブカの過去語りを聞いた時、ガッハシュートの外観がメブカと瓜二つに造られたのだと知った時、妹は彼女なりに一つの結論に達した。
(恋人をモデルにしたから、あんなにキラキラ輝いて見えたんだね)
(……)
(お兄ちゃんはどう思う?)
(……)
(お兄ちゃん?)
地に墜ちた城塞オーファスの工廠の隅で、独り蹲る石の試製六型機兵。それまで共に居た他の面々は、既に別室で一時の仮眠を取っているか、或いは今後の対応について更なる協議を重ねているかのどちらかである。
キャリバーだけがこの工廠に逃れて来たのには無論相応の理由はある。だがそれはそれとして、過去の如何なる状況においてさえ、妹の問い掛けに兄が沈黙を決め込むことなどかつて一度たりとて無かった。
(お兄ちゃん、どうかしたの?)
妹の声は――正確には声ではなく思念の類であるが――優しかった。歳下でありながらも兄に“母親”を想起させるまでの包容力を備えており、ようやく兄はそこまで気を遣わせた己を恥じた。
(……結局、お前を助けてやることはできなかった……)
幾ばくかの逡巡の後、兄は嘆き、頭を抱えた。六型機兵の主人格を兄が務めていた頃の名残か、身体である石の巨人も連動して頭を抱える。
(それだけじゃない。私の自己満足に最後までお前を巻き込むことになった)
(お兄ちゃん)
(私なんぞと心中する為だけにお前を――)
(お兄ちゃん!)
妹の強い呼び掛けが、兄の詮無き悲嘆を止めた。代わりに激しい兄の怯えが自分の中に伝わってくることを妹は感じた。
かつて、ガルアルスの手によって兄妹揃って息を吹き返した直後は、各々の自我こそ目覚めはしたもののその境目はいまだ曖昧であり、互いの感情が混濁し共鳴にまで及ぶ勢いであった。だが日を追うごとに兄妹の自我は確たるものと化し、しかし細やかな思考は兎も角としても依然として“喜怒哀楽”のような源流たる感情は以心伝心するという不可思議な状態にあった。一つの石の身体に二つの別個の自我が、完全に切り離す事もできない状態で共存している、言わば一蓮托生の極みに置かれたままだと言えた。
だからこそ、兄の悲しみは深いのだろうと妹は思う。試製六型機兵の中で混濁していた魂魄は再び兄と妹とに完全に分かたれた。しかし爆発事故で灼かれた二人の肉体は癒着しており、石の機体の中に共に封じられている。
“黒き棺の丘”の中心部で自爆するということは、すなわち兄妹揃って犠牲になるということを意味していた。
それも仕方がない。
世界を救う為には仕方ない。
やけくそになった訳でも諦めた訳でもない。
妹は自分の運命を粛々と受け入れる覚悟はあった。
一方、兄にはその覚悟は無かった。妹を迷うことなく犠牲にする覚悟は。
他に手段が無い――最初にそれを口にしたのはモガミ・ケイジ・カルコースであった。
そんな真似はさせられない――珍しく大声で真っ向からそれに異を唱えたのはバロウルであった。
コルテラーナによる世界の『やり直し』を阻止する唯一の手段。それは不滅の存在である“館長”のその源である、闇の奥底で夢見て眠るサリアを排する事。
そしてその為の唯一現実的な方法が、試製六型機兵による“黒き棺の丘”中心部への突入と自爆であると、モガミはそう主張したのである。
バロウルを除く一同が揃って沈黙してしまったのは、キャリバー本人も含めて最初に頭の中に浮かんだ、そして唯一の案が同じであった為である。ただ、それを口にする程には非情に徹しきれなかったということでもある。
モガミを除いては。
そもそもと、そのモガミに対し掴み掛からんばかりの勢いでバロウルは尚も食い下がった。試製六型はあくまで偵察用の機体であり、例え両腕の魔晶弾倉を用いても“黒き棺の丘”を吹き飛ばすだけの火力を発揮することは不可能であると。
みすみす無駄死にさせるだけだと。
だが、興奮する褐色の巨女に対し、手立てはあるとモガミは即答した。能面のように冷酷な表情を崩すことなく、全ての計画を立案済であるかのように。
既に商都から高威力の爆薬を調達する手筈を整えていると、モガミは一同に告げた。いつの間にかミィアーが姿を消していることにナナムゥが気付いたのはこの時始めてである。
ここでモガミを相手取るだけであったならば、まだバロウルにも反論する気力が残っていただろう。だがガッハシュートの更なる一言が焦燥する彼女に対する最後の止めとなった。
爆破用の素材には自分にも当てがある――ガッハシュートの言葉を前に、バロウルは目を見開き、そして遂には卒倒した。
その騒動により、流石に一旦は解散の運びとなった。元より居場所の定まらないガッハシュートは兎も角としても、残りの者達は昏倒したバロウルを介護する傍ら、自らの身を休めていた。
たった1日の間にあまりにも多くの出来事が起こり過ぎた。ましてや世界が滅びる瀬戸際であるという事実までもが突きつけられ、誰もが許容できず休息を欲したのも無理なからぬ話であった。
その様な状況下にありながら他の者達と袂を分かち、キャリバーは独り――正確には兄妹二人――工廠で蹲っていた。コルテラーナの“台座”の浮上により塔の上階が崩落し、階下にあたる工廠もまた瓦解の危険は充分にあった。だがそれにも関わらず、キャリバーはここに籠ることを選んだ。
