帰道(6)
デイガン宰相の去り際の一言が、掛け値なしの激励の言葉であることを一同は――不可思議な話ではあるが――確かに感じた。それまで喧嘩腰であったナナムゥでさえも、下手をすれば厭味にも思えるその言葉が本心からのものだと悟り、言い返すことなくムスッと口をつぐんだ。
誰もが皆、気付いていたのである。例えコバル公国公都の更に地下深くに逃げ込んだとしても――ガッハシュートの言葉が真実であれば――所詮は無駄な足掻きでしかなく、赤い水から逃れる事ができず呑み込まれてしまうのであろうことを。
そしてそれをデイガン自身が充分に承知していることも。
デイガン一行を内部に招き入れた移動図書館の大きな両開きの扉が、無人のまま開いた時と同じように自動で閉じる。そして蜃気楼か何かのように周囲の空気をグニャリと歪ませる移動図書館であったが、次の瞬間にはナナムゥ達の目の前から煙の様に忽然と消え失せた。
何も無くなった空間に、風だけが行き過ぎる。だが、浮遊城塞に残ったナナムゥ達一行には別離の余韻に浸る暇など無かった。
「わしは――」
やがて、まさにデイガンがそう望んだように、“身内”のみが残ったことでナナムゥは己が心境をようやく口にした。吐き捨てたと言ってもいい。
「例え殺めることになってでも、コルテラーナを阻止する」
その声色はとても少女のそれとは思えぬ、低くしわがれたものであった。
「コルテラーナはわしらの心を操ると言っておったな。そこまで手の内を明かしたからには、当然何らかの対抗手段を知っておるのじゃな?」
昏く濁った碧眼で睨みつけて来るナナムゥに対し、しかしガッハシュートが返した言葉は無情なものであった。
「そんなものは無い」
更に畳みかける様に、ガッハシュートはとどめとなる絶望を一同に示した。
「付け加えればコルテラーナはこの世界においては不滅の存在、殺すことなど不可能だ」
みるみる柳眉を逆立てるナナムゥを片手で制し、ガッハシュートは先を続けた。
「正確には、例えコルテラーナを殺せたとしても“黒き棺の丘”の闇の中から必ず彼女は甦る。流石に即復活とまではいかないが、10日もあれば充分だろう」
「例え死力を尽くしてコルテラーナを討ったところで事態は振り出しに戻るだけ、やがてこちらがジリ貧となるという訳か」
あくまで平静を保った――装ったというのが正解か――モガミの言葉に対し、ガッハシュートが頷いてみせる。
「そうだ。コルテラーナを阻止し、今の世界を『やり直し』から救う方法は唯一つ。その源である“黒き棺の丘”ごと破壊するしかない」
「……」
『これまで秘匿していたのが嘘のように饒舌だな』――その指摘をモガミは端から口にする気にはなれなかった。おくびにも出さず、己の胸の内に留め顧みないことに決めた。
ガッハシュートに配慮したからではない。
隠匿するという行為は、それが明かされる事で自分達に不都合を被ると判断された時に生じる。にも関わらずガッハシュートは今、迷うことなく世界の根幹について語り始めた。秘して然るべき“真実”であることに、寸分変わりはないにも関わらず。
理由としては唯一つ、自分達が知り得た秘密を拡散する術が無い場合であることをモガミは心得ていた。手段が無いのではない。伝えたところで揃って死に絶える以上、意味が無いのだ。
言わば『冥途の土産』であるからこそガッハシュートが惜しみなく明かしているのだということを、モガミはこの場の誰よりも理解していた。
空から降り注ぐ“コルテラーナの涙”とやらは確実にこの世界の住人を滅ぼすのだろう。天にも地にも人が逃げ込める場所など無いのだろう。今この場に居る我々も消え失せる運命から逃れられない事が確定しているが故に、ガッハシュートも躊躇なく秘匿していた“真実”を明かしているのだろう、と。
この間、僅か数秒。自分以外の者に犠牲を強いる覚悟を、モガミは固めた。
「結局のところ、貴方やコルテラーナは何者なのですか?」
既にコルテラーナを討つ手段に特化して脳内で計画を練り始めたモガミとは対照的に、所長はそのコルテラーナの精神操作に阻まれこれまで訊く事すら叶わなかった核心に触れた。
