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帰道(5)

 「あ゛あ゛っ!?」

 元よりバロウルを責め立てるのはナナムゥの本意ではない。それ故に、口を差し挟んだ形となったガッハシュートに対するナナムゥの態度は、八つ当たり気味の非常に刺々しいものとなった。

 「この閉じた世界で、コルテラーナに抗うことができるモノはいない。それどころか、コルテラーナに対する敵意や不信の念すらも、彼女に見つめられるだけでたちまちの内に融解してしまう」

 ここまでは単にナナムゥを諭すような口調であったガッハシュートが、次いで所長やモガミ、そしてキャリバーの貌を見渡す。

 「ぶっちゃけた言い方をしてしまえば精神操作をしていた訳だが、お前達にも思い当たる節があるだろう」

 ハッとナナムゥと所長の顔色が変わる。モガミは表情を変えることのないままに己の記憶をたぐり、単眼しか備えておらず表情そのものが存在しないキャリバーは、代わりに「あっ!」という間の抜けた声を発した。

 「おのれ……!」

 ナナムゥがギリリと歯ぎしりし、改めて怒りを露わとする。

 確かに無駄に達観しているコルテラーナにナナムゥが不信の念を抱いたのは一度や二度ではない。全てが他人事であるかのようなその冷めた態度を、面と向かって問い質そうと目論んだこともあった。

 だがコルテラーナの蜂蜜色の瞳に見つめられ、その思慮深い声を耳にした時、誰もがその負の心の全てを喪失した。まるで霞がかったかのように意識が曖昧模糊となり、ただ眼前のコルテラーナからの慈愛を感じ身を震わせ、彼女を護らねばならないという強い想いで心が満たされるのが常であった。

 (何の為の修練か!)

 不甲斐ない己自身をモガミは謗った。成す術なく精神操作を受け入れるなど、皇室直属の護衛忍者としては有り得ぬ失態であった。

 己自身に裏切られたのはモガミだけに留まらない。コルテラーナに“魅了”されその場を退いた者は、後日改めて自分自身に疑念を抱くのだ。何故あの日あの時にコルテラーナを問い詰めることを忘れたのかと。

 ガッハシュートは頃合いと見計らったのか、一同に対し更なる説明を続けた。

 「そうだ。コルテラーナと対峙した時、人だけでなく獣の類までもが彼女の前に自然とかしづいてしまう。この世界で生きる限り、その摂理からは逃れられん。例外があるとすれば――」

 「例外!?」

 大声を上げてガッハシュートの言葉を遮ったのは、意外にもデイガンであった。浮遊城塞を率いていたコルテラーナ自身であれば兎も角、ガッハシュートとはまったく面識が無かったが故の非礼ということもある。

 ガッハシュートがデイガンを咎めるようなことは無かったものの、再び口を開いた彼の声は暗く、そして重いものであった。

 「例外は、“亡者”を率いるメブカだけ、その筈…その筈だったのだ…!」

 嗚咽にも似たガッハシュートの嘆きを前に、場がシンと静まり返る。だがすぐにモガミの鋭い指摘が、その僅かな苦悶の刻を打ち破った。

 「だが、あの化け物が現れた。そういうことか」

 「そうだ、ガルアルスだ」

 ガッハシュートの口から、遂に真紅の青年の名が上がる。彼とモガミとが交わした目線は殺伐とした敵意ではなく、不条理を前にした互いの労をねぎらうような、奇妙な共感で占められていた。

 両者の共感は兎も角、その真紅の『(ドラコ)』が既にこの密閉世界から去って久しい。だが、その『化け物』が残した爪痕の深さを、滔々とガッハシュートは語り始めた。

 「あの男はコルテラーナの精神操作を受け付けなかったばかりか、この世界を囲む“障壁”を破壊できると豪語し、挙句の果てには永きに渡る世界の澱みである“亡者”達までことごとく焼き尽くしてみせた。我々(・・)には出来なかったことを、この世界に流れ着いた、たった一人の男がやってみせたのだ」

 ガッハシュートは一旦言葉を切ると、深々と悲嘆の溜息をついた。

 「アレは、文字通りの『化け物』だったんだろう。分かるか、これまでどれだけ長い年月をかけても不可能であったことを、容易に可能だと聞かされたコルテラーナの悲哀が」

 「知るか、そんなもの!」

 ナナムゥが吠える。

 「ガルアルスが気にくわんのは、まぁ分かる! だが、だからといって、『世界をやり直す』など意味が分からん!!」


 「――問答はそこまでにしてくれ」


 それまで――物理的な意味も含め――距離を置いて話を聞いていたデイガンが、ナナムゥを制して唐突に口を挟んだ。

 「わしは一刻も早く国に戻りたい。結局これから何が起こるのか、先に結論から話してくれ」

 デイガンが急に彼等の話を遮ってきたのは、『ガルアルス』という名前が出て来た事と無関係ではない。

 ザーザートが連れて来た、『アルス』という自称でしか知らぬ真紅の少年。彼こそが『ガルアルス』であることを悟れぬまでにはデイガンも老耄してはいない。だが『アルス』という名が飛び交うことで必然的に孫のオズナのことにまで想いが巡ってしまう為に、それを絶ち切りたかったという感傷めいた理由が故の介入である。