工廠の設備自体はまだ生きてはいる為、機兵としてはここに鎮座した方が色々と融通が利くという理由も無論ある。しかしそれを上回る理由が、少なくとも兄妹の兄の側にはあった。
バロウルが意識を失った後、それまで彼女に配慮して沈黙を保っていたのであろうナナムゥが、始めてキャリバーに声を掛けてきた。
この世界を救う為に死んでくれぬか、と。
誰かが言わねばならぬことであり、誰かが応じねばならぬことでもある。
妹でも予期し、その覚悟はできていた。
だが妹の予想に反し、兄は意外にも即答を避けた。ナナムゥもまた即答を求めなかった。依然としてバロウルは意識を失ったままであり、所長がどのような表情を浮かべているのかはモガミが身をもって一同から遮っていた為、兄妹からは一瞥すらできなかった。
兄が工廠に籠った理由は、覚悟を決める時間が欲しかった為である――それが偽りであることは兄自身が一番良く理解していた。
嘆き、震える以上の術を今の兄は知らぬまであった。
(……お兄ちゃん)
工廠の薄暗がりの中で、妹は再び兄に穏やかに語り掛けた。
(わたしなら大丈夫だから)
(ふたは…私は……)
兄の魂魄がワナワナと震えている事を妹は改めて知った。知ると同時に、幼い頃から常に自分の隣には兄の震えるか細い腕があったことを思い出した。自分達兄妹は昔から小さくて弱かった。色々な意味で弱かった。妹を守れるだけの力が自分には無い事を兄は自覚していた。だからその腕はいつも震えていた。
守れる筈もないのに、それでもいつも兄は側にいてくれた。頼んでもいないのに。
(死んじゃうのはわたしも怖いよ。それはお兄ちゃんと一緒。だから、独りだと駄目だから、神様が一つの体にわたし達二人を残してくれたんだと思う)
兄が神を信じていないということを妹は知っていたが、それでも妹は『神様』のことを言葉にした。
世界を救うという壮大な話になるとピンとこなかったこともあり、良くしてくれた皆に恩返しする為に少しだけ神様が命をオマケしてくれたのだと妹は認識していた。それは彼女にとって嘘偽りの無い純粋な想いであった。
震え、慟哭する兄の魂魄を身近に感じながら、そういえばと、妹は不意に思い出した。この世界に落ちる寸前に巻き込まれたあの恐ろしい爆発事故。あの時も、兄は小さな体と震える腕で自分を庇ってくれたのだと。
結果だけを言えば、それは無意味な行為である。兄妹揃ってその身を灼かれたことに変わりはない。それでもその記憶は妹の抱く決意を確固たるものとした。
今度はわたしが護る番だと。
今この瞬間も、兄は妹であるわたしの為に泣いている。今だけでなく、兄が涙を流すのはいつも自分に関する事だと妹は聞かされて育った。母親に。いつもは泣かないお兄ちゃんが、貴女を想って泣いていると。
妹はそれが、たまらなく嫌だった。
母に責められているようで嫌だった。
兄を悲しませるのが嫌だった。
兄の事が嫌いなのではない。兄から見て、護らねばならないか弱いだけの存在だと思われるのが何よりも嫌だった。
だからこそ、今度はわたしが護る番――妹の固い決意を知らぬ兄は、間を置いて咽び泣きのような魂魄の震えを収め、やがて妹に訊いた。
(確かにこの身体は“丘”に突入する為に造られたものだ。だが、闇の奥には“番人”がいる)
兄妹が辿る同じ記憶。闇の領域の奥底に現れた、自分達の母親の姿を模した何か。
闇の奥底で“人柱”となって眠るサリアの見た夢の化身が“館長”を始めとした“守衛”や“司書”なのだとガッハシュートは言っていた。彼等がサリアの許に赴こうと“闇”の奥底に脚を踏み入れただけで、実体を失い再び夢の一部へと還ってしまうのだとも言っていた。
直接サリアに干渉することが叶わぬ故に、お前達の力を借りねばならないのだと。
あの時“番人”が自分達の母親の姿をとったのは単なるまやかしの類でしかないのだろうと、兄も頭では理解していた。そしてもう一つ、あの闇の領域で――母親の姿自体は誑かしだとしても――自我と実体を露わとした以上、あの“番人”はサリアの夢に由来する存在ではない。であるならば、この閉じた世界の中心に不変の存在として鎮座しているというのならば、その由来は唯一つ“彼等”であることは自明の理であった。
ガッハシュートは“彼等”の気配が消え失せたと言っていた。だがしかし、ガッハシュート達の干渉できぬ領域に、確かに“彼等”の爪痕は刻まれているのだ。
(どうしろというのか……)
妹を巻き添えにする悲しみは別格として、兄の苦悩はそこにある。
自分達に仮初めの生命を与えてくれた“龍”はもういない。“番人”がいる以上、果たして“黒き棺の丘”の最深部に本当に辿り着けるのか、世界の命運を担う重責に兄の魂魄は怖れで震えた。
一時期のような魂魄の混同による以心伝心は衰えたとは云え、兄の不安は妹にダイレクトに伝わる程に強烈なものであった。だが妹は兄のその苦悩に、無邪気なまでにあっけらかんとして応えた。
(もしかしてお兄ちゃん、気付いてないの?)
試製六型機兵の主人格を担うのは兄であった。
その一方、妹が担ったのは機体制御であった。兄が気付かず妹のみが気付いていた理由はそこに起因するのかもしれない。少なくとも兄とは異なり妹には“黒き棺の丘”突破への“根拠”があった。
妹の言う『神様』が他ならぬガル=アルスであったことを、遅まきながら兄は知ったのだ。