「始めは、移動図書館所の方たちこそが“彼等”なのではないかと私は疑っていました。しかし貴方はそれを否定し、しかしその一方でコルテラーナはまるで“彼等”そのものであるかのように、この世界を滅ぼそうとしている」
凛とした所長の佇まいは、『妖精皇』の異名に恥じぬ厳かな圧を備えていた。少なくともキャリバーの内の兄の方は、内心確かに畏怖の念を覚えた。
「一体、“彼等”ではないというのなら、貴方達は何者なのです?」
緊迫した静寂が一刻この場を支配する。一同が注視する中、やがて口を開いたガッハシュートの貌に既に迷いの色は微塵も無かった。
「……夢だ。館長も守衛長も、全てはサリアが見た夢が形となったものだ」
「あ゛あ゛っ!?」
唄の一節のようなガッハシュートの返答に、ナナムゥの額にビキビキと青筋が浮かぶ。ガッハシュートが口の端に僅かに微笑みを浮かべたのは、それを見越してのからかいであったのだろうか。だがその穏やかな表情もすぐに真摯なそれへと変わる。
「今から話すのは、遠い遠い昔の話だ。サリアとメブカという最初の――いや、違うな。この世界の最後の“旗手”の話だ」
そういうと、ガッハシュートは改めて瓦礫の柱に身を預けゆっくりと語り始めた。
自分にとってもコルテラーナにとっても実の記憶ではない、遥か古のサリアの記憶を頼りに。
*
「……アーシ…アル…アーシ……」
六旗手“香天花”イグラッフが最期に遺した呟きが呪詛の類であることを、他ならぬサリア自身が一番良く理解していた。
「……」
物言わぬ骸と成り果てたかつての友の横に、顔の無い暗黒の“亡者”がヌルリと沸き立つ様を、サリアもまた自らが死人と化したかの様な蒼白な顔で見届けることしかできなかった。
心無き“亡者”に対する嫌悪感は拭えない。しかし“亡者”が出現することで“敵”にとどめを刺せたかどうか判別できることだけは利点だと、かつてメブカが言っていた。
だが実際は憐憫の情が遥かに勝り、サリアは到底“勝利”を喜ぶ気にはなれなかった。安堵を覚えることもなかった。
例え元居た世界は違うとて、この閉じた世界に同じ時期に堕とされ慰め合った、かつての友人との永遠の別れであったが故に。
屍と化しピクリとも動かないイグラッフの豊満な胸元から、光の珠がポロポロと転がり出る。枯れた大樹の洞から逃れ出る寄生蟲のようなその動きに、サリアは激しい嫌悪感を覚えた。
淡い光の珠の数は四つであり、その全てが“旗”であった。
時に謀略を、時に庇護欲を、時に自らの身体を用いてまで六つの“旗”の内の四つまでをその手にした“香天花”イグラッフ。だが彼女が尊厳を投げうってまで集めた“旗”は、物言わぬ屍の主の許を離れ光の珠として宙に浮かび上がり、サリアの頭上を円を描くようにゆっくりと回り始めた。
“旗”の所有権がイグラッフからサリアに移った何よりの証である。それも道理、勝利を確信した“香天花”を背後から刺し貫いた者こそが他ならぬサリアであった。その凶器となった、事前よりメブカから託された光刃刀は、今も深々とイギラッフの心の臓を刺し貫いたままであった。
「――メブカ!」
光刃刀が視界の端に映ったことで、サリアがハッと我に返る。自らの手で旧友を刺殺した事による混乱からようやく立ち直った彼女は、イグラッフの隣に立つ“亡者”の更に向こう側に仰向けに倒れているメブカへと駆け寄った。
この時点で既に、サリアの蜂蜜色の瞳からはとめどなく涙が溢れていた。彼女の一族の特色でもある赤く色付いた涙が。
「……約束したろう……」
サリアがその傍らに両膝を突き、その貌を覗き込んだ時、赤い涙を頬に受けながらメブカはただ、静かに笑ってみせた。
『サリア、護るさ君を』――それがメブカがサリアと交わした約束。この閉じた世界を巡るささやかな旅の中で、常に彼がサリアを案じて口にした誓いの言葉でもある。