 それに加え、デイガンが直にコルテラーナと相対する機会もこれまでに無く、精神操作に対してまったく実感が湧かなかったという要因もある。

 「そうじゃ、コルテラーナはどこに向かって飛び去った?」

 自分が昏倒から目覚めるなり駆け出した本当の理由を思い出し、ナナムゥも改めてガッハシュートを問い詰める。

 「わしが浴びたあの赤い水と『世界をやり直す』ことは何か関係があるのか?」

 「あれか」

 ガッハシュートの瞳が一瞬、遥か彼方に向けられる。その視線の先が“台座”の飛び去った北東の方角であることをミィアーは見逃さなかった。

 「あの赤い水は、コルテラーナの流した涙だ」

 「はぁっ!?」

 「赤い涙は滝となり、雨となってこの世界に降り注ぐ。降り注いだ涙は地表で池となり湖となり、そしてこの閉じた世界の全てを充たすまで止むことはない」

 「!?」

 ガッハシュートの独白めいた言葉に、この場に居た誰もが息を呑む。結論を急かしたデイガンですらも例外ではない。如何に荒唐無稽な話とは云え――否、荒唐無稽な話であるからこそ、それがどのような結末を迎えるのか悟らぬ者は無かった。

 溺死――蓋付きの壺に閉じ込められ水を注がれ続けるという単純明快な末路の予想を前に、ナナムゥが半ば意地になって否定の大声を上げたのも無理なからぬことであった。

 「いや、無理じゃろっ!」

 依然として唖然とした表情を残しつつも、至極当然の疑問をナナムゥは口にした。

 「幾らこの世界が障壁に包まれているとはいえ、水で満たすことなど不可能じゃ。そもそも――」

 口をつぐんだままのガッハシュートとガザル=シークエに対し、ナナムゥは包帯まみれの右腕を大きく振り上げて叫んだ。

 「障壁は水と空気までは遮断してはおらん!」

 不可視の“障壁”がこの世界を円形にグルリと囲んではいるのと同じ様に、河川や風が障壁に遮られてはいない事も周知の事実である。無論、川の中を泳ぐ小魚や、風に吹かれ舞う木の葉があれば障壁に阻まれ、壁の“向こう側”に行くことはできない。しかし水と空気の流れだけはその限りではないということは、この閉じた世界に住む者にとっては常識であった。デイガンに至っては、若い頃に地下深く掘り進んだ経験上、地の底においてもその制約からは逃れられないことを己の身をもって体験していた。

 故に、ガッハシュートが“涙”と呼んだ赤い水が都合よく障壁の内に溜まりこの世界を水没させるような事態など起こり得ないと、ナナムゥは抗弁したのである。

 密封されているとは云え横断するのに10日を要する閉じた世界(ガザル=イギス)が水没する様を想像するのが難しかったという単純な理由もある。

 しかし、それに対する否定をガッハシュートは即答をもって返した。ナナムゥが心中で予想し、覚悟していた通りに。自分の反論が、心情的に認めたくないという子供の駄々のようなものでしかないことを、ナナムゥは初めから理解していた。それをもまた認めたくないという、ただそれだけの話であった。

 「ナナムゥ、涙を直接浴びたお前が一番実感した筈だ。あれはただの水ではない。説明しやすいように“水”と例えただけで、普通に実体を備えたものじゃないんだ」

 「……」

 「コルテラーナの“涙”は霧のようにこの世界に充ち、そして魂魄持ち(にんげん)の生命だけを奪う。植物や動物を残し、人間だけが残らず死に絶えるという仕組みだ」

 ガッハシュートがここで言葉を切り、改めて一同の顔を見渡す。死刑宣告にも等しい滅びの説明を前に、改めて質問を発する者は皆無であった。

 まさに死の静寂といった沈黙の中、不意にドサリという大きな音が響き渡った。バロウルが緊張に耐え切れず、両膝から地にくずおれた音である。元よりコルテラーナに組みしたことで罪悪感に苛まれていた褐色の巨女にとって、この無言の空間は永劫の責め苦にも等しく感じられたのである。