“旗手”として今のメブカが保持している“旗”は、元より自分が所持していたものに加え、最後の戦いの前にサリアから託されたものとで二つ。四つの“旗”を占有するイグラッフに対し、対抗するには本来ならば話にもならないまでの格差が生じていた。彼女の使役する怪魔・妖獣の群れを突破しイグラッフ自身に肉薄することは夢物語に等しい難事であることを、サリアは幾度も思い知らされてきた。
だがメブカは心折れることなく、“旗”を奪いに襲い来るイグラッフの尖兵を退け、幾ばくかの天運に助けられ遂にイグラッフ本人と対峙する奇跡に等しい好機を得た。
“闘い”が少しでも拮抗するように、“彼等”が裏で何らかの介入をしているのではないか――サリアの太腿に頭を預け短い仮眠に落ちる際に、メブカはそう疑念を漏らしたこともある。
如何なる目に見えぬ介入があったにせよ、選ばれた二人の最後の“旗手”は石造りの塔の最上階で相対し、そして激突した。“旗”の数の差を拠り所に嘲笑するイグラッフに対し、メブカは愛の力には及ばぬと啖呵を切った。切ってみせた。
そこに込められた真の意味を知るのはメブカとサリア、そしてイグラッフというかつて共に旅をした当事者達のみであるのだろう。 少なくともイグラッフは激高し、逆上し、それが故に隙が生まれ、それが故に討たれ、斃れた。
メブカの命を代償として。
「泣くな…サリア……辛い……」
「でもっ!」
嗚咽するサリアの頬に、メブカは右の指先を伸ばした。宇宙海兵隊員として、この世界に墜ちる前より彼の四肢は機械化され生身ではない。それでもその鋼の指先に人としての確かな温もりを感じ、それ故にサリアはとめどなく溢れる赤い涙を止めることが出来なかった。
「泣くなよ……」
メブカの懐から新たに二つの光の珠が浮遊する。言うまでも無く残りの“旗”であり、今まさに命尽き果てようとしている彼からサリアへの最期の贈り物でもあった。
「……何とかなる…もんだな……」
サリアを気遣ってか、この状態で尚メブカは“旗”が揃った事への軽口を叩いてみせた。
遂に独りの“旗手”の許に六つの“旗”全てが集う。サリアの頭上で円を描いて巡る“旗”の光珠達。その光の尾はひと繋がりの光輪と化し、あたかも祝福の星が如くサリアとメブカの上に光が降り注いだ。
「これで…お前も…故郷に……」
「やめてっ! そんなの私の願いじゃない!!」
所在なげに身を揺するイグラッフの“亡者”以外に動く者の姿も無い夜の帳に、サリアの絶叫だけが虚しく響き渡る。
「元の世界に戻れなくていい! こんな世界でも構わない! ただ貴方と共に生きたい! だから――」
「サリアッ!!」
それは彼に遺された最期の力を振り絞った行為であったのだろう。仰向けに倒れたままの体勢であるにも関わらず、メブカは腕の力だけでサリアの身体を強く突き飛ばした。
「メブカッ!?」
それが叱咤であることを、別れの儀式でもあることを、サリアは分かっていた。分かっていながらも、それでも彼女は這いつくばってでも愛した男の許に戻ろうとした。
だが、選ばれし“旗手”サリアの望みが果たされることはなかった。これより永劫の長きに渡り。
「――あっ!?」
痛みこそ無かった。しかし鋭い衝撃が、突如としてサリアの腹部を背面から撃ち貫いた。
「……何?」
何が起こったのか分からなかった。サリアに出来たことと言えば、自らの腹から生えた光の刃を呆然と見つめることだけであった。
そして訳の分からぬ内に二度目の衝撃がサリアを打ち倒し、うつ伏せの形で地に縫い付けた。続く三撃目の時点で、ようやく彼女は自分の躰を刺し貫いているものが形を変えた“旗”であることを理解した。
腹を、右肩を、左の太腿を射抜かれ、既にサリアに抗う術は無かった。彼女は弱々しく首を巡らし、そしてメブカを見た。
“幽霊”――或いは“亡者”――が出現していない以上、メブカがまだ息絶えていないことだけは判る。しかし瀕死であった彼の体は動かず、そして自分の有様を見て如何なる顔をしているのか、既に五本目の光の刃で全身を穿たれたサリアの霞んだ眼では捉えることが出来なかった。
しかし、声だけはサリアの耳に届いた。いまだ絶命していないメブカの口から溢れ出る、とめどない怒号と絶叫が。
――これが仕打ちか!
――貴様等に弄ばれるくらいなら!
――死んだ方がまだマシだ!
(……メブカ……)
サリアの耳で聴きとれた呪詛はそこまでであった。
“旗”の変じた最後の光刃が彼女の心の臓を貫き、その視界を真なる闇に沈めた。
(メブカ…貴方と…二人で……)
サリアの身体を縫い付けた石の“台座”を残し、彼女の周囲の地形が崩れ始める。まるで寄木細工がバラけたかのように、周辺全てが暗く深い奈落の底に吸い込まれ落ちていく。
イグラッフの“亡者”と、そしてメブカも。
ただ彼の遺した呪詛と慟哭だけが、いつまでもサリアの耳に残った。
いつまでも、いつまでも。
責め苦の如くに……。
*
「――かくして、六つの“旗”を揃えたサリアは哀れにも閉じた世界の中心に独り繋がれた。今は“黒き棺の丘”と呼ばれる暗黒の中心部に、彼女は死ぬことも許されずにこの世界に据えられ、“夢”を見続けている」
「……」
「そして閉じた世界は依然として他次元から人々を引き摺り込み、外に逃さない事に変わりはなかった」
「つまり、六つの“旗”を全て集めれば願いが叶うという彼等の戯れは既に終了していたということか?」
モガミの詰問に、ガッハシュートはそうだと頷いて見せた。その表情は、これまでの中で最も悲壮なものあった。
「彼等が初めから約束を反故にするつもりだったのか、或いはメブカと共にこの世界で生きたいというサリアの願いを敢えて曲解してみせたのかは分からない。どちらにせよ、サリアは“夢”見る事でこの世界を如何様にもできる“権限”を与えられた。彼等の言う、どんな望みも叶えることができるというのは、或いは“人柱”として据えられるという意味だったのかもしれないな」
「……」
一同が全ての言葉を無くす中、ガッハシュートの大きな溜息だけが響く。
「かつての自分と同じ様に、この世界に無理矢理封じられた人々を助ける為に、サリアは自らの姿を模してコルテラーナを夢に見、その補佐としてメブカを模した俺を夢見た。お前達が手にした“旗”も、同じ様にサリアが夢見た紛い物という訳だ」
それまでは悲哀の色だけが浮かんでいたガッハシュートの瞳に、始めて強い憤りの炎が宿る。
「何にせよ、“彼等”はそれ以来完全に姿を消し、だがこの世界は依然として閉ざされているにも関わらず、新たな犠牲者を際限なく呼び込んでいる。そして地下では“亡者”が――」
「何故それを隠した?」
モガミが険しい口調で、ガッハシュートの語りを遮る。
「“彼等”が去り、“旗”が紛い物であるということを始めから明かしておけば、茶番めいた諍いを防ぐことも可能だった筈だ」
モガミの強い憤りの源が“旗手”カカトの死に対するものだということをガッハシュートは承知していた。カカトの体術の師がモガミであったように、敢えて“敵”となる事で実戦の経験を積ませた言わばもう一人の師がガッハシュートであった為である。
死んだ者は還ってはこない。ガッハシュートの口から出たのはカカトに対する詫びや後悔の言葉ではなく、純粋にモガミの詰問に向けての答えであった。
「明かしたさ。これまでに何度も」
「!?」
意外な返答にモガミだけでなく所長やナナムゥも、かつてそのような秘密の一端でも明かされたことがあったかと記憶を探る。だがそのような憶えは一切無いと結論付ける前に、ガッハシュートがその先を続けた。
「だが、明かした全ての世界は例外無く短命に終わった。人は、完全に帰還の望みが絶たれると自暴自棄となるか心が死ぬか、何れにせよ碌な事にはならなかった。だからコルテラーナは世界をやり直すたびに、サリアが夢見た紛いモノの“旗”を本物と偽り、人々に希望は残っていると示したのだ」
「お主は、いや、お主達は一体どれ程の世界をやり直したというのじゃ?」
ナナムゥの目は見開き、問い質すその声は震えていた。
「数えるのを止めた」
俗に云う「世界の謎」を全部台詞で説明してしまう己の構成力の無さに絶望してしまいますが、それはそれとして書くべき程の事をば書いて一安心