 「一つだけ答えよ」

 バロウルの発した騒音でようやく我に返ったデイガンが、乾いた喉から何とか懸命にしゃがれた声を絞り出す。

 「あの飛び去った女を倒せば、その赤い水とやらは止まるのか?」

 容赦の無いデイガンの質問に対するガッハシュートの答えもまた、取り付く島の無いものであった。

 「コルテラーナを倒すことは不可能だ」

 何か言い掛けるナナムゥを、傍らのガザル=シークエが片手で制する。

 「“黒い棺の丘”(クラムギル=ソイユ)そのものを破壊しない限り、不滅の存在と言っても過言ではない」

 ガッハシュートの最後の補足が無理難題の極みであることを、この場に居る誰もが理解できた。

 (“黒い棺の丘”(クラムギル=ソイユ)……!)

 理解した上でモガミは頭の中で冷酷に計画を練り上げ始め、所長はその為に必要となる“犠牲”に思い至り、後ろめたさに一旦は計画を脳裏から振り払った。

 そして片やデイガン宰相もまた、今後の自分の取るべき方針について即決せねばならぬことを知った。

 「つまりは、赤い水を止めることは不可能という訳だな」

 デイガンのその言葉は、己の視線の先にいるガッハシュートに対してだけではなく、己自身に向けて言い聞かせるような呟きめいたものであった。老宰相はそれまで腰を下ろしていた瓦礫の柱から身を起こすと、周囲の護衛の者達に撤収の目配せをした。

 「わしは公国(くに)に戻る」

 老宰相の声は硬く、それは如何なる引き留めの言葉も受け付けないという強い意思を言外に示していた。

 「アレはお前達の縁者だろう。お前達で決着を付けろ」

 「公国に戻ったところで、何か手立てがあるのですか?」

 所長の問い掛けが、例え地下に籠もったところで逃げ場は無いという念押しであることはデイガンにも分かっていた。ガッハシュートの言う様に、それが通常の水でないことは確かであろう。溺死云々は置くとしても、それが人の身体を灼く劇薬だということはナナムゥが証明していた。

 成り行きとは云え公国の指導者となった以上、諦観のまま滅ぶに任せることなど論外であった。

 かつてクォーバル大公の暴虐を見て見ぬふりをしたことで、孫の様に思っていたティティルウとザーザートを喪った。政争に負け主戦派の貴族達の好きにさせたことで、結果的に孫のオズナを喪った。そして今、傍観と云う同じ轍を再び繰り返す訳にはいかなかった。そうでないと、死んだ孫達が浮かばれぬ、その強い決意をデイガンは抱いていた。

 彼がこの場から去る決断をした理由はそれだけではない。

 コバル公国のクォーバル大公の“旗”はザーザートと共に失われたと聞く。であれば、空高く飛び去ったコルテラーナに抗しうるデイガンの“手札”は皆無である。強いて言えば長距離砲を扱うカァコームの名を――悪名ではあるが――聞いてはいたが、それも先の商都ナーガスの攻城戦を境に消息を絶ったという話であった。

 すなわちデイガンがこの場に意固地に残ったところで、できることなど皆無である。

 (それに、だ)

 所長に対して『それに』に続く言葉を直接口にすることを、デイガンは辛うじて自重した。“部外者”である自分がこの場から去ることで、改めて明かすことのできる(はかりごと)もあるだろうと。

 そもそもコルテラーナと所縁の深い浮遊城塞オーファスの者達ならば何らかの“奥の手”を隠し持っている可能性に、デイガンは賭ける事にしたのである。

 「では、我が移動図書館が宰相をコバル公国までお送りしよう」

 場の騒動が収まるのを見届けたのか、司書長ガザル=シークエが大仰に右腕を振り上げる。バサリと翻るマントは、まさに舞台に幕が降りたかのようにも見えた。

 司書長の芝居めいた宣言を合図に、彼の背後の空間が歪む。まるでオーロラの向こうから現れた蜃気楼であるかのように、唐突に出現した移動図書館がその全容を露わとする。

 「むっ…!」

 流石のデイガンもその異様な登場に僅かにたじろいでみせた。だが、すぐさま何事もなかったように振る舞うことができたのは、今回の会談に赴く際に既に移動図書館による転移を体験済であった為であろう。

 移動図書館の大扉が一人でに開き、ゆったりとした足取りでガザル=シークエがその扉の奥へと消える。その後ろにまず二人の公国の護衛が続き、残った護衛に囲まれる形で最後にデイガン自身が移動図書館に向かった。

 扉の奥に脚を踏み入れる直前、デイガン老宰相は最後に所長とモガミを顧みた。


 「――健闘を祈る」


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